春秋時代 孔子と老子
孔子は家が貧しく、社会的地位も高くありませんでした。
後に牧場を管理する小吏になりました。孔子が飼育した家畜は健康的で、繁殖も盛んでした。
孔子は優れた能力が認められ、司空に任命されましたが、暫くして魯を去りました。
しかし斉でも宋でも衛でも受け入れられず、陳と蔡の間で困窮したため、結局、魯に帰りました。魯は帰国した孔子を厚遇しました。
孔子は身長が九尺六寸もあったため、人々から「長人」とよばれました。
ある日、魯の南宮敬叔が昭公に言いました「私を孔子と共に周に行かせてください。」
同意した昭公は一乗の車、二頭の馬と一人の豎子(童僕)を与えて孔子を周に派遣しました。礼を学ぶためです(『資治通鑑前編』は東周景王二十三年・前522年に孔子が周に行った事を書いていますが、実際に周に行ったのは南宮敬叔が孔子の弟子になってからなので、恐らく敬王時代に入ってからの出来事です。南宮敬叔は東周敬王二年・前518年に改めて登場します)。
礼を学び終えて周から去る孔子に、老子がこう言いました「富貴の者が人を送り出す時は財を使い、仁の者が人を送り出す時には言を用いるという。私は富貴の者ではないので、僭越ながら仁人の名号を借りて子(汝)に言を送ろうと思う。『聡明で深く察することができる者は死に近い。なぜならそういう者は議論を好むからだ。博学で弁が立ち、見識が多い者は身を危険にする。そういう者は人の欠点を暴くからだ。人の子として存在する者は、自分の存在を無くして父母に仕え、人の臣として存在する者は、自分の存在を無くして主君に仕えよ(父母の前でも主君の前でも、自分を突出させてはならない、自分の存在が大きくなれば危険に近くなる、という意味です。「聡明深察而近於死者,好議人者也。博辯広大危其身者,発人之悪者也。為人子者毋以有己,為人臣者毋以有己」)。』」
老子は楚の苦県(元は陳国の領土)厲郷(または「瀬郷」)曲仁里の人で、『史記』は「姓は李氏、名は耳、字は聃」と書いていますが、『史記』の注釈(正義)をみると字は伯陽、一名を重耳といい、聃は外字(号)と解説されています。
周の時代の人物で、「李母が八十一歳の時に産んだ」「李母が妊娠して八十一年経った時、李の樹の下で逍遙としていると、左の腋から産まれた」「玄妙玉女が夢で流星が口に入るのを見て、七十二年後に老子を産んだ」等といわれています。
また、老子は父ではなく母の姓である李を名乗ったとも、李の樹の下で産まれたので李を姓にしたともいいます。
老子は成長して周の藏書室を管理する史官になりました。
君子とは、時を得たら(明主に巡り逢えたら)車に乗って出仕し、時を得ることができなかったら、蓬(よもぎ)が風に吹かれるように居場所を定めないものです(君子得其時則駕,不得其時則蓬累而行)。良い貨物は奥深くに隠されて存在しないかのようであり、それと同じように、君子は盛徳があっても、その容貌は(能力を表に現さず)愚者のようであるものです(良賈深藏若虚,君子盛徳容貌若愚)。子(あなた)は驕気と多欲を除き、態色(志に満ちた様子)と淫志(放蕩な心)を除くべきです。これらは子の身に対して無益なものです。私が子に語ることができるのは、これだけです。」
孔子は去ってから弟子にこう言いました「鳥は、私はそれが飛ぶことができると知っている。魚は、私はそれが泳ぐことができると知っている。獣は、私はそれが走ることができると知っている。地を走る物は罔(網)で捕まえることができる。水中を泳ぐ物は綸(釣り糸)で釣ることができる。空を飛ぶ物は矰(矢)で落とすことができる。しかし龍というのは、私には知ることができない。龍は風雲に乗って天に登るからだ。私が今日会った老子は、まさに龍のような人物だった。」
老子は「道徳」という学問を学びました。しかしその学説は世の人々に理解されませんでした。
老子は久しく周にいましたが、周王室の衰えを見て去ることにしました。
その後、老子がどこに行ったのかはわかりません。
老子は百六十余歳で死んだとも、二百余歳で死んだともいわれています。道を修めたため長寿を得ることができました。
この太史・儋が老子だともいわれています。
なお、太史・儋の言葉は『周本紀』と『秦本紀』にも登場します。三つともそれぞれ少しずつ異なりますが、『周本紀』と『秦本紀』の意味はほぼ共通しています。
『老子列伝』「始秦与周合,合五百歳而離,離七十歳而霸王者出焉。」
『周本紀』「始周与秦国合而別,別五百載復合,合十七歳而霸王者出焉。」
『秦本紀』「周故与秦国合而別,別五百歳復合,合十七歳而霸王出。」
『老子列伝』の「合五百歳而離」は恐らく「別五百歳復合」が正しく、「離七十歳」も「合十七歳」が正しいはずです。
意味は「周と秦は一つだったが分離し、分離してから五百年で再びひとつになり、その十七年後に覇王が現れる」です。
予言の解説は東周烈王二年(前374年)に改めて述べます。
『老子列伝』に戻ります。
老子の子は名を宗といい、魏の将になって段干に封じられました。
常摐が言いました「子(汝)が問わなくても、わしは子に話そうと思っていた。故郷を車で通ったら車から下りるものだ。子は知っているか?」
常摐は嬉しそうに「その通りだ」と言って、更に続けました「喬木(大木)の前を通る時は、小走りになるものだ。子は知っているか?」
老子が言いました「当然あります。」
常摐が問いました「わしの歯はあるか?」
老子が言いました「ありません。」
常摐が喜んで言いました「その通りだ。天下の事を全て知り尽くしている。これ以上、子に語ることはない。」
剛強な物は亡びやすく、柔軟な物は永く存続することができるという道家の思想をつたえる話です。