春秋時代184 東周景王(六) 鄭の子産 前543年(3)

今回で東周景王二年が終わります。
 
[] 冬十月、蔡が景公を埋葬しました。
 
[十一] 楚の公子・囲(令尹)が大司馬・蔿掩を殺して家財を奪いました。
 
申無宇が言いました「王子(公子・囲。楚は王を名乗っているので、その子は「王子」になります。「公子」は『春秋左氏伝』等、史書による呼称です)は禍から逃れられない。善人とは国の主である。王子は楚国の相として善を育てなければならないのに、逆にそれを虐げた。これは国に禍をもたらすことだ。しかも司馬というのは令尹の偏(補佐)であり、王の四体(手足)である。民の主を絶ち、自身の偏を去り、王の体を除いたら、国に禍を招き、これ以上大きな不祥はない。難を逃れられるはずがない。」
 
[十二] 宋で火災があったため、諸侯の大夫が会して救済を相談し、宋に財貨を送ることにしました。
諸侯の大夫が澶淵で会します。
『春秋左氏伝』によると、参加したのは「晋の趙武、魯の叔孫豹、斉の公孫蠆、宋の向戌、衛の北宮佗(北宮括の子)、鄭の罕虎と小邾の大夫」ですが、『春秋』経文では更に多く、「晋人、斉人、宋人、衛人、鄭人、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人」となっています。
大夫達が一堂に会しましたが、結局、宋の救済は行いませんでした。
『春秋左氏伝(襄公三十年)』はこの会を「不信(信がない)」と批難しています。
 
[十三] 鄭の子皮が子産に政権を譲ることにしました。
しかし子産は辞退してこう言いました「国が小さくて大国の圧力を受けており、族が大きく寵も多いので(権貴な大族が多いので)、私には無理です。」
子皮が説得して言いました「虎(子皮の名)が彼等を率いて命を聞かせれば、子(あなた)に逆らう者はいません。しっかり国を補佐してください。国に小さいも大きいもありません。たとえ小国でも大国にうまく仕えることができれば、寬となります(余裕ができます)。」
 
子産は子皮に同意して執政を開始しました。
まず公孫段(字は子石。伯石ともいいます)に政務を命じ、同時に邑を贈ります。
子大叔が子産に問いました「国は皆のものです。なぜ彼だけに邑を贈るのですか?」
子産が答えました「無欲になるのは難しいことだ。皆の欲を満足させて命令に従わせ、成功を得ることができるとしたら、それは私の成果となる(事を成就できるかどうかは執政する者がどのように人を使うかにかかっている)。邑を惜しむことはない。邑がどこに行くというのだ(鄭の臣下に邑を与えたとしても、邑は鄭国のものであり、他の国に遷ることはない)。」
子大叔が問いました「四方の国々が批難したらどうしますか?」
子産が答えました「(邑を与えたのは群臣を)互いに反目させるためではなく、皆を従わせるためである。四国を憂いる必要はない(国内が団結すれば諸国が非難することはない)。『鄭書(鄭国の史書』にはこうある『国家を安定させるには、大きい者から始めよ(安定国家,必大焉先)。』まずは大族を安定させて、彼等がどうするかを観よう。」
暫くすると公孫段は不安になって邑を返還しました。
しかし子産はやはりその邑を公孫段に与えました。
 
伯有が死んだため、鄭簡公が大史(太史)に命じて公孫段を卿に任命させました。
大史が公孫段に卿を任命することを伝えると、公孫段は辞退しました。しかし、大史が退席すると、公孫段は大史に会いに行き、再び卿に任命させます。
改めて大史が任命を宣言しましたが、公孫段はまた辞退しました。
これが繰り返され、三回目に公孫段はやっと入朝して任命を受け入れます。
子産はこの後、公孫段を嫌うようになりましたが、乱を恐れて自分のすぐ下に置きました。
 
子産は都(都市部。国都や采邑。大夫・工商が多く住む場所)と鄙(郊外の田地。農民が多く住む場所)の区別をはっきりさせ、上下の秩序に従って職責を与えました。
田地の境界を定め、灌漑を行って水路を増やしました。井田制では九夫(九家の農民)が一つの井戸を共用していましたが、新たな区画が行われたため、廬井の配置も変わります。廬は農舎、井は井戸の意味です。これらが基礎となって税制が整理されました。井田制が崩壊していきます。
 
子産は大人(卿大夫)の中で忠倹の者に親しみ、驕慢奢侈な者を淘汰していきました。
豊巻(字は子張。穆公の子孫)が自分の家の祭祀を行う時、子産に田(狩猟)の許可を求めました。祭品を得るためです。しかし子産は拒否してこう言いました「国君だけが狩猟で得た新鮮な獲物を供えるものであり、衆人の祭祀は、だいたい足りていればそれで充分です。」
怒った豊巻は退席すると兵を集めました。子産は晋に奔ろうとしましたが、子皮が子産を留めて逆に豊巻を放逐します。豊巻は晋に出奔しました。
子産は豊巻の田と里(住居)を没収しないように求め、三年後、豊巻を帰国させて田、里と三年間分の収入を全て返しました。
 
子産が政治を始めて一年目、人々はこう歌いました「我等の衣冠(税)を奪って蓄え、我等の田地を奪って税を課す。誰が子産を殺すのか。私もそれに協力しよう(取我衣冠而褚之,取我田疇而伍之。孰殺子産,吾其與之)!」
しかし三年後にはこう歌うようになりました「我等には子弟がおり、子産が教導する。我等には田地があり、子産が増産させる。もしも子産が死んだなら、誰に跡を継げるのか(我有子弟,子産誨之。我有田疇,子産殖之。子産而死,誰其嗣之)
 
史記・循吏列伝』にも子産について書かれています。
鄭昭公の時代、徐摯が相を勤めていましたが、国政が乱れ、官民も父子も和睦できなくなりました(子産の時代の鄭君は簡公と定公です。昭公は春秋時代初期の国君なので、時代が異なります。また、『春秋左氏伝』には徐摯という人物は登場しません)
大宮子期(鄭の公子。『春秋左氏伝』には登場しません)が国の状況を主君に報告したため、子産が相に任命されました。
子産が相を勤めて一年で、豎子(小人。放蕩者)は遊び歩かず、斑白(老人)は重い物を持たず、僮子(児童)は農耕に従事する必要がなくなりました。
二年後には市の売買が公正になり、三年後には夜も門を閉じる必要がなく、道に落ちた物を拾っても着服する者がいなくなりました。四年後には田器(農具)を持って帰らず、田地に置いたままにしても盗まれなくなります。五年後には士に尺籍(軍令、軍功や決まりが記載された書)が必要なくなり(軍令がなくても士卒の統率がとれるようになったという意味です)、葬事においては指示がなくても礼に則って儀式が行われるようになりました。
 
『説苑・政理(巻七)』にも子産について記述があります。
子産が鄭の相を務めました。簡公が子産に言いました「宮内の政(事務)を外に出すことはない(子産に処理させることはない)。逆に宮外の政(朝廷の政治)を宮内に入れてはならない(子産の政治に口出ししない)。衣裘(衣服)が美しくなく、車馬に装飾がなく、子女の品徳が高尚ではないようなら、寡人の醜(恥。過失)である。しかし国家が治まらず、封疆が不正であれば(国境が安定しないようなら)、それは子(汝)の醜である。」
子産は簡公が死ぬまで相として政治を行い、その結果、国内では乱が起きず、国外では諸侯の脅威がなくなりました。
 
 
 
次回に続きます。