春秋時代237 東周敬王(六) 魯の臧氏 前517年(3)

今回で東周敬王三年が終わります。魯の内争の続きからです。

[(続き)] 臧孫賜が昭公に従って来た者に盟を結ばせることにしました。載書(盟書)にはこう書かれています「力を尽くして心を一つにし、好悪を共にする。罪の有無を明確にし、公に従うことを堅持する。内外と通じてはならない。」
昭公の名義で載書が作られ、子家羈に見せられました。すると子家羈はこう言いました「このような内容なら、私は盟に参加できません。羈(私)は不佞(不才)なので二三子(各位)と同心にはなれません。そもそも、罪は皆にあります(昭公に従っている者は昭公の亡命を招き、国に残った者は昭公を駆逐しました)。私は国内外と通じ、主公からも離れて(主公を帰国させるために)奔走するつもりです。二三子は亡(亡命)を好み、定(復位)を悪としているので、私には好悪を共にできません。主公を難に陥れることほど大きな罪はないでしょう。内外と通じて主公から離れることによって(主公のために奔走することによって)、主公は速やかに国に帰れるようになります。なぜ内外と通じてはならないのですか。(帰国の努力をせず、亡命先で)何を守ろうというのですか。」
子家羈は盟を結びませんでした。

叔孫闞から国都に帰り、季孫意如に会いました。季孫意如が何回も叩頭して言いました「子(あなた)は私をどうするつもりですか?」
叔孫が言いました「人は誰でも死にます。子(あなた)は国君を放逐した悪名を負ってしまいました。子孫代々、その悪名を忘れることはできません。哀しいことではありませんか。私があなたに何をできるでしょう。」
季孫意如が言いました「もし意如(私)が態度を変えて再び国君に仕えることができるなら、それは死者を活かし、骨に肉を蘇らせるのと同じです。」
この言葉を聞いて叔孫は斉に向かい、昭公に報告しました。子家羈は秘密の漏洩を防ぐため、公館に来る者を全て捕えるよう士卒に命じます。

昭公と叔孫は帳幄の中で話しました。叔孫が言いました「大衆を安定させてから主公を国に迎え入れます。」
ところが、叔孫の計画を知った昭公の徒は叔孫を殺そうとしました。魯への帰国を願っていなかったようです。季氏の報復を恐れたのかもしれません。もしくは、叔孫が昭公だけを帰国させようとしていたため、昭公を手放さないために叔孫を狙ったという説もあります。
昭公の徒は道に隠れて叔孫を襲おうとしました。しかし左師展(魯の大夫)が昭公に伝えたため、昭公は叔孫に道を変えるように教え、鑄から帰国させました。
 
叔孫が魯に帰った頃には、季孫意如の気が変わっていました。
冬十月辛酉(初四日)、叔孫は正寝で斎戒し、祝宗に自分の死を祈らせます。季孫意如の心変わりに対する怒りと、騙されたことに対する恥が原因です。
戊辰(十一日)、叔孫が死にました
左師展が昭公を一乗の馬車に乗せて帰国させようとしましたが、昭公の徒に留められました。
 
[] この頃、孔子が斉に行きました。『史記孔子世家』からです。
国が乱れて国君が出奔したため、孔子も斉に入って昭子家臣になりました。高氏を通じて斉景公に近づこうとします。
孔子は斉の太師と音楽について語り、『(舜の時代の楽舞)』を学ぶことにしました。一度学び始めるとすぐに没頭し、三カ月の間、肉を食べてもその味が分からないほどだったといいます三月不知肉味。斉の人々はその姿を称賛しました。
 
景公孔子に政治について問うと、孔子はこう答えました国君が国君らしく、臣下が臣下が臣下らしく、父が父らしく、子が子らしくするべきです君君,臣臣,父父,子子。」
当時の斉では陳氏の専横が目立ち始めていたため、孔子は越権を許すべきではないという意味で警告しました。
景公が言いました素晴らしい善哉。国君が国君らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、たとえ(食糧)があっても、わしが食べることはできなくなる。」
 
後日、景公が再び政治について問うと、孔子はこう言いました政治の要は節財にあります。」
景公孔子の言葉に道理があると思い、尼谿の地を孔子に封じることにしました。
しかし晏嬰晏子が諫めて言いました儒者滑稽(口が達者)によって束縛するのが困難です。しかも彼等は傲慢で自分が正しいと信じており、に置くことができません。盛大な葬儀を行って情を尽くし、厚葬のために破産を招くこともあるような教えを、(習俗。風俗)としてはなりません。儒者は各地を遊説して俸禄を求めていますが、彼等に国を治めさせることはできません。大賢(堯舜等の聖人)がいなくなり、周室も既に衰退し、礼楽が失われて久しくなります。孔子は儀容服を盛んにし、登降の礼(入朝・退朝時の礼)趨詳(朝廷で歩く時の決まり)を煩雑にしていますが、これらは数世代にわたっても習得できるものではなく、一生かけても究めることはできません。主公は彼の教えによって斉のを変えようとしていますが、細民(民衆)を教導する良い方法とはいえません。」
 
この後、景公孔子を敬いましたが、礼について問うことはなくなりました。
後日、景公孔子に言いました「子(汝)季氏のように遇することはできない。」
景公は魯の氏と氏のに相当する待遇をしました。三卿の中で季氏上卿孟氏下卿にあたります
 
暫くして、斉の大夫孔子を害そうとしました。孔子も景公もそれを知ります。
しかし景公はこう言いましたわしは年老いた。役に立たない。」
孔子に還りました
 
[] 壬申(十五日)、周の尹文公(王子朝の党)が鞏県から洛水を渡り、東訾(敬王の邑)を焼きましたが、勝てませんでした。
 
[] 十一月、宋元公が魯昭公を助けるために、晋に入朝することにしました。
出発前に夢を見ました。太子・欒(または「兜欒」「頭曼」)が宗廟で即位し、元公と平公(元公の父)が朝服を着て補佐しています。
翌朝、元公が六卿を集めて言いました「寡人は不佞(不才)なため、父兄(年長者)に仕えることができず、二三子の憂いとなってしまった。これは寡人の罪である。もし群子の霊(福)によって首領(頭)を保ったまま死ねたとしたら(禍に巻き込まれて殺されることなく、普通に寿命を終えることができたら)(棺の中にある死体を置く板)が先君の決まりを越えてはならない柎だけについて言っていますが、実際は全ての葬具を質素にするように要求しています)。」
仲幾が言いました「主公が社稷のために昵宴(身近な飲食。酒宴)の規模を縮小したとしても、群臣には口出しできません。しかし宋国の法や死生の度(制度)は先君の命(決まり)があるので、群臣は死をもってそれを守らなければなりません。臣が職責を失ったら常刑が赦しません(刑を受けることになります)。臣はそのような死を望まないので、今回の君命に従うわけにはいきません(先君の制度を無視して葬具を質素にすることはできません)。」

元公は晋に向かいました。
己亥(十三日)、元公が道中の曲棘で死にました。在位年数は十五年です。太子・欒が即位しました。これを景公といいます。
 
[] 十二月庚辰(二十四日)、斉景公が魯の鄆を包囲しました。魯昭公を居住させるためです。
『春秋』経文は「斉侯が鄆を取った」としていますが、鄆が陥落するのは翌年の事です。
 
[] 魯の臧孫賜(臧昭伯)が晋に行った時、臧会が臧孫賜の宝亀・僂句(僂句は卜で使う亀の名。または亀の出産地)を盗みました。
臧会が僂句を使って(正直に話すこと)」と「僭(隠すこと)」を卜うと、「僭」が吉と出ました。

暫くして、臧氏の老(家老。家臣)が臧孫賜の起居をうかがうため、晋に行くことになりました。すると臧会が晋に行くことを名乗り出ました。臧会が家老の代わりに晋に向かいます。
臧孫賜が臧会に家の様子を問うと、臧会は全て詳しく応えました。
しかし内子(妻)と同母弟の叔孫について問うと、臧会は口を閉ざします。再三質問しても答えず、何かを隠しているような様子を見せました。卜で「僭」が吉と出たためです。
臧孫賜が帰国して魯の郊外に至った時、改めて臧会に問いまいたが、やはり臧会は答えませんでした。
魯城に到着した臧孫賜は妻と弟を疑い、暫く城外で様子を見ました。しかし何も変わったところはありません。
臧孫賜は怒って臧会を殺そうとしましたが、臧会は逮捕を逃れて郈に奔りました。郈魴假(郈邑大夫)が臧会を受け入れて賈正(市の貨物や物価を掌握する官)に任命します。
郈は公邑で賈正は司徒に属すので、臧会は帳本を季氏(季氏は代々司徒を勤めています)に提出しました。

一方の臧孫賜は五人の家臣に戈と楯を持って桐汝(里名)の閭(里門)に隠れさせ、臧会が現れたら襲うように命じました。襲撃された臧会は来た道を逃げて季氏の家に向かいましたが、季氏の中門の外で捕えられます。
騒ぎを知った季孫意如は怒って「なぜ我が家の門に兵を入れたのだ!」と言うと、臧氏の家老を捕えてしまいました。
この一件から季氏と臧氏は対立するようになります(この出来事は前回も簡単に触れました)

昭公が出奔すると、臧孫賜も昭公に従って魯を出ました。季孫意如は臧会を臧氏の主に立てます。
臧会は「僂句はわしを騙さなかった」と言いました。

[] 楚平王が射を派遣して州屈に城を築かせ、茄の人を移住させました。
また、丘皇にも築城して、訾の人を移住させました。
更に熊相禖(大夫)に巣の郭(外城)を、季然(大夫)に巻の郭を築かせました。

鄭の子太叔がこれを聞いていいました「楚王はもうすぐ死ぬだろう。民をその土地に安定させなければ、民は必ず憂い、憂いは王に及ぶ。久しいはずがない。」


次回に続きます。