春秋時代173 東周霊王(三十六) 弭兵の会(前) 前546年(2)

今回は東周霊王二十六年の続きです。

[] 『史記・趙世家』はこの年に晋が趙武を正卿にしたと書いています。
趙武は「趙文子」「趙孟」ともいいます。「趙孟」は趙氏の宗主という意味で、かつては趙盾が趙孟とよばれました。趙武の後も趙鞅、趙無恤等が趙孟とよばれます。

宋の左師・向戌は晋の趙武とも楚の令尹・子木とも仲がよかったため、諸侯の戦争を中止させることで名を成そうとしました。
そこでまず晋に行き、趙武に和平を相談しました。趙武が諸大夫と謀ると、韓起(韓宣子)が言いました「兵(戦)とは民の残(民に害を与えるもの)であり、財貨の蠹(木等を蝕む虫)であり、小国の大災であります。誰かが弭(停戦)を主張したら、たとえ実現できないことだとしても、同意しなければなりません。我々が同意せず、楚が同意したら、楚が諸侯を糾合し、我々は盟主の地位を失うことになります。」
晋は和平に同意しました。
 
向戌が楚に行くと、楚も同意しました。
斉に行くと斉人は難色を示します。しかし陳須無(陳文子)が言いました「晋も楚も同意しました。我が国だけ同意できないのはなぜですか。人が弭兵(停戦)を提案しているのに、我々が反対したら、民の離心を招くことになります。そうなったら我々はどうして民を用いることができますか。」
斉も同意しました。
向叔は最後に秦に行き、秦も同意しました。
晋・楚・斉・秦がそれそれの支配下にある小国に伝え、諸侯が宋で会見することになりました。
 
五月甲辰(二十七日)、晋の趙武が宋に入りました。
丙午(二十九日)、鄭の良霄が宋に入りました。
 
六月丁未朔、宋が趙武をもてなします。叔向が宴の介(補佐)になり、司馬が折俎(宴席の料理の一種。犠牲を切って俎に置いたもの)を準備しました。
 
戊申(初二日)、魯の叔孫豹、斉の慶封と陳須無、衛の石悪が到着しました。
甲寅(初八日)、晋の荀盈が趙武に続いて宋に入りました。
丙辰(初十日)、邾悼公が到着しました。
壬戌(十六日)、楚の公子・黒肱(子晳)が令尹・子木より先に入って晋と和平の内容を交渉しました。
丁卯(二十一日)、楚の子木が陳にいたため、向戌が陳に入って子木と和平の内容を交渉しました。
戊辰(二十二日)、滕成公が到着しました。
 
子木が向戌に対して晋に従う国と楚に従う国が両大国を朝見することを希望しました。今後は晋に服従している国も楚に朝見し、楚に服従している国も晋に朝見することを義務付けるという意味です。
 
庚午(二十四日)、向戌が趙武に楚の意志を伝えました。しかし趙武は斉と秦の存在を考慮してこう言いました「晋、楚、斉、秦は同等の国である。晋が斉(晋と同盟しています)を指揮できないように、楚も秦(楚と同盟しています)を指揮できない。楚君が秦君を敝邑に使わすことができるようなら、寡君も斉に対して楚に入朝するように要求しよう。」
 
壬申(二十六日)、向戌が趙武の言葉を子木に伝えました。子木は馹(駅車)を送って楚都の康王に伝えます。康王は「斉と秦をはずし、他の国(中小国)には双方(楚と晋)を朝見させよう」と伝えました。
 
秋七月戊寅(初二日)、向戌が陳から帰りました。その夜、晋代表の趙武と楚代表の公子・黒肱が盟書の言を統一するために打ち合わせをしました。
 
庚辰(初四日)、子木が陳から宋に入りました。陳の孔奐(または「孔瑗」)、蔡の公孫帰生および曹、許の大夫も到着します。各国は兵を率いていますが、営塁を築かず、竹や木の柵だけで境界を作りました。晋は北に、楚は南に駐留します。
晋の大夫・伯夙(一説では荀盈を指すといいます)が趙武に言いました「楚の雰囲気がよくありません。難があるのではないでしょうか。」
趙武が言いました「我々が左に転回して宋に入れば、楚はどうすることもできないはずだ。」
 
辛巳(初五日)、宋の西門の外で盟が結ばれることになりました。
楚人は服の下に甲を着ています。大宰・伯州犁が子木に言いました「諸侯の師を集めながら不信を行うのは、相応しくありません。諸侯は楚に信があることを望んで服従しているのです。我々が不信であったら、諸侯が服従する理由を棄てることになります。」
伯州犁は甲を脱ぐように主張しましたが、子木はこう言いました「晋と楚が信を失って久しい。我々に利がある事をやるだけだ。志を得ることができるのなら、信など必要ない。」
伯州犁は退出してこう言いました「令尹は三年も経たずに死ぬだろう。志を満足することだけを求めて信を棄てようとしているが、それで志を達成できるか?志によって言が発せられ(志は意志、思想の意味で、考えが生まれてから言葉になります)、言は信を生み(言論が生まれたらそれに合う行動が必要になります。それが信です)、信は志を立てる(信によって意志が達成できます)三者(志・言・信)が互いに関連することで、事業を定めることができるのだ。信を失ったら、三に達することができない(三年生きることはできない)。」
 
趙武は楚が甲を着ていることを恐れ、叔向に相談しました。叔向が言いました「何を恐れるのですか。匹夫でも不信を行うことは許されず、不信を行ったら終わりを善くすることができません。諸侯の卿を集めながら不信であったら、勝てるはずがありません。言を守ることができない者は、人に難を与えることもできないので、心配する必要はありません。信を口実にして人を招きながら、不信によって人を利用しようとしても、賛同する者はいません。どうして我々を害することができるでしょう。また、我々は宋によって楚の害から守られています(同盟国の宋で会盟が行われます)(楚が兵を用いたら)晋の士卒は命を棄てて戦い、宋も我々と共に死力を尽くすでしょう。たとえ楚に我々の倍の士卒がいたとしても心配はいりません。しかしそこまで悪いことは起きないでしょう。弭兵を目的に諸侯を集めておきながら、兵を用いて我々を害したら、我々の利が多くなります。憂いることはありません。」
 
以上、『春秋左氏伝(襄公二十七年)』の記述を元にしました。『国語・晋語八』にも趙武と叔向の話が記載されています。
各国諸侯の大夫が宋で盟を結ぶ時、楚の令尹・子木は晋軍を襲おうとしてこう言いました「もし晋師を滅ぼして趙武を殺すことができれば、晋を弱めることができる。」
それを知った趙武は叔向にどうするべきか聞きました。
叔向が言いました「心配することはありません。忠とは暴に脅かされることなく、信は(虚偽に)侵されることがありません。忠が自分の内から生まれ、信が自分の身(行動)から生まれるようなら、その徳は深く、その(基礎)は固いので、人に動かされることはありません。今、我々は忠によって諸侯の安定を謀り、信によってそれを覆うとしています(証明しようとしています)。荊(楚)が諸侯を迎え入れた時も、そのように言って忠・信によって弭兵を行うと言って)ここに来ました。もしも我々を襲ったら、自ら信に背き、忠を塞ぐことになります。信に背けば必ず倒れ、忠を塞げば(諸侯を)用いることができなくなります。どうして我々を害すことができるでしょう。そもそも、諸侯を糾合しながら不信であったら、諸侯の失望を買います。今回、たとえ荊が我々を破ったとしても、諸侯は荊に背きます。子(あなた)はなぜ命を惜しむのですか。たとえ死んでも晋国の盟主の地位を固めることができるのなら、恐れることはありません。」
この会盟で晋は営塁を造らず、水草を得やすい場所に駐留しました。昼も夜も警備を置きませんでしたが、楚は晋が信義を守っていることを恐れ、手が出せませんでした。
この後、平公が死ぬまで晋は楚を憂いる必要がなくなりました。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
魯の季孫宿(季武子)が使者を送り、襄公の命として会に参加した叔孫豹にこう伝えました「魯を邾や滕と同等の国とみなせ。」
暫くして、斉が邾を属国とし、宋が滕を属国にすることを要求しました。邾と滕は他国の属国になったため、会盟に参加しなくなります。
叔孫豹は「邾と滕は他国の属国になった。我が国は列国(独立した諸侯の国)である。なぜ彼等と同等とみなされる必要があるのだ。宋や衛こそが我々と同等な国だ」と言うと、襄公の命を無視して会に参加し、盟を結びました。
属国は主人の国だけに貢物を献上すればいいのですが、独立した諸侯は、晋と楚の和平後、両国に入朝して貢物を献上しなければなりません。それを避けるために襄公や季孫宿は魯を邾や滕と同等にするように命じましたが、叔孫豹には理解できませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代174 東周霊王(三十七) 弭兵の会(後) 前546年(3)