春秋時代254 東周敬王(二十三) 陽虎の乱 前505年(1)

今回は東周敬王十五年です。二回に分けます。
 
敬王十五年
505年 丙申
 
[] 春、楚の乱に乗じて周敬王の部下が楚に出奔していた王子朝を殺しました。
 
[] 三月辛亥朔、日食がありました。
 
[] 夏、蔡が楚に包囲されて食糧が乏しくなったため、魯が粟(食糧)を送りました。
 
[] 越(於越)が呉を攻撃しました。呉が楚に遠征していたためです。この時の越の主は允常です。
呉は一部の兵を割いて越軍に抵抗しました。
 
[] 六月、魯の季孫意如(季平子)が東野(季氏の邑)を巡察しました。
丙申(十七日)、季孫意如が魯都に帰る途中の房(防)で死にました。
 
季孫氏の家臣・陽虎が璵璠(魯国の宝玉)を副葬品に使おうとしましたが、同じく季孫氏の家臣・仲梁懐(仲梁が氏)が玉を与えず、「改歩改玉」と言いました。
「歩を改めたのだから、玉も改めなければならない」という意味です。「歩」とは歩き方、歩く速度のことで、祭祀等において尊貴な人ほどゆっくり歩く決まりがありました。魯昭公が出奔している間は、季孫意如が国君の代わりに政治や祭祀を行っていたので、国君の「歩」でしたが、定公が即位して臣下の地位に戻ったので、「歩」も臣下のものになりました。「歩」が改められた、つまり臣下の地位に戻ったのだから、副葬品の玉も国君の宝物ではなく、臣下としての玉を使わなければならない、というのが仲梁懐の考えです。
 
陽虎は怒って仲梁懐を駆逐しようとし、公山不狃(子洩。公山が氏。季孫氏の家臣で費邑の宰)に相談しました。
しかし公山不狃はこう言いました「彼は国君のためを思ってそうしたのだ。子(あなた)は何を怨むのだ?」
 
季孫意如の埋葬が終わってから、季孫斯(桓子。意如の子)が東野に巡行し、費に至りました。
費宰の子洩(公山不狃)が郊外で慰労します。季孫斯は子洩に対して恭敬な態度を取りました。
ところが子洩が仲梁懐を慰労した時、仲梁懐の態度が不敬でした。
子洩は怒って陽虎に「彼を駆逐したいと思うか?」と言いました。以前の考えを棄てて陽虎に挙兵を勧めています。
 
[] 楚の申包胥が秦の援軍を率いて帰国しました。秦の子蒲(または「子満」)と子虎が車五百乗を率いています。
子蒲が言いました「私は呉の(戦術)を知らない。」
秦軍はまず呉との戦いに慣れている楚軍に戦わせました。その間に秦軍が稷から進んで楚軍と合流し、両軍は沂で呉の夫槩を破りました。
柏挙の戦い(前年)呉軍が楚の大夫・射を捕えましたが、射の子が残兵を率いて楚の子西に従い、今回、軍祥で呉軍を破りました。
 
秋七月、楚の子期と秦の子蒲が唐国を滅ぼしました。唐は呉に従って楚を攻撃した国です。
 
[] 壬子(初四日)、魯の叔孫不敢(叔孫成子。叔孫の子)が死にました。
 
[] 九月、呉の夫槩は楚・秦連合軍と越が同時に呉を攻め、また、呉王・闔閭が楚に留まっているのを見て、先に帰国して自ら王を名乗りました。これを夫槩王といいます。
しかし呉王・闔閭が夫槩王を攻撃し、夫槩王は敗れて楚に奔りました。
史記』の『呉太伯世家』『楚世家』によると、楚に帰順した夫槩は堂谿に封じられたため、後に堂谿氏を名乗るようになりました。
 
呉軍が雍澨で楚軍を破りましたが、秦軍が再び呉軍を破りました。
呉軍は(恐らく雍澨付近。呉楚が戦った場所)に駐軍します。
楚の子期が火攻めを行おうとすると、子西が言いました「父兄親戚の骨が晒されており、収めることもできていません(前年、呉と楚が戦った時の死体が晒された状態になっていたようです)。焼いてはなりません。」
子期が言いました「国が亡んでしまったら、死者に知覚があったとしてもどうして旧祀(今までの祭祀)を享受できるというのだ(国が滅んだら死者が祭祀を受けたいと思っても受けられなくなる)。なぜ焼かれることを畏れるのだ。」
楚軍は火攻めを行い、再攻撃して呉軍を破りました。
更に公壻の谿(地名)でも呉軍に大勝します。
呉王・闔閭は楚から兵を還しました。
今後、戦いの場は呉楚から呉越に移っていきます。
 
呉軍は楚の大夫・闉輿罷を捕えました。しかし闉輿罷は先行して呉に行くことを願い出て、隙を見つけて逃走しました。
 
葉公・諸梁(子高。沈尹・戌の子)の弟・后臧は母と一緒に呉軍に捕えられて呉に送られました。
後に呉軍が引き上げて楚国内が安定すると、后臧は母を棄てて楚に帰りました。葉公・諸梁は終生、弟を正視することがなくなりました。
 
[] 乙亥(二十八日)、魯の陽虎が乱を起こしました。季孫斯と公父(公父文伯。季孫斯の従兄弟)を捕え、仲梁懐を追放します。
 
冬十月丁亥(初十日)、陽虎が公何藐(季孫氏の一族)を殺しました。
己丑(十二日)、陽虎が稷門(魯城南門)の中で季孫斯と盟を結びました
庚寅(十三日)、大詛を行いました。「詛」というのは盟に背いた者に呪いがかかるようにする儀式です。通常の「詛」ではなく「大詛」といっているので、参加した者が多数いたようです。
公父と秦遄(季孫意如の父の姉妹の夫)は斉に奔りました。
 
以上は『春秋左氏伝(定公五年)』の記述です。
史記・魯周公世家』には「陽虎私怒によって季桓子を捕え、を結んで釈放した」とあります。
孔子世家』にはもう少し詳しく書かれています。
桓子嬖臣(寵臣)仲梁懐といい、陽虎と対立していました。
陽虎は仲梁懐を駆逐しようとしましたが、公山不狃季氏がそれを止めます。
、仲梁懐がますます驕慢になったため、陽虎は仲梁懐を捕えました。
それを知った季桓子が激怒しました。
すると陽虎は季桓子も捕えてしまいました。
やがて、陽虎は季桓子とを結んで釈放します。この事件があってから陽虎季氏を軽視するようになりました。
一方の季氏公室に対する越権がますます目立つようになります。魯は陪臣(大臣。諸侯の臣)が国を行うようになりました。
こうして、大夫以下、群臣官員が正道から離れていきました(家臣の陽虎が主の季氏を軽視し、大臣の季氏が国君を軽視しています。上下の秩序が失われました)
このような状態を嘆いた孔子は出仕せず、『』『』『礼』『楽』といった学問を修めることにしました。遠近から多数の弟子が集まり、孔子に学ぶようになります
 
 
 
次回に続きます。