春秋時代199 東周景王(二十一) 魯三桓 前537年(1)

今回から東周景王八年です。二回に分けます。
 
景王八年
537年 甲子
 
[] 魯の季孫宿が中軍を廃すことを考え、施氏(公子・施父の一族)の家で諸大夫と謀議し、臧氏(公子・臧の一族)の家で決定されました。臧氏は司寇を勤めており、当時は兵獄同制(軍と獄を共に治めること)だったため、決定の場所に臧氏の家が選ばれました。
 
春正月、魯が中軍を廃しました。魯軍はこれまで三師で編制されていましたが、左右二師になります。
かつて公室の軍を三分した時、季孫氏、孟孫氏、叔孫氏の三家がそれぞれ一軍を擁しました(東周霊王十年・前562年参照)
それ以前の魯では、国兵は郊遂(国都郊外)から集められ、三家の私兵は自分の邑から集められていました。
三家がそれぞれ一軍を統率するようになった時、季孫氏は郊遂の民(元は公室に属していた民)も私邑の民も自由民とみなし、兵役に参加すれば税を免除し、兵を出さなければ税を二倍にしました。
孟孫氏は管轄下の民(郊遂の民と私邑の民)の半数を臣(奴隷兵)とみなしました。
叔孫氏は管轄下の民を全て臣とみなしました。
 
以上は楊伯峻『春秋左伝注』に記載されている三軍の解説を元にしました(東周霊王十年・前562年にも書きました)。臣(奴隷兵)というのは賦税・兵役の義務を負って自由を許されていた平民とは異なり、領主が自由に使うことができた人々だと思います。
 
三軍の内容に関してはこれ以外にも説があります。
例えば童書業の『春秋史』では、季氏は一軍全ての兵力と税収を自分のものにした、としています。兵役に就くのは国人で、国人は税も納めます。一軍を統率した季氏は、軍の支配権だけでなく、該当する国人から得る税収も全て自分のものにした、という意味です。
季氏が一軍分の兵権と税収全てを掌握したのに対し、孟氏は一軍の子弟の半分を所有した、とします。つまり所有する国人を父兄と子弟(恐らく年長と年少の者)に分け、更に子弟のうちの半分を所有した、という意味です。一軍全体の四分の一になります。
叔氏は一軍の子弟を自分のものにした、つまり一軍のうち約半分にあたる父兄意外の部分を所有した、としていいます。
季氏が一軍丸ごと自分のものにしたのに対し、孟氏、叔氏はそれぞれ一部、または半分を私有し、残りは公室の所有を認めた、というのが『春秋史』の内容です。
 
王貴民等による『春秋史話』は『春秋史』に近い解説がされています。
当時の軍隊は、国内の平民、農民が兵となり、奴隷は雑役を担当しました。国民は普段は農業等を営み、戦時になると召集されます。各戸ごとに一人の兵を出し軍籍に編入されました。軍籍者は車馬や糧食などの「軍賦」も提供する必要があります。
軍を掌握するというのは、兵士を指揮するだけではなく、「軍賦」による財政源も得ることになります。
魯の三桓は、もともと公室が所有していた軍権を三桓に移し、元から所有していた自分の兵力と国軍を統合して、軍隊組織を改編しました。
季氏は自分が掌握することになった軍籍者から得る「軍賦」を全て自分のものとして徴収し、そこから一部を公室に納めることにしました。もしも季氏に所属する人々がそれに従わない場合は、季氏と公室の両方に税を納めさせました。国人からみたら二倍の納税になります。
叔孫氏は軍籍者の子弟から「軍賦」を徴集し、残りは公室に納めさせました。
孟氏は軍籍者の子弟の半分を自分のものとし、残りは公室に納めさせました。
 
以上、魯の三軍の説明でした。『春秋左氏伝』の記述に戻ります。
今回、中軍が廃止されることになり、郊遂が四分されました。季氏がそのうちの二つを、孟孫氏と叔孫氏がそれぞれ一つを管轄下に置きます。
二師のうち左師は季孫氏が、右師は孟孫氏が統率し、叔孫氏はこれとは別の兵を擁すことになりました。
全ての民が自由民となり、軍賦(兵役と軍事品の提供)か田賦の義務が課されました。それらは三家が徴収し、三家から収入の一部を公室に納れることになりました。公室が直接管理する民はいなくなり、ますます三桓の権力が大きくなります。
 
[] 魯の季孫宿が杜洩に書信を送り、叔孫豹の棺に向かってこう報告させました「子(あなた)が中軍を廃したいと思っていたので、既に廃しました(前年の竪牛の言葉です)。よってここに報告します。」
しかし杜洩は「夫子(叔孫豹)は中軍の廃止に反対していたから、僖閎(僖公廟の大門)で盟を結び、五父の衢(大通の名)で呪詛を行ったのだ(東周霊王十年・前562年参照)」と言い、書信を投げ捨てて士(部下)と共に哀哭しました。
 
叔仲帯(叔仲昭伯。叔仲子)が季孫宿に言いました「帯(私)は子叔孫(叔孫氏の主。前年餓死した叔孫豹)から『寿命で死ななかった者は(霊柩を)西門から出せ』と命じられています。」
叔仲帯は叔孫豹が竪牛によって餓死させられたことを知っていたため、叔孫豹の命令を守って霊柩を西門から墳墓に運ぼうとしました。
季孫宿がこれを杜洩に命じると、杜洩はこう言いました「卿の葬送は朝門(正門。南門)から出すのが魯の礼です。吾子(あなた)は国政を行い、今までの礼を変えてもいないのに、今回は勝手に変更するのですか。群臣は死を畏れることがあっても、従うことはありません。」
杜洩は叔孫豹の埋葬を終えると、季孫氏の難を恐れて楚に出奔しました。
 
叔孫豹の子・仲壬が斉から魯に帰りました。季孫宿が仲壬に叔孫氏を継がせようとしましたが、南遺が反対して言いました「叔孫氏が厚くなれば季氏が薄くなります。彼等の家に乱が起きている今、子(あなた)が関与することはありません。」
南遺は国人(城邑に住む人)を送って豎牛を助け、大庫の庭(国庫の前庭。もしくは「大庭氏の庫」。大庭氏は古代の国名で、曲阜城内に廃墟があり、魯はそこに倉庫を建てていたようです)で仲壬を襲わせました。司宮(内官。宦官)が射た矢が仲壬の目に当たり、仲壬は死んでしまいました。
豎牛は東境の三十邑を南遺に贈りました。
 
叔孫昭子。叔孫豹の庶子が叔孫氏を継ぐことになりました。
叔孫家衆を召すとこう言いました「豎牛は叔孫氏に禍をもたらし、大いに秩序を乱した。適(嫡子)を殺して庶庶子を立て、しかも邑を分裂させて罪から逃れようとしているが(南遺に邑を与えて協力を求めているが)、これ以上大きな罪はない。速やかに誅殺すべきである。」
豎牛は恐れて斉に奔りましたが、孟丙と仲壬の子が塞関(魯と斉の国境)の外(斉領)で竪牛を殺し、その首を寧風(斉地)の棘の上に投げ捨てました。
 
かつて叔孫豹(穆子)が産まれた時、父の叔孫得臣(荘叔)が『周易』に基づいて卜筮を行いました。「明夷」が「謙」に変わるという卦が出ます。これを楚丘に見せると、楚丘はこう言いました「この子は将来、出奔しますが、帰国して子(あなた)の祭祀を行うでしょう。讒人(悪人)を連れて帰国します。その名は牛といいます。最後は餓死するでしょう(楊伯峻の『春秋左伝注』に卦の解説がありますが、難しいので省略します)。」
全て楚丘の予言通りになりました。
 
[] 楚の大夫・屈申(または「屈伸」)が呉と通じたため、霊王に殺されました。
 
屈生(屈建)が莫敖に任命されました。
霊王は屈生と令尹・子蕩に命じて晋女を迎えに行かせました。前年、婚姻の約束をしたからです。
子蕩一行が鄭に至ると、鄭簡公が氾で子蕩を、菟氏で屈生を慰労しました。
 
晋平公が自ら娘を邢丘まで送りました。
子産が鄭簡公を相(補佐)となり、邢丘で晋平公と会見しました。
 
[] 魯昭公が晋に入りました。郊労(大国が小国の使節を郊外で労い、国に迎え入れる儀式)から贈賄(大国から小国に礼物を送る儀式)まで、昭公は礼に則って行動します。
晋平公が女叔斉に言いました「魯侯は礼を善く理解している。」
すると女叔斉が言いました「魯侯は礼を理解していません。」
平公が言いました「なぜだ?郊労から贈賄まで、無礼がなかったではないか。」
女叔斉が言いました「それは儀(儀式。儀礼というものであり、礼ではありません。礼とは、国を守り、政令を行きとどかせ、民を失わないためにあるのです。今、魯の政令は家(卿大夫)にあり、取り戻すことができません。魯には子家羈(字は駒。懿伯。荘公の玄孫)が居るのに、用いることができません。大国の盟を犯して小国を虐げ(莒を攻めて鄆を取りました。東周景王四年・前541年参照)人の難を利としながら(莒の乱を利用してを取りました。前年参照)、自分の難を知りません。公室を四分したので、民は他(公室以外の者。三桓)に養われています。民心に公はなく、国君は将来を考えず、国君でありながら、禍難が近づいているのにその地位を心配していません。礼の根本はここ(国を守ること。政権を保つこと。民心を失わないこと)にあるのに、小さな儀を学ぶことに必死では、礼を理解するにはほど遠いと言わざるをえません。」
 
 
 
次回に続きます。