春秋時代228 東周景王(五十) 周景王の鐘 前521年(1)

今回は東周景王二十四年です。二回に分けます。 前521
 
景王二十四年
521年 庚辰
 
[] 春、周景王が無射(大鐘の名)を鋳造しました。
(または「冷」。楽官)・州鳩(楽官の名)が言いました「王は心疾(心臓の病)によって死ぬだろう。楽(音楽)とは天子の職である(天子が主持するものである)。音とは楽の輿(車の荷台)である(音があるから音楽ができる)。鐘とは音の器である(鐘という楽器によって音が生まれる)。本来、天子は風(風俗・風習)を考察して楽を作り、器(楽器)によって音を集め、輿(音)によって楽を行うものだ。小さい音が小さすぎず、大きい音が大きすぎないことによって、全ての事物が調和する。そして音が調和することで嘉(美しい音楽)が完成する。だから和した声は耳から入って心に響き、心が安らかになって楽しめるのである。小さい音が聞こえず、大きい音だけがいたずらに大きければ、人の心は不安になり、不安から疾(病)が生まれる。今回造った鐘は音が大きすぎるから、王の心はその音に堪えられなくなるだろう。長いはずがない。」
 
以上は『春秋左氏伝(昭公二十一年)』の記述です。この出来事は『国語・周語下』に詳しく書かれています。別の場所で紹介します。
 
[] 三月、蔡が前年死んだ平公を埋葬しました。
平侯の太子・朱は葬礼の際、太子が居るべき場所に立たず、身分が低い者が立つ場所に居ました。
 
葬送に参加した魯の大夫が帰国してから叔孫(昭子)にこの事を話すと、叔孫は嘆息してこう言いました「蔡は亡ぶだろう。もし滅ばないとしても、その君は良い終わりを迎えることができない。『詩(大雅・仮楽)』にはこうある『自分の位置で勤勉であれば、民は休むことができる(不解于位,民之攸。』今、蔡侯は即位したばかりなのに、(自分の居場所を棄てて)下に移った。身もそれに従うはずだ(国君の地位を失うはずだ)。」
 
[] 夏、晋頃公が士鞅を魯に送って聘問させました。
魯の叔孫が政(政務や事務の主催者。ここでは賓客対応の責任者)を務めます。
ところが季孫意如が叔孫氏を妨害するため、わざと晋を怒らせる工作をしました。有司(官員)に命じて、斉の鮑国が費邑を魯に返還した時(東周景王十七年・前528年)に用いた礼で士鞅を接待させます。これは七牢の礼にあたります。牢は犠牲の数で、牛・羊・豚各一頭を一牢といいます。
士鞅が怒って言いました「鮑国は位が低く、その国も小さいのに、わしに鮑国の牢礼を用いるのか。これは敝邑(晋)を軽視しているからである。帰国して寡君に復命する。」
魯人は恐れて四牢を加え、十一牢にしました。
 
『国語・晋語九』には士鞅が魯を聘問した時の別の話が書かれています。
晋の范献子(士鞅)魯を聘問した時、具山と敖山について問いました。しかし魯人は山名を口にせず、山がある郷名を使って答えます。
献子が「あれらの山は具山と敖山と呼ぶのではないですか」と聞くと、魯人はこう答えました「それは先君の献公と武公の諱です。」
古代では国君の名は忌避して使わない風習がありました。これを避諱といいます。魯献公は名を具といい、武公は敖といったため、魯人は具山と敖山の名を直言しませんでした。
帰国した献子が知人に言いました「人はよく学ばなければならない。私は魯に行きながら二つの諱を知らず、笑い者になってしまった。これは私が学ばなかったからだ。人に学識があるのは、木に枝葉があるのと同じである。木に枝葉があれば日影で人を守ることができる。君子に学識があればなおさら役に立つだろう。」
 
[] 宋の大司馬・華費遂は華貙(子皮)、華多僚、華登を産み、華貙は少司馬になり、華多僚は元公の御士になりました。しかしこの二人は仲が悪く、対立していました。
華多僚が元公に華貙を諫言して言いました「貙が亡人(亡命した者。前年出奔した華亥等、元公に反対する勢力)を国に入れようとしています。」
華多僚が頻繁に進言するため、元公が言いました「司馬(華費遂)はわしのために良子(息子)の亡命を招いた(華費遂の子・華登は呉に亡命しました)。死も亡(亡命)も命(天命)によって決まる(だから華貙が亡命者を招き入れたとしても、天命に従うしかない)。わしは再び司馬の子(華貙)を失わせたくない。」
華多僚が言いました「主公が司馬を愛すのなら、主公自ら亡命するべきです。死から逃れることができるのなら、遠くに行くのも苦にはならないはずです(華費遂を愛するために華貙を除かないのならば、殺されることになります。そうなる前に亡命するべきです)。」
 
元公は位を失って亡命することを恐れ、侍人を派遣して華費遂の侍人・宜僚を招きました。酒をふるまってから華貙を駆逐することを華費遂に告げさせます。
宜僚の報告を聞いた華費遂が嘆いて言いました「こうなったのは多僚のせいに違いない。私には讒子(讒言をする子)ができてしまった。しかし彼を殺すことはできないし、私が死ぬわけにもいかない。君命に対してどうすればいいだろう。」
華費遂はやむなく元公と華貙追放について相談しました。華貙に孟諸で狩りをするように命じ、そのまま放逐するという計画が決められます。
 
当日、元公は華貙に酒を与え、厚く礼物を贈ってもてなしました。更に従者にも礼物が下賜されます。華費遂も同じように華貙を遇しました。
その様子を見た華貙の家臣・張が怪しみ、「なにか理由があるはずだ」と言って華貙に話しました。
華貙は宜僚を捕まえて、剣を抜いて詰問します。恐れた宜僚は元公が華貙の追放を計画していることを全て話しました。怒った張が華多僚を殺そうとしましたが、華貙が言いました「司馬(華費遂)は年老いており、登(華登)の出奔で傷ついている。私には悲しみを重ねさせることができない。出奔した方がいい。」
 
五月丙申(十四日)、華貙は華費遂に会ってから宋を離れようとしました。
華貙が朝廷に行った時、ちょうど華多僚が華費遂の車を御して朝廷に入りました。張は怒りをこらえることができず、華貙、臼任、鄭翩(二人とも華貙の家臣)と共に華多僚を殺しました。更に華費遂を強要して謀反し、亡人を呼び戻します。
 
壬寅(二十日)、華氏と向氏(華亥・向寧・華定等)が陳から宋に帰りました。
しかし楽大心、豊愆、華牼が橫(横城。地名)で華氏と向氏に対抗したため、華氏と向氏は盧門(宋郊外の城門)を拠点とし、南里の人を率いて兵を挙げました。
 
六月庚午(十九日)、宋は旧城や桑林の門(城門)を修築して守りを固めました。
 
[] 秋七月壬午朔、日食がありました。
 
魯昭公が梓慎に聞きました「これはどういうことだ。どのような禍福が起きるのだ。」
梓慎が答えました「二至冬至夏至と二分春分秋分に起きる日食は災をもたらしません。日月の運行は、二分には同道(道が重なること)になり、二至には相過(互いに離れること)します。それ以外の月に日食が起きたら災禍が起きます。日食とは陽が負けることなので、多くの場合は水災が発生します。」
 
叔輙(または「叔痤」。子叔。伯張。叔弓の子)が日食を憂鬱になり、号哭しました。
それを知った叔孫(昭子)が言いました「子叔はもうすぐ死ぬ。必要がないのに哭したからだ。」
八月乙亥(二十五日)、叔輒が死にました。
 
 
 
次回に続きます。