第十回 楚熊通が王を称し、鄭祭足が庶子を立てる(中編)

*『東周列国志』第十回中編です。
 
楚が主催する会盟の期日になり、巴、庸、濮、鄧、、絞、羅、鄖、貳、軫、申、江の諸国が集まりました。しかし黄と隨の二国は参加しません。
楚子(熊通)章を派遣して黄国を譴責すると、黄子は使者を送って謝罪しました。
楚子は屈瑕を派遣して隨も譴責しましたが、隨侯は服従しません。熊通は隨討伐の兵を挙げました。楚・随両軍が漢・淮二水の間に布陣します。
 
隨侯が群臣を集めて策を聞くと、季梁が言いました「楚は最近、諸侯を集めて会盟を開いたばかりです。その兵は鋭気に満ちているので、軽率に戦ってはなりません。辞を低くして講和を請うべきです。楚がとりあえずこちらの要求を聞き、旧好を修復することができるなら、それで充分でしょう。もし要求を聞かなかったら曲(非)は楚にあります。また、楚は我々の辞(言葉)が卑(へりくだっていること)であることに騙され(原文「楚欺我之辞卑」。理解が困難なので意訳しました)、士卒に怠心が生まれています。逆に要求を拒否された我が軍の士卒には怒気が生まれます。我が軍に怒気があり、彼等に怠心があれば、一戦して僥幸(幸運)を得ることもできるかもしれません。」
傍にいた少師が袖を振るって言いました「汝は憶病すぎる!楚人は遠くから来た。自ら死にに来たのだ!もし速戦しなければ、楚人は前回のようにまた逃げてしまうだろう。それが惜しくないのか!」
隨侯は少師の言に惑わされ、少師を戎右に、季梁を御者に任命しました。随侯自ら出征して青林山の下に陣を構えます。
 
季梁が車に登って楚軍を眺め、隨侯に言いました「楚兵は左右二軍に分かれています。楚の俗では左が上なので、その君は必ず左にいます。国君がいる場所には精兵が集まっているので、右軍に攻撃を集中させてください。もし右軍が敗れたら、左軍も士気を喪失します。」
しかし少師がこう言いました「楚君を避けて攻撃しなかったら、楚人に笑われるでしょう。」
隨侯はまず楚の左軍を攻撃しました。
楚軍は陣を開いて隨軍を誘い入れます。隨侯が楚陣に殺到した時、楚の伏兵が四面から襲いかかりました。楚軍は勇猛精強な兵がそろっています。少師は楚将・鬥丹と戦い、十合もせずに車から落とされて斬られました。
季梁が隨侯を守って死戦しましたが、楚兵が退こうとしないため、隨侯は戎車を棄て、微服(庶民の服)で小軍(兵卒)の中に紛れ込みました。季梁は血路を切り開いて厚い包囲から脱出しました。
逃げ戻った随侯が残った兵を数えると、十分の三四しかいません。隨侯が季梁に言いました「孤(国君の自称)が汝の言を聞かなかったためにこうなってしまった。」
随侯が「少師はどこだ?」と問うと、ある軍人が少師の戦死するところを見たと報告しました。隨侯の嘆息が止まないため、季梁が言いました「彼は国を誤らせました。国君は何を惜しむのですか?今やるべきことは、速やかに講和することです。」
隨侯が言いました「孤はこれから国を挙げて子(汝)の言に従おう。」
こうして季梁が楚に陣に入って和を求めました。
しかし熊通が激怒して言いました「汝の主は盟に背いて会に参加せず、兵を用いて抵抗した。今になって兵が敗れたので講和を求めに来たが、誠心ではない。」
季梁は顔色を変えず、平然と言いました「かつては奸臣の少師が寵に頼って功を貪り、寡君に強く勧めて陣を構えさせました。対立は寡君の心意ではありません。今、少師は既に死に、寡君もその罪を知ったので、下臣を派遣して麾下で稽首させたのです。貴君が寛大な態度をとるのなら、漢東漢水東)の君長を率いて朝夕に渡って貴国の朝廷に侍り、永遠に南服(楚は随の南に位置するので、南に服すことになります。北服は周に服すという意味になります)しましょう。貴君の裁きに委ねます。」
鬥伯比が言いました「天意は隨を滅ぼすつもりがないので、諛佞を除いたのです。隨はまだ滅ぼすことができません。講和を許可し、漢東の君長を率いて楚の功績を周に伝えさせ、蛮夷を鎮服することを名目に位号爵位。王号)を求めれば、楚によって不利なことはありません。」
熊通は納得し、章を使って非公式に季梁に伝えました「寡君(楚君)は江漢を占有しており、位号を借りて蛮夷を鎮服するつもりです。もし上国(貴国)の恩恵を得て、群蛮を率いて周室に請い、幸いにも位号を得ることができたら、寡君の栄は上国がもたらしたことになります。寡君は兵を休めて命を待ちます。」
季梁は帰国して隨侯に報告しました。隨侯はやむなく楚の要求に同意します。
 
随侯は漢東諸侯の意として楚の功績を称え、周王室に対して楚に蛮夷を鎮圧させるように求めます。楚に権威をつけるため、楚に王号を与えることも要求しました。
しかし周桓王は楚に王号を与えることを拒否します。
それを知った熊通が怒って言いました「わしの先人・熊鬻は二王西周文王・武王)を輔導した功労があるのに、遠く荊山の微国(小国)に封じられただけだ。今、我が地は拡がり民も増えた。蛮夷で臣服しない者はいない。それなのに王が位を加えないのは賞を行わないのと同じだ。また、鄭人が王の肩を射たのに王は討伐できない。これは罰を行わないのと同じだ。賞が無く罰も無いのに真の王といえるか!そもそも王号は我が先君・熊渠が自ら称したものだ。孤が旧号を光復するのに、なぜ周の同意を必要とするのだ?」
こうして熊通は軍中で王号を称しました。楚武王といいます。
その後、楚武王は隨と盟を結んで去りました。
漢東諸国が使者を送って武王を祝賀します。
 
周桓王は楚に対して怒りを覚えましたが、如何しようもありません。この後、周室はますます弱くなり、楚はますますはばかることを知らなくなります。
熊通の死後、子の熊貲が都を郢に遷しました。その頃から群蛮を率いて頻繁に中国(中原)を侵犯するようになります。もしも後の召陵の師や城濮の戦いがなかったら、その勢いは止めることができなかったはずです。
 
 
 
*『東周列国志』第十回後編に続きます。