第十四回 衛侯朔が入国し、斉襄公が狩りで鬼に遭う(中編)

*『東周列国志』第十四回中編です。
 
斉襄公は車五百乗を動員し、衛侯・朔と共に先に衛境に至りました。四路の国君もそれぞれ兵を率いて合流します。四路の諸侯とは、宋閔公・捷、魯荘公・同、陳宣公・杵臼、蔡哀侯・献舞です。
 
衛侯・黔牟は五国の兵が迫っていると聞き、公子・洩、公子・職と相談しました。同時に大夫・寧跪を周に送って急を告げます。
周荘王が群臣に問いました「誰かわしのために衛を救う者はいないか?」
周公・忌父と西虢公・伯が言いました「王室が鄭を討伐して威を損なってから、号令が行われなくなりました。今、斉侯・諸児は王姫との一脈の親(親族の情)を想うことなく、四国を糾合して国君を帰らせることを名分としています。名順兵強(名分があり兵が強い)の相手と敵対してはなりません。」
すると左に並ぶ群臣の中から最も後ろの一人が進み出て言いました「二公の言は誤りです。確かに四国は兵強ですが、なぜ名順(名分がある)といえるのですか?」
群臣の視線が集中した先には下士の子突がいました。
周公が言いました「一人の諸侯が国を失い、他の諸侯がそれを帰らせることが、なぜ不順なのだ?」
子突が言いました「黔牟の即位は既に王命を得ています。王が黔牟を立てたのですから子朔を廃すのは当然です。二公は王命を順とせず、諸侯の行いを順とするのですか?突には理解できません。」
虢公が言いました「兵戎(戦)の大事は自分の力を量ってから行うものだ。王室が振るわなくなったのは一日(最近)のことではない。鄭討伐の役では先王が自ら軍中にいたのに祝聃の矢に中った(周王が親征したのに敗戦した)。あれから二世になるが、まだ罪を問うことができない。今回、四国の力は鄭の十倍にもなるだろう。孤軍で援けに行っても卵で石を打つようなものだ。いたずらに威を損なって何の益があるというのだ?」
子突が言いました「天下の事は、理が力に勝つことが常(常道。道理)であり、力が理に勝つことは変(変則。変異)というべきです。王命がある所に理は集まります。一時の強弱は力によって左右されますが、千古の勝負は理によって決められます。もし理を無視しても志を得ることができるのなら、理について問う者がいなくなり、千古の是非が転倒して天下に王の必要がなくなります。諸公は何の面目があって王朝の卿士を号しているのですか。」
虢公が何も言えなくなったため、周公が言いました「今日、衛を救う師を興すとしたら、汝が任を全うできるか?」
子突が言いました「九伐の法は司馬が掌握しています。突は位が低く才も劣るので、その任に堪えることができません。しかし誰も行く者がないというのなら、突は命を惜しみません。司馬に代わって出征することを願います。」
周公が問いました「汝が衛を援けたら、必ず勝つ保証があるか?」
子突が言いました「突が今日出師するのは、理が勝っているからです。もしも文王・武王・宣王・平王の霊(福。助け)を得て仗義執言(正義を行い道理を語ること)し、四国が罪を反省するようなら、それは王室の福です。突が保証できることではありません(理のために出征するのであって、勝利を保証して出征するのではありません)。」
大夫・富辰が言いました「突の壮言は試すに値します。王室にも人がいることを天下に知らしめましょう。」
周王はこれに従い、寧跪を先に帰らせて王師出征の準備を始めました。
しかし周公と西虢公は子突の成功を嫌い、戎車二百乗しか与えませんでした。それでも子突はひるむことなく、太廟に別れを告げて出発します。
 
この時、五国の兵は既に衛の城下に至り、包囲攻撃を繰り返していました。
公子・洩と公子・職は昼夜巡守し、王朝の大軍が現れるのを待っています。
しかし援軍として到着したのは子突が率いるわずかな兵でした。五国の虎のような軍勢に対抗できるはずがありません。子突が営を築く前に五国の兵が殺到します。二百乗の兵車は熱湯をかけられた雪のように消滅しました。
子突は嘆息して「私は王命を奉じて戦死する。忠義の鬼(霊)としてその名を留めることができただろう」と言うと、自ら敵兵数十人を殺してから自刎しました。
 
衛城を守る軍士は王師が破れたと知って逃走します。
斉兵がまず城壁を登り、四国の兵が後に続きました。城門が開かれ、衛侯・朔が入城します。
公子・洩と公子・職は寧跪と共に散兵を集め、公子・黔牟を擁して城を出ましたが、ちょうど魯軍に遭遇しました。死戦を繰り広げる中、寧跪は路を探して逃走します。しかし三公子は魯兵に捕まりました。
寧跪は自分の力が及ばず三公子を援けることができないと判断し、嘆息して秦国に奔りました。
魯侯は三公子を衛に献上します。衛は処罰に困り、斉に献上しました。
 
斉襄公は刀斧手に命じて洩と職の二公子を斬首させました。
公子・黔牟は周王の婿であり、斉とも連襟(婚姻関係)の情があるため、処刑せず周に送りました。
衛侯・朔が鐘を鳴らし鼓を打って再び国君の位に登ります。府庫の宝玉が斉襄公に贈られました。
それを受け取った襄公は「魯侯が三公子を捕えた。その労(功)は浅くない」と言って半分を魯侯に贈ります。同時に使者を派遣して衛侯に更に多くの財物を供出させ、宋、陳、蔡の三国に分け与えました。
これは周荘王九年の事です。
 
 
襄公は子突を破って黔牟を放逐してから、周王の討伐を恐れました。そこで大夫・連称を将軍に、管至父を副将に任命し、葵邱を守って周から東南に向かう路を塞がせました。
二将が出発する時、襄公に言いました「戍守の労苦を辞することはありませんが、いつが満期かをお決めください。」
この時、襄公はちょうど瓜を食べていたため、こう言いました「今は瓜が熟す時だ。来年、瓜が再び熟す頃、人を送って汝等と交代させよう。」
二将は葵邱に駐軍しました。
 
瞬く間に一年が過ぎ、戍卒(守備の兵)が新しく実った瓜を献上しました。二将は瓜の約束を思い出し、「交代の時が来たのに主公はなぜ人を送って来ないのだろう?」と言って腹心に探らせました。
戻った腹心は斉侯が穀城で文姜と歓楽に耽っており、一月も国都に帰っていないと報告します。
連称が怒って言いました「王姫が薨(死亡)したのだから我が妹(従妹。連妃が室(正妻)を継ぐべきなのに、無道な昏君は倫理を顧みず、日々、外で淫媟(淫蕩猥褻)に耽り、我々を辺鄙(辺境)に曝している。彼を殺すべきだ。」
連称は管至父に協力を求めて「汝にわしの一臂(片腕)となってほしい」と言いました。
しかし管至父はこう応えました「瓜が実ったら交代するというのは主公が自ら約束したことです。恐らく忘れているのでしょう。まずは交代を請うべきです。請うても許可されなかったら軍心に怨みが生じるので、それを利用できます。」
連称は納得して使者を送り、襄公に瓜を献上して交代を求めました。ところが襄公は怒ってこう言いました「交代はわしが決めることだ。何を請うのか!瓜がもう一度熟すまで待て!」
使者が戻ると連称はますます襄公を憎み、管至父に言いました「大事を行おうと思うが計はないか?」
管至父が言いました「事を起こすにはまず奉じる者を決めなければなりません。公孫無知は公子・夷仲年の子です。先君・僖公は同母弟の仲年を寵愛し、無知も可愛がっていたので、無知は幼い頃から宮中で育ち、衣服・礼数も世子(太子。現襄公)と差がありませんでした。主公が即位してからも無知は宮中に住んでいましたが、ある日、主公と角力(力比べ。格闘技の一種)をやり、無知が主公に足をかけて地に倒してしまったため、主公は不快になりました。後日、無知と大夫・雍廩が道を争った時、主公は無知の不遜を怒って遠ざけ、品秩の大半を減らしました。そのため、無知は心中に怨みを持って久しく、いつも乱を成すことを考えていますが、協力する者がいません。我々が無知と密通して内外で呼応すれば必ず成功します。」
連称が問いました「それはいつやるべきだ?」
管至父が答えました「主上は用兵を好み、また遊猟を愛しています。猛虎も穴から離れたら制しやすいものです。外出の情報を得たら機会を逃してはなりません。」
連称が言いました「わしの妹は宮中にいるが、主公の寵を失い怨望(怨み)を抱いている。無知に妹と連携させ、主公に隙ができたらすぐに連絡させよう。そうすれば事を誤るはずがない。」
二人は腹心を派遣して公孫無知に書を届けました。そこにはこう書かれています「賢公孫は先公から嫡子と同等の寵を受けましたが、一旦にして削奪されたため、行路の人(道行く人)も皆不平を漏らしています。しかも国君の淫昏は日々甚だしく、政令にも常がありません政令が一定ではありません)。我々は久しく葵邱を守っていますが、瓜が実っても交代できず、三軍の士は憤激して乱を思っています。もし隙が生まれたら、称等は犬馬のように力を尽くし、公孫を推戴することを願います。称の従妹は宮にいながら寵を失い、怨を抱いています。これは天が公孫に内応の(助け)を与えたのです。機会を失ってはなりません。」
 
公孫無知は大喜びして返事を書きました「天は淫人を嫌い、将軍の(福。道。心)を開いた。その衷言(内心)に敬佩する。遅かれ速かれ将軍の言に応えよう。」
 
無知は秘かに女侍を派遣し、連妃とも連絡を取りました。連称の書を見せて「事が成ったら夫人に立てよう」と約束します。
連妃も協力を約束しました。
 
 
 
*『東周列国志』第十四回後編に続きます。