春秋時代210 東周景王(三十二) 鄭簡公の葬送 前530年(1)

今回から東周景王十五年です。三回に分けます。
 
景王十五年
530年 辛未
 
[] 春、斉の高偃(高が兵を率いて斉に出奔していた北燕伯・款(燕簡公。または「恵公」。東周景王六年・前539年参照)を陽(または「唐」。燕の地)に入れました。陽の民衆が迎え入れたためです。
 
これは『春秋左氏伝(昭公十二年)』の記述です。『史記』の『十二諸侯年表』と『燕召公世家』を見ると、恵公(『史記』では恵公。簡公は『春秋左氏伝』の記述)は五年前の東周景王十年(前535年)に燕に帰国して死に、悼公が即位したと書かれています。

『春秋左氏伝』で簡公が登場するのはこれが最後です。この後の事は分かりませんが、恐らく陽の地で死んだと思われます。
 
[] 三月壬申(二十七日)、鄭簡公が在位三十六年で死に、子の寧が立ちました。定公といいます。
 
簡公の葬送のために道を清めて障害になる物を除きました。游氏(子太叔)の廟が喪車の通り道にあたっていたため、取り壊しが命じられます。しかし子太叔は徒衆に道具を持って立たせるだけで、作業を開始せず、こう指示しました「子産がここを通ってなぜ作業を始めないのか尋ねたら、汝等はこう言え『廟を取り毀すのが忍びないのです。しかしわかりました。作業を始めます。』」
子産が視察に来た時、徒衆が言われた通りに話すと、子産は游氏の廟を避けて通る道を選び直すことにしました。
司墓(公族の墓を管理する官)の家も葬送の障害になっていました。家を撤去すれば朝のうちに埋葬が終わりますが、撤去しなければ遠回りになるため、日中(正午)までかかります。
子太叔が司墓の家を取り壊すように請い、こう言いました「撤去しなければ、諸侯の賓客に対して申し訳が立ちません(葬送が昼までかかるのは誰も望んでいません)。」
しかし子産はこう言いました「遠くからわざわざ我が国の葬儀に参加しに来た諸侯の賓客が、日中になることを心配すると思うか(賓客にとっては朝も昼も変わらないだろう)。賓客を損ねず、民を害すこともない方法があるのなら、それを選択するべきだ。」
司墓の家は撤去されず、正午に簡公の埋葬が終わりました。
君子(知識人)は子産をこう評価しました「子産は礼を理解している。礼をわきまえた者は、人を害して自分の事を成そうとはしないものだ。」
 
[] 夏、宋が華定を魯に送って聘問しました。宋元公が二年前に即位したことを報告し、併せて魯との関係を強化することが目的です。
 
魯が華定を宴に招いて『蓼䔥詩経・小雅)』を賦しましたが、華定は賦で応えることができませんでした。
『蓼䔥』の詩には『宴会の楽しい話を忘れることはない(燕笑語兮,是以有誉処兮)』『君子に会ったことを、栄光としよう(既見君子,為龍為光)』『互いに兄弟とよびあい、美徳と長寿に限りがない(宜兄宜弟,令徳寿凱)』『万福を共にしよう万福攸同)』等の句があります。
華定が『蓼䔥』に応えなかったというのは、宴会を忘れ、栄光を宣揚せず、美徳を知らず、同じ福を受け入れなかったことになります。
魯の叔孫昭子)が言いました「彼は亡命することになるだろう。宴会の語(談笑)を心に留めず、寵光(栄光)を宣揚せず、美徳を知らず、同福を受け入れないのに、どこで存続できるというのだ。」
 
[] 斉景公、衛霊公、鄭定公が晋に行きました。晋の新君・昭公が即位したためです(『春秋左氏伝』では夏の事のようですが、『史記・鄭世家』は秋に鄭定公が晋に入朝したとしています。)
 
魯昭公も晋に向かいました。
二年前に魯がを占領した時、莒人が晋に訴えましたが、晋は平公の喪のため解決できませんでした。そこで今回、晋は魯昭公の入朝を拒否しました。
魯昭公は黄河で引き返し、公子・憖(大夫)を晋に送りました。
 
晋昭公が諸侯を享(宴の一種)に招きました。鄭定公の相(補佐)を勤める子産は、簡公の喪中のため享の参加を辞退し、喪が明けてから晋の命を聞くことを請いました。晋はこれに同意しました。
 
晋昭公が斉景公を宴に招きました。荀呉(中行穆子)が晋昭公の相を勤めます。
二公が投壺(矢を投げて壺に入れる遊び)を始めました。晋昭公が先に投げるために矢を持つと、荀呉が祈りました「酒は淮水のように流れ、肉は丘のように積まれる。寡君が命中させたら、諸侯の師(長)となる(「有酒如淮,有肉如坻,寡君中此,為諸侯師。」古音では淮・坻・師が韻を踏んでいます)。」
晋昭公の矢は壺に入りました。
斉景公が矢を持って祈りました「酒は澠水のように流れ、肉は山陵のように積まれる。寡人が命中させたら、貴君に代わって振興する(「有酒如澠,有肉如陵,寡人中此,與君代興。」古音では澠・陵・興が韻を踏んでいます)。」
斉景公の投げた矢も壺に入りました。
士伯瑕(士文伯)が荀呉に言いました「子(あなた)の言葉には誤りがありました。我々は元々諸侯の師です。壺に入ったところで何の意味もありません。斉君は我が君を軟弱とみなし、今回帰国したら二度と来なくなるでしょう。」
荀呉が言いました「我が軍の帥(統帥)が強く、卒(兵)が勤勉なのは、今も昔も変わりません。斉に何ができるというのですか。」
堂下で控えていた斉の大夫・公孫傁は、晋の卿の話を聞いて晋と斉の関係が悪化することを畏れました。そこで小走りで進み出て「もう遅くなりました。主公もお疲れのはずです。退席しましょう」と言うと、斉景公を連れて退出しました。
 
[] 五月(『春秋』経文は「五月」ですが、『左氏伝』は「六月」としています)、鄭が簡公を埋葬しました。
 
[] ある人が楚霊王に大夫・成熊(または「成虎」。あるいは熊が名で虎は字。以前の令尹・子玉の孫)を讒言しました。成熊はそれを知って亡命しようとしましたが、霊王に殺されました。処刑の理由は「成熊は七十年以上前に滅ぼされた若敖氏(東周定王二年・前605年参照)の余党だった」というものでした。
 
[] 晋の荀呉が斉軍と会すふりをして鮮虞に道を借り、昔陽(鼓国の都城に入りました。但し、駐軍しただけで占領はしていません。
秋八月壬午(初十日)、晋軍が肥国を滅ぼし、肥子・緜皋を連れて引き上げました。
 
[] 周の原伯・絞(大夫・原公)が暴虐だったため、多くの人が逃走しました。
冬十月壬申朔、原の人々が原伯・絞を駆逐し、公子・跪尋(絞の弟)を立てました。原伯・絞は郊(周の地)に逃げました。
 
[] 周の卿士・甘簡公には子がいなかったため、弟の過が継ぎました。これを悼公といいます。
悼公が成公と景公(どちらも甘の先君)の家族を除こうとしまたため、成公と景公の家族はもう一人の卿士・劉献公(劉定公の子)に賄賂を贈って悼公の暗殺を頼みました。
丙申(二十五日)、甘悼公が殺されました。成公の孫・鰌が立てられます。これを平公といいます。
丁酉(二十六日)、献太子(恐らく周景王の太子・寿)の傅(教育官)・庾皮の子・庾過が殺されました。
更に市で瑕辛が殺され、宮嬖綽、王孫没、劉州鳩、陰忌、老陽子(六人とも周の大夫)も殺害されました。全て悼公の党だったためです。
 
 
 
次回に続きます。