春秋時代241 東周敬王(十) 費無極の死 前515年(2)

今回は東周敬王五年の続きです。
 
[] 秋、晋の士鞅、宋の楽祁犂(子梁。宋の司城)、衛の北宮喜(貞子)および曹人、邾人、滕人が扈(鄭地)で会しました。
周の守備と魯昭和公の帰国について相談されます。
宋と衛は魯昭公が帰国した方が利益があると判断したため、帰国を強く望みました。
しかし士鞅(范献子)は季孫氏から賄賂を受け取っていたため、魯昭公を帰国させる気がありません。
そこで士鞅が楽祁犂と北宮喜に言いました「季孫がまだ罪を知る前に(季孫氏の罪を明らかにする前に)魯君は彼を討伐した。季孫は自ら囚人になることを請い、また亡命することも請うたが、魯君はどちらも許されなかった。ところが魯君は季孫に勝てず、自分が国を出ることになった。備えがない者が国君を追い出すことができるだろうか(季孫氏が国君を放逐したのなら、魯公の出奔は季孫氏が原因だが、季孫氏にはその準備が無く、囚人になることや亡命することを求めるほどだった。季孫氏に準備がなかったのだから、魯公は季孫氏によって追い出されたのではなく、自ら国を出たのだ)。季氏が元の地位を回復できたのは、天が彼を助けて公徒(昭公の兵)の怒りを鎮めさせ、叔孫氏の心を啓発したからだ。そうでなければ、伐人(季孫氏を討伐する者。昭公の兵)が甲冑を脱ぎ、冰(矢筒の蓋)を持って遊ぶはずがない。叔孫氏は禍が大きくなることを心配して自ら季氏の側に立った。これは天の道(意思)である。魯君は斉に助けを求めたが、三年経っても成功していない。季氏は広く民心を得て、淮夷も帰順しており、十年の備えと斉・楚の援けがある(昭公は斉にいますが、斉は昭公のために尽力していません。結果として季孫氏を助けることになっています)。天の賛(賛助)があり、民の助けがあり、堅守の心があり、列国(諸侯)と等しい権を持ちながら、事件を公にせず、国内に主がいる時と同じように仕えている(別の国君を立てていないという意味です)。だから鞅(私)(魯君の帰国が)困難だと判断する。しかし二子は国のことを考えて魯君を帰国させようとしており、それは鞅の願いでもある。二子に従って魯(季孫氏)を包囲し、もし失敗したら共に死ぬことにしよう。」
二子は晋の意向を悟り、魯討伐を辞退しました。
士鞅は会に参加した小国に別れを告げてから、晋頃公に魯昭公の帰国が困難であることを報告しました。
 
史記・晋世家』はこの時の事を「衛とが晋に使者を送って魯君の帰国を求めたが、魯の季平子が秘かにに賄賂を贈っため、范献はそれを受け取って晋に『季氏無罪です』と言った。その結果、魯君は帰国できなくなった」と書いています
 
[] 魯の仲孫何忌(孟懿子)と陽虎(季氏の家臣)が鄆(魯昭公)を攻めました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、仲孫何忌は十六歳にもなっていないので、戦いの指揮は陽虎がとったようです。
鄆人(魯昭公の臣下)が迎撃しようとすると、子家羈(子家懿伯。子家子)が言いました「天命を疑うことができなくなって(季氏に天命があることを疑えなくなって)久しくなる。国君を亡命させたのはこの衆(迎撃しようとしている者達)だろう。天が禍を降したのに、福(幸運)を求めても難しいことだ。もし鬼神がいるのなら、この一戦は必ず敗れる。既に望みが無くなったので、この地で死ぬことになるだろう。」
昭公は十九歳になっても童心があり、優秀な国君とはいえませんでした。子家羈の進言もたびたび拒否しています。既に天から見放され、昭公自身にも欠点が多いのに、それに気がつかないで季氏と戦おうとしている者達が周りにいることに、子家羈は危機感を抱きました。
 
昭公は子家羈を晋に派遣しました。
季氏の軍を迎撃した昭公の軍は且知(鄆附近)で敗れました。
 
[] 楚で郤宛の難が起きてから、国人の批難が絶えませんでした。胙肉(祭祀で使った肉)を卿大夫に配る者も、皆、令尹・子常の不満を口にし、肉を配りながら子常を訴えました。
沈尹・戌が子常に言いました「左尹(郤宛)と中廏尹(陽令終)はその罪を知ることなく、子(あなた)に殺されました。そのため誹謗の声が今に至るまで絶えません。仁者とは人を殺しても誹謗をこうむるようなことはありません。しかし今、吾子(あなた)は人を殺して誹謗を興し、しかも手を打とうとしません。これはおかしなことです。無極が楚の讒人(讒言を好む者)であることを、民で知らない者はいません。無極は朝呉を除き、蔡侯・朱を走らせ、太子・建を失わせ、連尹・奢(伍奢)を殺し、王の耳目を塞いで聞くもことも見ることも明らかにさせないでいます。彼がいなければ、平王の温恵恭倹は成王や荘王を超えることができたでしょう。平王が諸侯を得ることができなかったのは、無極を近づけたからです。今、また三氏(郤氏、陽氏と晋陳の晋氏)の不辜を殺し、大きな誹謗を招きました。誹謗は子(あなた)にも及ぼうとしています。子は手を打たずにいますが、どうするつもりですか。鄢将師は子の命を偽って三族を滅ぼしました。三族は国の良臣であり、官位にいる間、過失もありませんでした。呉では新君が立ち、疆場(国境)は日々緊張しています。楚国内にもしも大事が起きたら、子の危機となるでしょう。知者は讒言を除いて自分を安定させるものです。しかし子は讒言を愛して自分を危うくしています。これは昏庸の極みです。」
子常が言いました「全て瓦(襄瓦。子常は字)の罪だ。良い方法を考えよう。」
 
九月己未(十四日)、子常が費無極と鄢将師を処刑し、その一族を滅ぼしました。
国人は喜び、誹謗の声も収まりました。
 
[] 冬十月、曹悼公が在位九年で死にました。
史記・管蔡世家(曹世家附)』によると、曹悼公八年(前年)に宋で景公が即位したため、悼公九年(本年)に悼公が宋を朝見しました。しかし悼公は宋で捕えられました。具体的に何が起きたのかは書かれていません。
曹は悼公の弟・野(『資治通鑑前編』では名を「露」としていますが、「露」は悼公から三代後の靖公の名なので、恐らく誤りです)を国君に立てます。これを声公(『十二諸侯年表』では「襄公」)といいます。
悼公は宋で死に、死体が曹に返還されました。
 
[] 邾の快(人名)が魯に出奔しました。
『春秋』経文の記述です。詳細はわかりません。
 
[] 魯昭公が鄆から斉都に行きました。斉景公が饗礼でもてなそうとしましたが、魯の子家羈が言いました「朝も夕も斉の朝廷に立っているのに、なぜ饗を開くのですか?宴礼を用いて酒を飲みましょう。」
饗礼も宴礼(燕礼)も宴の種類です。饗礼は諸侯の間で開かれる盛大な宴でした。しかし魯昭公は鄆に住むようになってから、度々斉の朝廷に入り、斉の賓客ではなく臣下に近い立場になっています。饗礼を用いた宴を開きながら、実際は臣下のように遇されたら、昭公が恥をかくことになります。そこで子家羈は饗礼を辞退し、宴礼を用いるように進言しました。宴礼は諸侯が卿大夫に用いる礼です。
 
宴が始まると、斉景公は宰(宰夫)に命じて魯昭公に酒を注がせました。
諸侯は相手の身分が対等の諸侯なら自分で酒を注ぎましたが、相手が卿大夫(臣下)の場合は直接酒を注がず、宰に酒を注がせるのが礼でした。斉景公が宰に命じて魯昭公の酒を注がせたというのは、魯昭公を臣下とみなしていることを意味しています。
斉景公は途中で席を離れて去りました。
 
子仲(魯の公子・憖。季氏を放逐しようとして失敗し、斉に奔りました。東周景王十五年・前530年参照の娘・重は斉景公の夫人でした。
景公が「重を宴に参加させて魯君に会わせたい」と言いましたが、子家羈は景公夫人に会うのを避けるため、昭公を連れて退出しました。
 
暫くして昭公は鄆に戻りました。
 
[] 十二月、晋の籍秦(籍談の子)が諸侯の戍(守備兵)を成周に送りました。
魯だけは国難を理由に出兵を辞退しました。
 
 
 
次回に続きます。