春秋時代 晏子(一)

本編で『春秋左氏伝(昭公二十六年)』の記述から斉景公と晏嬰の会話を紹介しました。
景公と晏嬰の会話は『韓非子』等にも書かれています。また、『資治通鑑外紀』は『晏子春秋』等から晏嬰に関するその他の故事や田穰苴という人物についても書いています。
三回に分けて紹介します。
 
まずは『韓非子・外儲説右上』から景公と晏嬰の会話です。
景公と晏子(晏嬰)が少海渤海で遊び、柏寝台(高台の名)に登りました。景公が斉国を眺めて言いました「美しい。広大で壮観だ(美哉・泱泱乎,堂堂乎)。後世、誰がこれを有するのだろう。」
晏子が答えました「それは田成氏(田成子。田恒。田恒は田乞の子です。但し、この頃は恐らくまだ田乞の時代です)でしょう。」
景公が問いました「寡人がこの国を擁しているのに、田成氏が有すると言うのは、なぜだ?」
晏子が答えました「田氏は広く斉の民心を得ており、彼が民(臣民)に臨む姿は、上(国君)に対しては諸大臣に爵禄を与えるように求め、下に対しては個人的に大きな斗斛区釜(容量を量る道具)を使って食糧を貸し出し、小さい斗斛区釜で回収しています(貸す時は多めに貸し、返却の際は少なめに受け取っています)。一頭の牛を殺したら、自分は一豆(一皿)の肉だけを取り、残りは士の食糧として与えています。一年を通して、自分は二匹の布帛しか取らず、残りは士の衣服として与えています。だから市場で売られる木の値段は、山上の値段より高くならず、沢で獲れる魚、塩、亀、鱉(すっぽん)、贏、蚌贏と蚌はどちらも貝の一種)も海より高いことはありません(上にいる田氏が利を貪らないので、商人も利を貪らず、原価に近い値で売っています)。主公は税を重くしていますが、田成氏は施しを厚くしています。かつて、斉を大飢饉が襲った時、道端で餓死した者が数えきれないほどいました。しかし多くの父子(親子)が手をとりあって田成氏の家を頼ったところ、命を落とした者はいませんでした。だから秦周(全国各地)の民が共にこう歌ったのです『ああ、もう終わりだ。苞乎(意味不明)、田成子を頼ろう(謳乎,其已乎。苞乎,其往帰田成子乎)。』また、『詩(小雅・車舝)』にはこうあります『あなたに恩恵を与えることはできないが、あなたのために歌舞を披露しましょう(雖無徳與女,式歌且舞)。』田成氏の徳と民の歌舞を見ると、民が田成氏の徳に帰心していることが分かります。だから『田成氏が有する』と言ったのです。」
景公が泣いて言いました「哀しいことではないか。寡人が国を有しているのに、田成氏のものになるとは。今後、どうすればいいのだ。」
晏子が言いました「憂いることはありません。もし主公がそれを得たいのなら、賢人を近づけ、不肖の者を遠ざけ、煩乱(混乱)を治め、刑罰を緩和し、貧窮を救済し、孤寡(身寄りがない者)を慈しみ、恩恵を施して不足している者を助ければいいのです。そうすれば民は主公に帰心します。十の田成氏がいても、主公をどうすることもできません。」
 
史記・田敬仲完世家』によると、田氏が秘かに斉で人を集めており、その宗族が強盛になったため、晏子はしばしば景公を諫めましたが、景公が聞くことはありませんでした。
 
次は『史記・斉太公世家』からです。
この年、彗星が現れました。
柏寝に坐っていた景公が嘆息して言いました「(柏寝が)壮観だが、誰がこれを有することになるのだろう。」
景公は自分の徳が薄いことを自覚しており、後世の子孫には斉国を保つことができないと思っていました。その考えを察した群臣が泣き始めましたが、晏子だけは笑いました。景公が怒ります。
すると晏子はこう言いました「臣(私)は群臣が阿諛すること甚だしいので笑ったのです。」
景公が言いました「彗星が東北に現れた。そこは斉の位置に当たる。寡人はそれを憂いているのだ。」
晏子が言いました「主公は高台・深池を造り、賦税を重くしても満足できず、刑罰を厳しくしてもまだ足らないと思っています。今後、茀星(凶星)が現れようとしているのに、彗星ごときで何を恐れるのですか。」
景公が問いました「祈祷で凶を除くことができないか?」
晏子が答えました「祈祷によって神を招くことができるのなら、祈祷によって去らせることもできるでしょう。しかし百姓の苦怨は万を数えます。国君が一人に祈祷を命じたとしても、衆人の口(怨嗟の声)には勝てません。」
当時、景公は宮殿を建造し、犬や馬を集めて奢侈に限りがなく、しかも賦税は重く刑罰が厳しかったため、晏子はこのように諫言しました。
 
晏嬰が景公を諫める言葉は『晏子春秋・内篇諫上(第一)』にも見られます。
ある日の夕暮れ、景公が西の空で彗星を見つけました。景公は伯常騫(騫が名。伯常は字)を召して祈祷をさせようとします。しかし晏子が言いました「いけません。これは天の教(警告)です。日月の気、風雨の不調和、彗星の出現は、天が民の乱れを知って起こし、妖祥によって不敬を戒めているのです。もし国君が文を設け(礼を行い)諫言を受け入れ、聖人・賢人を用いれば、彗星を去らせようとしなくても、彗星自ら姿を消します。しかし今の国君は酒を好み、享楽に耽り、政治を正さず、小人に対して寛大な態度をとり、讒言を近づけ、優(俳優)を愛し、文(礼)を嫌って聖人・賢人を疎遠にしているので、彗星だけでなく茀星も現れることになるでしょう。」
景公は怒って顔色を変えました。
晏子春秋・内篇諫上(第一)』によると、晏子が死んでから景公は諫言をする者がいなくなった事を悲しんだとしています。
 
 
次は『史記・管晏列伝』から晏嬰の紹介です。
晏平仲嬰は萊(東莱)の夷維という場所の人です。嬰が名で、平は諡号、仲は字です。
晏嬰は斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹と力行(職務に忠実で力を尽くすこと)によって斉で重用されました。
斉国の相となってからも、食事は複数の肉を食べず、妾にも帛(絹)の服を着させませんでした。
朝廷においては、国君の発言が晏嬰の事に及べば正直に発言し、国君の発言が及ばなければ(国君が晏子の存在を知らない時は)、自分がやるべき事を全うしました。
また、国に正道があれば国君の命に従い、無道なら命の内容を考慮して正しいことだけを行いました。そのおかげで、霊公・荘公・景公の三代の世において、晏子の名は諸侯に知れ渡りました。
 
 
資治通鑑外紀』はこの他にも晏嬰に関する故事を複数紹介しています。
まずは『晏子春秋・内篇諫下(第二)』からです。
景公が射礼(弓術の儀式)を行うことにしました。晏子が礼に則って景公に仕えます。すると景公が言いました「選射の礼(儀式の礼義)にはもう飽きた。わしは天下の勇士を得て、彼等と共に国を図りたい。」
射礼は武術の儀式ですが、射術の前に宴が開かれ、そこには複雑な礼義作法や取りきめがあったようです。景公は煩雑な礼を嫌い、武に重点を置こうとしました。
しかし晏子はこう言いました「君子に礼が無ければ庶人と同じです。庶人に礼が無ければ禽獣と同じです。勇が多ければ国君を弑殺し、力が多ければ上の者を殺すことになるでしょう。しかしそうすることができないのは、礼によって規制されているからです。礼とは民を御すものです。轡は馬を御すものです。礼を無視して国家を治めた者がいるとは、聞いたことがありません。
景公は納得して「善し」と言うと、射礼の態度を正し、宴席を改め、晏子を上客に置いて、終日、礼について話を聞きました。
 
次は『晏子春秋・内篇問上(第三)』からです。
景公が晏子に問いました「忠臣とはどのように主に仕えるものだ?」
晏子が答えました「国君に難があっても死なず、国君が出奔しても従わないものです。」
景公は不愉快になって言いました「国君が地を分けて封じ、爵を与えて尊重してきたのに、国君に難があっても死なず、出奔しても従わないようで、なぜ忠臣といえるのだ?
晏子が言いました「臣下が進言してそれが用いられたら、国君に難が訪れることは終生ありません。なぜ臣下が死ななければならないのでしょう。臣下が謀って国君がそれに従えば、国君が出奔する必要は終生ありません。なぜ臣下が出奔に従わなければならないのでしょう。逆にもしも進言が用いられなかったのに、国君が難に遭遇し、臣下が国君のために死ぬようなら、それは妄死(無駄死)というものです。臣下が謀っても国君が従わず、結局、国君が出奔することになり、臣下がそれに従ったら、それは詐偽というものです。忠臣とは国君に進言を採用させ、国君と共に難に陥ることがないようにできるものなのです。」
 
晏子春秋・内篇諫上(第一)』からです。
景公が署梁(地名)に狩りに行き、十八日経っても国都に帰りませんでした。
晏子が国都を出て景公に会いに行きます。晏子が署梁に着いた時、衣冠が乱れていましたが、そのまま景公の旗を目指して進みました。
晏子が来たと知った景公は急いで下車し、慰労して言いました「夫子(あなた)はなぜそのように慌てているのですか?国家に何かあったのですか?」
晏子が言いました「緊急の事が起きたのではありません。しかし嬰(私)は国君の帰還を望んでいます。国人は皆、国君が野で満足して国を顧みず、獣を愛して民を嫌っていると言っています。これでいいはずがありません。」
景公が言いました「それはなぜだ(国人が不満なのはなぜだ)?夫婦の獄訟が公平ではないからか?それなら泰士(官名。大士)・子牛(または「子幾」)が居るではないか。社稷・宗廟の祭祀が行われていないのか?それなら泰祝(大祝)子游が居るではないか。諸侯の賓客に対応できないのか?それなら行人・子羽(または「子牛」)が居るではないか。田野が開拓されず、倉庫が満たされていないのか?それなら申田(司田。田地を管理する官)が居るではないか。国家の有余不足(財政の過不足)を管理できないのか?それなら吾子(汝)が居るではないか。寡人にはこの五子がいる。これは心(心臓)に四肢があるのと同じだ。心に四肢があれば安心できる。寡人にも五子がいるのだから、安心していていいのではないか。」
晏子が言いました「嬰(私)の知識と主公の発言は異なります。心に四肢があれば心が安心できるというのは正しいことです。しかし四肢に心が無くなって十八日も経ったとしたら、それは長すぎるのではありませんか。」
景公は狩りを止めて帰還しました。
 
 
 
次回に続きます。