第七回 公孫閼が考叔を射ち、公子翬が隱公を殺す(後編)

*『東周列国志』第七回後篇です。
 
帰国した鄭荘公は瑕叔盈に厚い賞を与えました。
潁考叔を忘れることができない荘公は矢を射た者を憎みましたが、誰が矢を射た犯人か分かりません。そこで従軍した兵に命じ、百人を一卒として豚一頭を出させ、二十五人を一行として犬・鶏各一匹を出させました。豚、犬、鶏が集まると、それらを犠牲にし、巫史に文を書かせて呪詛させます。潁考叔を殺した者を呪うためです。
それを知った公孫閼は隠れて笑っていました。
 
呪詛は三日間続きました。
鄭荘公が諸大夫を率いて様子を見に行きます。すると、巫史が祝文(呪詛の文)を焼いた時、髪を乱して汚れた顔をした男が鄭伯の前に進み出て跪き、泣きながら言いました「臣・考叔は先に許城に登りました。国に対してやましいことはありません。しかし奸臣・子都が車を奪われた仇によって冷箭で臣を殺しました。臣は既に上帝に請い、臣命を償うことが許されました。主君の垂念(思い。温情)を蒙ることができるのなら、九泉(死後の世界)でも徳(恩恵)を忘れません。」
男は言い終わると自ら喉を刺しました。喉から血が噴出してその場で息が絶えます。
荘公が誰か確認すると、公孫閼でした。急いで助けるように命じましたが目を覚ましません。
公孫閼は潁考叔の魂に操られ、鄭伯の前で自分の罪を明らかにして自尽したようです。
荘公は嘆息が止まらず、潁考叔の霊を慰めるため、潁谷に廟を建てることにしました。河南府(明清時代の名称)登封県が潁谷の故地で、今(明清時代)も潁大夫廟が残されています。またの名を純孝廟ともいいます。洧川にも廟があります。
 
 
荘公は戦に協力した斉と魯に礼幣を贈りました。
斉に行った使者は任務を果たして還ります。しかし魯国に向かった使臣は礼幣を持ち帰りました。信書も開かれていません。
荘公が理由を聞くと、使者はこう言いました「臣が魯の国境に入ったばかりの時、魯侯(隠公)が公子・翬に弑殺されて既に新君が立ったと聞きました。国書を渡すには相応しくなく、軽々しく礼物を贈るべきでもないと考えたので、引き返しました。」
荘公が問いました「魯侯は謙讓寬柔な賢君だった。なぜ弑殺されたのだ?」
使者が言いました「詳細を聞いてきました。魯の先君・恵公は元妃(正妻)が早死したため、寵妾の仲子を継室(後妻)に立てました。仲子は軌という子を産み、恵公はこれを後嗣に立てようとしました。魯侯(隠公)は他の妾の子です。恵公が死んだ時、群臣は魯侯(隠公)が年長者だったため国君に奉じました。しかし即位した魯侯は父の意志を受け継ぎ、いつもこう言っていました『この国は軌の国だ。軌がまだ幼いから寡人が暫く代わりに政治を行っているのだ。』
ある時、子翬が太宰の官を求めましたが、魯侯はこう言いました『軌が君位に即いてから、汝が自ら求めよ。』しかし公子・翬は魯侯が軌を警戒していると思い、秘かに魯侯に言いました『「利器を手にしたら人に貸してはならない(利器入手,不可假人)」といいます。主公は既に爵位を継いで国君になり、国人も喜んで服しています。千歳の後(死後)、その位は子孫に継がせるべきです。なぜ居攝(摂政)の名で人々の非望(望まないこと)を招くのですか。今、軌は既に成長しました。将来、恐らく主公にとって不利になるでしょう。臣が彼を殺して主公の隠憂(隠れた憂い)を除きましょう。』
すると魯侯は耳を塞いで言いました『汝は痴狂(白痴・狂人)ではないのに、なぜそのような乱言を口にするのだ。わしは既に人を送って菟裘に宮室を築いた。養老を図るためだ。数日後には国君の位を軌に譲ることになるだろう。』
翬は黙って退出しましたが、失言を悔いました。もしも魯侯がこの話を軌に告げたら、軌が即位してから罪を裁くことになります。そこで翬は深夜の間に軌に会いに行き、こう言いました『主公はあなたが成長したのを見て位を争うことを恐れています。今日、私を宮内に招き、あなたを害すように秘かに命じました。』
これを信じた軌は恐れてどうすればいいか問いました。翬が答えました『彼には仁がなく、私には義がありません(原文「他無仁,我無義」。恐らく「主公は軌に対して仁がなく、私は軌に対して忠義を守る必要がないので、主公に命じられたら軌を殺さなければならない」という意味)。公子が禍から逃れたいのなら、大事を行わなければなりません。』
軌が言いました『彼が国君になって既に十一年が経ち、臣民が信服しています。大事が成功しなかったら、逆に禍を受けるでしょう。』
翬が言いました『実は既に公子のために計を定めました。主公は即位する前に、鄭君と狐壤で戦って捕えられたことがあります。その時、鄭の大夫・尹氏の家に幽閉されました。尹氏は以前から一神を祀っており、その名を鐘巫といいます。主公も秘かに鐘巫を祈祷し、魯国に逃げ帰る計画を練って卜ったところ、吉と出ました。主公がそれを尹氏に話すと、ちょうど尹氏も鄭で志を得ることができなかったため、主公と共に魯に逃走しました。こうして鐘巫の廟が城外に立てられ、毎年冬月(十一月)、主公自ら祭りに参加するようになったのです。今はまさにその時です。祭りの時、主公は大夫の家に住みます。私が事前に勇士を選んで徒役の姿にさせ、主公の近くに住ませましょう。主公に疑われる心配はありません。主公が熟睡するのを待って刺殺すれば、一夫の力でも成功できます。』
軌が言いました『確かに善計です。しかし悪名を得ることになるでしょう。』
翬が言いました『主公を殺した後、勇士に逃走するように命じておけば、犯人がわからないので罪は大夫に着せられます。』
子軌が下拝して言いました『大事が成功したら太宰の職を任せましょう。』
子翬は計画を実行して魯侯を弑殺しました。今は既に軌が国君の跡を継いでいます。また、翬を太宰に任命し、氏を討伐して国君弑殺の罪を国人に説明しました。国人は翬の陰謀だと知っていますが、その権勢を恐れて敢えて口にしないのです。」
荘公が群臣に意見を求めました「魯を討伐するべきか、魯と和すべきか?」
祭仲が言いました「魯と鄭は代々友好関係にあるので和すべきです。近々魯国の使者が到るでしょう。」
言い終わる前に魯の使者が館駅に到着したという報告が来ました。荘公は人を送って訪問の意図を確認します。
魯の使者が言いました「新君が即位したので、先君の友好を修めるために来ました。両国の君が会見して盟を結ぶ日を約束させてください。」
荘公は厚い礼物を使者に贈り、夏四月中に越の地で魯君と会って友好の盟を結ぶことを約束しました。
この後、魯と鄭の信使は絶えることがなくなります。周桓王九年の事です。
 
 
話は宋と鄭の関係に移ります。
宋穆公の子・馮は周平王末年に鄭に奔ってから今に至るまで鄭国に留まっていました。
ある日、このような情報が鄭に入りました「宋の使者が鄭に向かっており、公子・馮を帰国させて国君に立てるつもりです。」
鄭荘公が言いました「宋の君臣は偽って馮を呼び戻し、殺害するつもりではないか?」
祭仲が言いました「とりあえず使臣に会ってみましょう。国書があるはずです。」
 
宋の国書には何が書かれているのか。続きは次回です。