春秋時代245 東周敬王(十四) 晋の刑鼎 前513年(2)

今回は東周敬王七年の続きです。
 
[] 冬十月、魯の昭公が住んでいた鄆から民が逃走し、鄆は壊滅しました。
昭公が晋の乾侯に行ってから、鄆の人々は昭公に帰還させないため、逃走して鄆を崩壊させたようです。季氏が動いたのかもしれません。
尚、『春秋公羊伝』には、昭公が郛(外城)を造らせたのが民が逃げた原因とあります。
 
[] 魯の季孫意如(平子)は毎年馬を買い、従者の衣服や履物を準備して、乾侯の昭公に贈りました。しかし昭公は馬を贈った者を捕え(季氏の家臣だからです)、馬を売ってしまいました。季孫意如は馬の供給を中止します。
 
衛霊公が魯昭公に自分の馬を贈りました。「啓服」といいます。しかし馬は坑に落ちて死んでしまいました。
昭公が馬のために櫝(棺)を作ろうとすると、子家羈が言いました「従者が疲弊しています。馬を従者に食べさせるべきです。」
当時の馬は痛んだ帷に巻いて埋めるのが礼とされていたようです。
子家羈の発言は、実際に従者に馬を食べさせるための進言ではなく、従者が困窮しているのに馬のために棺を作ろうとしている昭公を諫めることが目的です。
昭公は過ちを認め、馬を帳に巻いて埋めました。
 
[] 魯昭公には公衍と公為という子がいました。
昭公は公衍に羔裘(子羊の皮服)を与え、斉に派遣して景公に龍輔(龍の模様がほどこされた玉)を献上させました。
公衍は龍輔と一緒に羔裘も斉景公に献上します。喜んだ景公は陽穀(斉の邑)を公衍に与えました。
 
かつて公衍と公為が産まれる時、二人の母が共に産房に入りました。公衍が先に産まれましたが、公為の母がこう言いました「私達は一緒に産房に入りました。一緒に出産の報告をしましょう。」
三日後に公為が産まれました。
すると公為の母が先に出産を報告しました。昭公は先に報告があった公為を兄としました。
 
魯昭公は公衍が陽穀の地を得て帰還したことを喜び、また公衍と公為が産まれた時の事を思い出し、こう言いました「務人(公為)が禍をもたらした(季氏の討伐を謀ったのは公為です。失敗して昭公は亡命することになりました)。しかも後から産まれたのに兄となった。その誣(欺瞞)は既に久しくなる。」
昭公は公為を廃して公衍を太子に立てました。
 
[] 冬、晋の趙鞅(趙武の孫)と荀寅(荀呉の子。中行氏)が兵を率いて汝水の辺(陸渾戎から奪った地)に築城し、晋国の民から一鼓(四百八十斤)の鉄を徴収して刑鼎を鋳造しました。刑鼎には范宣子(士が定めた刑書の内容が鋳られます。
 
それを聞いた仲尼孔子が言いました「晋は亡びるだろう。度(下述)を失った。晋国は唐叔(晋の祖)が伝えた法度を受け継ぎ、それを民の経緯(準則)としてきた。卿大夫が序(官職の秩序)によってそれを守っていれば、民は貴人を尊敬し、貴人は自分の業を守ることができた。貴賎に誤りがないこと(身分の秩序が乱れないこと)を度という。文公は執秩の官(官職の秩序を管轄する官)を設け、被廬の法(東周襄王二十年・前633年参照)を作ったから盟主になれたのだ。今、その度を棄てて刑鼎を作ったが、民が鼎を見たら(民が刑法を知るようになったら)、尊貴が無くなってしまう。貴人はどうやって業を守るというのだ。貴賎に秩序が無くなって、どうして国を治めるというのだ。そもそも、宣子の刑とは夷の蒐(東周襄王三十二年・前621年参照)で作られた、晋国の乱制である(晋は夷蒐で中軍の師を換えたため、賈季や箕鄭の徒が乱を起こしました。そのため孔子は「晋の乱制」と言っています)。どうしてそれを法とすることができるのだろう。」
孔子の見解はかつて鄭の子産が鼎に刑書を鋳た時、晋の叔向が譴責した内容に似ています(東周景王九年・前536年)
 
晋の蔡史墨(蔡墨)もこう言いました「范氏と中行氏は亡ぶだろう。中行寅は下卿でありながら上令を犯し、勝手に刑器を作って国法とした。これは法姦(法令を犯す罪人)である。范氏(士氏)は法を変えた(被廬の法は士によって改められました)。だから滅亡する。その禍は趙氏にも及ぶだろう。趙孟(趙鞅。趙孟は趙氏の主の意味)も参与したからだ。しかし趙孟が参与したのはやむを得ないことだったので(刑鼎は趙鞅の意志で作られたのではないので)、徳を修めれば禍から逃れられる。」
 
当時、刑法は統治階級が掌握しているものであり、民に公開するというのは身分の秩序を乱す行為だと考えられていました。国君や貴族が圧倒的な権力を持って民衆を支配していた時代は、民に法を知らせる必要がありませんでした。民が慣習や命令に従っていれば、国を治めることができたからです。
しかし国王や諸侯の権力が弱くなり、実権が国王から諸侯、諸侯から卿、卿から大夫へというように、下に移っていくと、より多くの人が政治に参加するようになります。当然、民衆の発言力も拡大します。
そうなると国君や貴族が押し付けてきた慣習法だけでは国を治めることができなくなります。こうして万民共通の基準となる成分法が必要になりました。
身分秩序の崩壊にともなって発展した法とは、保守派にとって、貴族と庶民、貴人と賎民を分ける壁を崩す存在でした。伝統的な身分制度を重んじる孔子が成文法に批判的だったのはそのためです。
とはいえ、時代は旧制の改革を求めていたため、法を明らかにするという動きは各国に拡がっていきます。
戦国時代初期、晋から分裂した魏でいち早く体系的な法(『法経』)が作られ、変法改革によって富国強兵を成し遂げますが、これは「刑鼎」に端を発しています。
そして、秦の商鞅が変法によって秦を強大国に成長させ、天下統一の基礎を造ることになります。
 
 
 
次回に続きます。