第十四回 衛侯朔が入国し、斉襄公が狩りで鬼に遭う(後編)

*『東周列国志』第十四回後編です。
 
周荘王十一年冬十月、斉襄公が「姑棼の野に貝邱という山があり、禽獣が集まっている」という情報を得ました。早速、遊猟の準備が始まります。徒人・費等に命じて車徒(兵車や歩兵)を用意させ、翌月、田狩(狩猟)に行くことにしました。
連妃が宮人を送ってこの情報を公孫無知に報せました。無知はすぐに葵邱を守る連・管二将軍に連絡し、十一月初旬に決起することを約束します。
連称が言いました「主上が狩りに出たら国内が空虚になる。我々が兵を率いて都門に直進し、公孫を擁立したら如何だろう?」
管至父が言いました「主上は隣国と和睦しています。もし主公が隣国の師(軍)を招いて我々を討伐したら、どうやって防ぎますか?兵を姑棼に伏せて先に昏君を殺し、それから公孫を奉じて即位させるべきです。これなら万全なはずです。」
当時、葵邱の戍卒(守備兵)は久しく国境におり、皆、家を思っていました。連称は秘かに号令を出し、士卒に乾糧を準備させて貝邱に向かうことを伝えます。軍士は皆喜んで従いました。
 
斉襄公は十一月朔日に車に乗って出遊しました。狩猟のことしか考えていないため、力士・石之紛如、幸臣・孟陽等の近臣と鷹や犬だけを同行させました。大臣は一人もいません。
まず姑棼の離宮に入って終日遊びました。附近の居民が酒肉を献上し、襄公は夜まで飲んで一泊します。
翌日、車に乗って貝邱に向かいました。途中で樹木が雑然と生えて藤蘿(藤)が鬱そうと茂っているのを見た襄公は、高阜(丘)に車を止め、火を放って林を焼き、周辺を包囲して校射(猟場)にしました。鷹や犬が放たれます。火が風に乗って舞い上がり、狐や兔が東奔西走しました。
すると突然、一頭の大豕(豚)が現れました。牛のようですが角はなく、虎のようですが模様がありません。火の中から走り出た大豕は高阜に登って車駕の前に跪きました。この時、人々は狩りに出ていたため、襄公の傍には孟陽しかいません。襄公が孟陽を顧みて言いました「汝があの豕を仕留めよ。」
孟陽が目を凝らして見てから驚愕して言いました「豕ではありません!公子・彭生です!」
襄公は激怒して「彭生が敢えてわしに会いに来たのか!」と叫び、孟陽の弓を取って自ら射ました。しかし三発射ても中りません。
大豕は立ち上がって前足を挙げ、人のように歩くと声を挙げて啼きました。その声は哀惨で、聞くに堪えないものです。襄公は恐れ驚いて車中から倒れ落ち、左足をぶつけて負傷しました。絲文の屨(刺繍された靴)が左足から落ち、大豕がそれをくわえて姿を隠します。
徒人・費が従人等と一緒に襄公を起こして車中に寝かせ、狩猟を中止する命令を出しました。姑棼の離宮に戻って宿泊します。
襄公はこの時から精神が恍惚とし、心が休まらなくなりました。
 
軍中で二更を報せる頃(夜九時)、襄公は左足が痛いため床の上で何度も寝がえりをうちました。
襄公が孟陽に言いました「わしを抱えてゆっくり歩かせよ。」
床から下りようとした襄公は初めて靴を失ったことに気づき、徒人・費に取りに行くように命じました。しかし費はこう言いました「屨(靴)は大豕がくわえてどこかに行ってしまいました。」
襄公は大豕と聞いて気分を害し、怒ってこう言いました「汝は寡人に従いながらなぜ屨の有無を見ていなかったのだ!もしくわえて去ったのなら、なぜその時に言わなかったのだ!」
襄公は自ら皮鞭を持って費の背を打ちます。血が地面を満たした時、やっと打つのを止めました。
徒人・費は泣いて門を出ます。
 
この時、連称が数人を率いて門外で動静を探っていました。連称は門から出て来た徒人・費を捕えて縄で縛り、「無道な昏君はどこだ?」と問います。
費が答えました「寝室です。」
連称が問いました「もう臥したか?」
費が答えました「まだです。」
連称が刀を持ち挙げて費を斬ろうとすると、費はこう言いました「もし私の命を赦すなら、私が先に入ってあなたの耳目になります。」
連称が信用しないため、費は服を脱いで背を見せ、こう言いました「鞭で傷つけられたばかりなので、私もあの賊を殺したいと思っています。」
連称は血が滴る背を見て費を信じ、縄を解いて内応するように命じました。
費は先に宮門を入り、連称は人を送って軍士を指揮している管至父を招きました。
 
徒人・費が再び門に入った時、石之紛如に会いました。費はすぐに連称の謀反を告げ、寝室に入って襄公にも報告します。襄公が驚いて呆然としていると、費が言いました「事は急を要します。誰かに主公のふりをさせて床に寝かせ、主公は戸の後ろに隠れてください。もし幸いにも混乱の中で見つからなければ、禍から逃れられるかもしれません。」
孟陽が言いました「臣は今まで分を越えた恩を受けてきました。身代りにさせてください。命を惜しむつもりはありません。」
孟陽は部屋の奥に顔を向けて床に横になります。襄公は自分の錦袍を解いて床の上を覆うと、戸の後ろに隠れました。
襄公が徒人・費に問いました「汝はどうするつもりだ?」
費が言いました「臣は紛如と協力して賊に抵抗します。」
襄公が問いました「背の傷は苦痛ではないのか?」
費が言いました「臣は死も避けようとは思いません。傷は苦痛ではありません。」
襄公は嘆息して「忠臣だ」と言いました。
 
徒人・費は石之紛如に兵を率いて中門を守らせると、単身で利刃を持って門に進み、賊を迎え入れるふりをしました。連称を油断させて刺すつもりです。この時、賊は既に大門を攻撃し、連称は剣を持って路を斬り開いていました。管至父も門外で兵を率いて待機しています。
徒人・費は連称の勢いが激しいのを見て、細かく計を考えている余裕もないと判断し、前に一歩踏み出して刀を突き刺しました。ところが連称が重鎧を着ていたため刃は刺さりませんでした。逆に連称の剣が振りおろされ、二本の指が斬られます。再び剣が振りおろされると、費は頭を半分に斬られて門の中で死にました。
石之紛如は矛を持って戦いました。連称と十余合打ち合います。連称が戦いながら少しずつ進み、紛如は徐々に後退しました。石階まで来た時、紛如はつまずいて転んでしまいました。紛如も連称の剣に斬られます。
連称は寝室に進入しました。
 
侍衛は既に驚いて逃げ去っており、団花(四面に放射状に延びた円形の装飾)の帳の中に一人が寝ているだけでした。上には錦袍が被されています。連称は手に持った剣を持ち上げると床に突き刺しました。顔を枕の傍に近づけ、火を点して顔を確認します。しかし床に寝ていたのは鬚のない若者でした。
連称が言いました「これは主公ではない!」
部下に命じて部屋中を探させましたが、どこにもいません。
連称が自ら燭を持って照らすと、戸檻の下に絲文の屨が見えました。後ろに人がいると知って戸を開けます。すると昏君(襄公)が足の痛みに堪えられず座り込んでいました。絲文屨は襄公の足の上にあります。靴は大豕がくわえて持ち去ったはずです。この時、檻下にあったのは、冤鬼(冤罪で殺された者の霊)が為したことのようです。
連称は諸児(襄公)だと確認すると、鶏の雛を捕まえた時のように戸の外に運び出し、地上に投げ捨てて罵倒しました「無道の昏君!汝は連年兵を用いており、武を濫用して民に害をもたらした。これは不仁である!父の命に背いて公孫を疎遠にした。これは不孝である!兄妹が淫を専らにし、公になっても忌避することがなかった。これは無礼である!遠戍(国境の守備)を憐れむことなく、瓜の時期になっても交代させなかった。これは無信である!仁孝礼信の四徳を全て失って、どうして人でいられるのか。わしは今日、魯桓公の仇に報いるつもりだ!」
連称は襄公を何回も斬り、床褥(布団)で屍を包んで孟陽と一緒に戸の下に埋めました。
襄公の在位年数はわずか五年です。
 
史官はこの出来事をこう評論しました「襄公は大臣を疏遠にして群小(小人の群れ)と親しくし、石之紛如、孟陽、徒人・費等は以前から私恩を受けて昏乱に従ってきた。彼等は甘んじて命を棄てたが、忠臣の大節とはいえない。連称と管至父は久しく国境を守備して後代がなく、ついに簒奪弑殺を行った。襄公の悪が満ちたため二人の手を借りて殺すことになったのだ。彭生は刑に臨んでこう叫んだ『死んで妖孽となり、汝の命を取りに来る。』大豕の姿は決して偶然ではない。」
 
連称と管至父は軍容を整え、長駆して斉都に向かいました。
公孫無知はあらかじめ私甲(私兵)を集めて待機していました。襄公の凶信を得ると兵を率いて城門を開きます。連・管二将が入城しました。
二将が宣言しました「先君・僖公の遺命を受け、公孫無知を奉じて即位させる。」
連妃が夫人に立てられ、連称が正卿になって国舅を号します。管至父は亜卿になりました。
諸大夫は仕方なく朝廷の序列に従いましたが、皆、心中不服です。
雍廩だけは再三稽首し、かつて道を争った罪を謝りました。その様子が卑順だったため、無知は赦して再び大夫にしました。
重臣の高氏と国氏が病と称して入朝しませんでしたが、無知は排斥することができませんでした。
管至父は無知に賢人を集めることで人望を得るように勧めました。併せて族子・管夷吾の才を推挙します。無知は人を送って管夷吾を招きました。
 
夷吾が招きに応じるかどうか、続きは次回です。