第三回 犬戎が鎬京を騒がし、平王が洛邑に東遷する(後編)

*『東周列国志』第三回の後編です。
 
即位した平王が殿上に昇り、諸侯百官が朝賀しました。
平王が申伯に上殿を命じて言いました「朕は一度廃された者だが、こうして宗祧(宗廟)を継ぐことができた。全て舅氏の力である。」
平王は申伯の爵位を元の申侯(幽王によって侯爵から伯爵に落とされました)から更に進めて申公(公爵)にしようとしました。しかし申伯が辞退して言いました「賞罰が明らかでなければ国政は清くなりません。鎬京が亡んだのに王室を恢復できたのは、諸侯の勤王の功によるものです。臣は犬戎を制御することができず、先王の罪を得てしまったので、万死に値します。賞を受けることはできません。」
申伯が三回固辞したため、平王は伯爵から侯爵の位に戻しました。
衛武公が上奏しました「褒姒母子は寵愛に頼って倫を乱し、虢石父、尹球等は国君を欺いて国を誤らせました。既にその身は滅びましたが、それぞれ追貶(生前の爵位官職を削ること)するべきです。」
平王は上奏を採用しました。
衛侯・和は功績によって職位が侯爵から公爵に進められました。
晋侯・仇には河内にある周王室附庸の地が加封されます。
鄭伯・友は王に仕えて死んだため、「桓」という諡号が贈られ諡号の「桓」には「自分の身を律して恭敬で、民を動かすことができた(克敬動民)」という意味があります)、世子・掘突が父の爵位を継いで伯爵になり、祊田(祊邑の地)千頃を加封されました。
秦君は元々附庸(公・侯・伯・子・男爵の下で、正式な諸侯ではありません)でしたが、加封されて秦伯になり、諸侯に列することになりました。
小周公・咺は太宰の職に就きます。
申后は太后となり、既に死んだ褒姒と伯服の地位は庶人に落とされました。虢石父、尹球、祭公は先代の功績があり、また、王に従って死んだため、本人の爵号が削られただけで、子孫による世襲は許されました。
城内に民を安心させるための標札を立て、京師で被害に遭った百姓(民衆)を慰撫します。
大宴が開かれて群臣が喜び楽しみました。
 
翌日、諸侯が平王に恩を謝しました。平王は衛侯を司徒に、鄭伯・掘突を卿士に任命し、朝廷に留めて太宰・咺と共に輔政させます。
申国と晋国の二君は本国が戎狄に隣接しているため、謝辞を述べて帰国しました。
申侯は鄭の世子・掘突が類まれに見る英毅の人材だと認め、娘を嫁がせました。この女性を武姜といいます。
 
 
犬戎は鎬京に騒乱を招いてから、中国(中原)への道を熟知するようになりました。諸侯に駆逐されたとはいえ、その勢いはまだ衰えていません。その上、幽王を殺した功績があると思っているのに表彰も受けていないため、周王室を怨みました。そこで戎兵を大挙して周の境を侵し、岐豊の地の半分を占有しました。その後も少しずつ鎬京に迫り、毎月、烽火が絶えなくなります。
鎬京の宮闕(宮殿)は乱に遭って焼き払われ、半分も原形を留めていません。淒涼とした廃墟と化しています。平王が入京した時には府庫が既に空になっており、宮室を再建する力もありませんでした。犬戎の入寇も時間の問題です。
そこで平王は洛邑への遷都を考えるようになりました。
 
ある日、朝会が終わってから群臣に問いました「昔、王の祖・成王は、鎬京を都と定めたのに洛邑も経営した。これはなぜだ?」
群臣が声をそろえて言いました「洛邑は天下の中央に位置し、四方から入貢する時、距離が均一になります。そのため、成王は召公に建物の場所を決めさせ、周公に興築させて、東都と号したのです。宮室の制度は鎬京と同じです。朝会(諸侯の朝見)の年になると天子は東都に行幸して諸侯を接見しました。これは民の便を図った政治です。」
平王が言いました「今、犬戎が鎬京に迫っており、禍は予測できない。朕は洛に遷都したいと思うが、どうだろうか?」
太宰・咺が言いました「宮闕が焚毀されましたが再建は困難です。民を労して財を損なえば、百姓の怨嗟を招くでしょう。西戎がその隙を衝いたら防ぐことができません。洛への遷都は便の極みです。」
文武百官も犬戎を心配して「太宰の言の通りです」と言いました。
しかし司徒の衛武公だけは下を向いて長く嘆息します。平王が「老司徒だけ何も言わないのはなぜだ?」と問うと、武公が答えて言いました「老臣は既に九十になりますが、君王が老耄を棄てないおかげで、六卿の位に就くことができました。知っていることを話さないのは国君に対する不忠といい、大衆に逆らって発言するのは友に対する不和といいます。しかし友に対して罪を得ることはあっても、国君に対して罪を負ってはならないので、敢えて言わせてもらいます。鎬京の左には殽函があり、右には隴蜀があり、山河に囲まれ、沃野な地は千里におよび、まさに天下にまたとない形勝の地です。洛邑は天下の中心ですが、地形が平坦で四面から敵を受ける地です。だから先王は両都を建てながら西京に住んで天下の険要を利用し、東都は一時の巡行の備えに留めたのです。我が王が鎬京を棄てて洛に遷ったら、王室の衰弱が始まるでしょう。」
平王が言いました「犬戎が岐豊を侵して奪い、その勢いは猖獗を極めている。しかも宮闕は残毀して壮観を留めていない。朕の東遷はやむを得ないことだ。」
武公が言いました「犬戎は豺狼の性を持っているので、臥闥(寝室)に入れるべきではありませんでした。申公が兵を借りたのは失策です。門を開いて盗賊を招き入れたため、宮闕を焼いて先王を戮(誅殺)させることになってしまいました。犬戎は不共の仇です。王は自ら勉めて強盛になり、倹約して民を愛し、兵を訓練して武力を強化し、先王の北伐南征に倣って戎主を捕え、七廟(宗廟)に献上して前恥を雪ぐべきです。もしも恥を忍んで仇を避けたら(恥を雪がず戎から逃げたら)、我々が一尺退くたびに敵が一尺進むことになり、蚕食(少しずつ蝕むこと)の憂を招きます。その被害は岐豊だけにとどまりません。昔、堯・舜が位にいた時は、茅茨土階(草の屋根と土の土台の粗末な建物)に住み、禹も卑宮(粗末な宮殿)に住みましたが、それを陋(劣った物)とは思いませんでした。京師の壮観は宮室にあるのではありません。王は熟考するべきです。」
太宰・咺が言いました「老司徒の意見は安常(通常)の論であり、通変臨機応変の言ではありません。先王(幽王)が政治を怠けて倫を滅ぼし、自ら寇賊を招きましたが、この事を今更深く咎める必要はありません。今、王は灰燼を除き、名号(王号。王朝による政治)だけは正しましたが、府庫は空で兵も弱く、百姓は犬戎を豺虎のように恐れています。いったん戎騎が長駆してきたら民心が瓦解するでしょう。その時、誤国の責任を誰が負うのですか?」
武公が言いました「申侯は戎を招くことができたのですから、戎を退けることもできるでしょう。王は人を送って確かめるべきです。良策があるはずです。」
群臣の商議が続く中、国舅・申侯が急を告げる表文を送ってきました。大意は「犬戎の侵入が止まず、亡国の禍が迫っています、王が我が国との瓜葛(親戚関係)に念じて救援の兵を発することを伏して乞います」と書かれていました。
平王が言いました「舅氏は自国を守るのに精一杯だ。このような状況で朕を顧みることができるか。東遷は朕が既に決めたことだ。」
平王は太史に東行の日を選ばせました。
 
衛武公が言いました「臣の職は司徒である。主上が突然去ったら民は混乱して離散し、臣は咎から逃れられなくなるだろう。」
そこで武公は標札を建てて民衆に東遷の日を発表し、王に従いたいと思う者には速く準備を済ませるように命じました。
祝史が文を作り、宗廟で祭祀を行って遷都が報告されます。
遷都の日、大宗が七廟の神主を抱えて車に乗り、先導しました。
秦伯・嬴開が平王の東遷を聞いて自ら護衛に駆けつけます。
数えきれないほどの民衆が老幼を助けながら平王に従いました。
 
かつて宣王が大祭の夜に夢で美貌の女子を見ました。女は三回大笑してから三回大哭し、慌てずに七廟の神主を束ねると、悠然と東に去っていきました。三回の大笑とは褒姒が驪山の烽火で諸侯を戯れたことを指します。三回の大哭は幽王、褒姒、伯服の三命が絶たれたことを指します。神主が束ねられて東に向かうのは、まさに東遷の日の事を指します。夢で見たことが全て実現しました。
また、太史・伯陽父がかつてこう言いました「泣いてまた笑い、笑ってまた泣く。羊が鬼に呑まれ、馬が犬に逢って駆逐する。慎め慎め、檿弧箕箙(哭又笑,笑又哭,羊被鬼吞,馬逢犬逐。慎之慎之。檿弧箕箙)。」羊が鬼に呑まれたというのは、宣王四十六年に宣王が鬼に遭って死んだことを指します。その年は己未(羊)の年でした。馬が犬にあって駆逐するというのは犬戎の入寇を指します。幽王十一年は庚午(馬)の年でした。このように西周の滅亡は天数(命数)によって定められていたことでした。また、伯陽父の神占(神業のような占術)もここから知ることができます。
 
東遷後の周はどうなるのか、続きは次回です。