春秋時代257 東周敬王(二十六) 鄟沢の盟 前502年(1)

今回は東周敬王十八年です。二回に分けます。
 
敬王十八年
502年 己亥
 
[] 春正月、魯定公が斉を侵して陽州の城門を攻撃しました。
 
魯の顔高は大弓を持っていました。
魯の陣営で並んで座っていた士卒達が、大弓を手にして珍しそうに「顔高の弓は六鈞(当時の百八十斤)もある」と言いながら、次々に隣の士卒に弓をまわしていきました。
顔高から弓が遠く離れた時、陽州の兵が出撃しました。
顔高は自分の弓がないため、他の兵から弱弓を奪いました。しかし斉の籍丘子鉏が射た矢が中り、顔高ともう一人の兵が一緒に倒れました。
顔高は地面に倒れたまま弱弓を射ます。矢は籍丘子鉏の頰に命中し、子鉏は死にました。
 
魯の顔息が射た矢が斉人の眉に中りました。顔息は陣に戻ってからこう言いました「わしは無勇(武勇がない。射術に優れていない)だ。わしが狙ったのは目だ(しかし眉に中ってしまった)。」
 
魯軍が陽州から引き上げました。冉猛は先に帰りたいため足を負傷しているふりをして前を走りました。
それを見た兄が叫んで「猛は殿しんがりとなれ(猛也殿)!」と命じました。
この部分はもう一つの解釈があります。冉猛は足を負傷したふりをして先に引き上げました。行軍の列に弟の姿がないことに気づいた兄は、弟が逃げるために前に行ったと知りましたが、偽って「猛は殿になった(猛也殿)」と大声で話し、弟がいないことをごまかしました。
 
魯定公が斉討伐から帰国しました。
 
[] 二月、晋の趙鞅が晋定公に言いました「諸侯の中で宋だけが晋に仕えています。宋の使者を優待してもまだ足りないと心配しなければならないほどなのに、逆に使者を捕えてしまったので楽祁。東周敬王十六年・前504年参照)、このままでは諸侯との関係を失うことになります。」
定公は楽祁(子梁)を帰国させようとしました。
しかし士鞅(范献子)は「(足掛け)三年も拘留しておきながら理由もなく帰らせたら、逆に宋は晋に背くだろう」と考え、秘かに楽祁にこう伝えました「寡君は宋君に仕えることができないことを恐れて子(あなた)を留めている。子はとりあえず溷(楽祁の子)に命じて子と交代させるべきだ。」
楽祁が宰臣の陳寅にこの事を話すと、陳寅はこう言いました「宋はもうすぐ晋に背くので、(溷と交代させたら)溷を棄てることになります。あなたが留まるべきです。」
楽祁は楽溷を招きませんでしたが、自分自身も宋に帰ることにしました。しかし晋東南の大行(太行山)で死んでしまいました。
士鞅が言いました「宋は必ず背く。その死体を晋に置いて、講和に使うべきだ。」
楽祁の死体は(晋の地名)に置かれました。
 
[] 魯定公が再び斉を侵し、廩丘の郛(外城)を攻めました。
廩丘の主人(守将)が衝車(攻城兵器)を焼きましたが、魯人は馬褐(麻の短衣。貧しい人の服)を濡らして火を消し、攻撃を続けます。
ついに廩丘の外城が崩壊しました。ところが廩丘の主人が出撃すると、魯軍は逃走しました。
 
魯の陽虎の近くに冉猛がいました。陽虎は冉猛が見えないふりをして「猛がここにいれば必ず敵を敗ることができるのだが」と言いました。
それを聞いた冉猛は発憤して廩丘の兵を駆逐します。しかし後ろを見た冉猛は魯兵が続かないと知り、わざと転倒して追撃を止めました。
陽虎が言いました「皆、客気(嘘。偽り)だ。」
陽虎が見えないふりをして冉猛を奮い立たせたのも偽り、冉猛が転倒したのも偽りです。冉猛の勇そのものが偽りだと言っています。
 
[] 二月己丑(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の二月に己丑はないため、恐らく三月己丑の誤り。三月二十六日)、周の単子が穀城を攻め、劉子が儀栗(儋翩)を攻めました。
辛卯(三月二十八日)、単子が簡城を攻め、劉子が盂を攻めてました。
四城とも陥落し、周王室が安定しました。
儋翩がどうなったのかはわかりません。
 
[] 三月、魯定公が斉討伐から帰還しました。
 
[] 曹靖公が在位四年で死に、子の伯陽が継ぎました。伯陽には諡号がありません。
 
[] 以前、魯の苫越に子が産まれましたが、大事を待って命名することにしていました。本年初めに陽州の役で捕虜を得たため、子の名を陽州としました。
 
[] 夏、斉の国夏と高張が魯の西境を侵しました。
晋の士鞅(范献子)、趙鞅(趙簡子)、荀寅(中行文子)が魯を援けます。
晋軍が至る前に斉軍は兵を還しました。
魯定公が瓦で晋軍と会し、士鞅が羔(子羊)を、趙鞅と荀寅が雁を礼物にして定公に会いました。魯はこの時から羔を貴い物とし、上卿だけが使えるようにしました。
 
[] 瓦から引き上げた晋軍が(衛地)衛霊公と盟を結ぶことにしました。趙鞅が言いました「群臣の中で衛君と盟を結べる者がいるか?」
大夫の渉佗と成何が言いました「我々なら盟を結べます。」
 
会盟が始まると、衛霊公は渉佗と成何に犠牲の牛耳を切るように命じました。会盟の礼では、身分の低い者が牛耳を切り、身分が高い者がその場に臨むのが決まりです。衛は小国ですが、晋の代表は大夫なので身分は霊公が上になります。
ところが成何は「衛の地は晋の温や原の地(どちらも晋の県)と変わらないから諸侯とみなす必要はない」と言いました。
 
衛霊公が歃血の儀式を行おうとした時、渉佗が衛霊公の手を払いのけたため、犠牲の血が霊公の腕にかかって滴りました。
晋の無礼に対して衛霊公が立腹しました。それを知った衛の大夫・王孫賈(または「王孫商」。王孫牟の後代)が小走りで進み出てこう言いました「今回の盟は、晋が衛君と誓って礼を伸ばすことが目的です。礼を行うことがないのに、この盟を受けるというのですか。」
 
衛霊公は晋から離反することにしましたが、諸大夫の反対を恐れました。そこで王孫賈は霊公を衛の郊外に住ませました。大夫がなぜ帰国しないのかと問うと、霊公は晋の無礼を語り、こう言いました「寡人は社稷を辱めてしまった。改めて後嗣を卜え社稷を辱めてしまったから帰国できない。別の国君を立てよ)。寡人はそれに従う。」
諸大夫が言いました「これは衛国の禍です。国君の過ちではありません。」
霊公が更に言いました「他にも憂患がある。晋は寡人に『汝の子と大夫の子を質(人質)に出せ』と要求した。」
諸大夫が言いました「もしも質を出すことに益があり、公子が晋に行くのなら、群臣の子も馬を牽いて従います。」
諸大夫は晋と対立したくないため人質を送る準備を始めました。
 
王孫賈が霊公に言いました「衛国に難があっても工商がまだ患憂としていません。彼等を全て動かさなければなりません(工商からも質を出させなければなりません)。」
国君や卿大夫に難があっても工人や商人等には関係ないので、国人全てに晋を憎ませる必要があるという意味です。
霊公がこれを諸大夫に告げ、工商業等に従事する国人も人質を送ることになりました。人質が衛を発つ日が決められます。
 
当日、霊公が国人に朝見させました。国人が集まると、王孫賈を派遣してこう問わせます「もし衛が晋に叛したとして、晋が五回我が国を攻めたら、どれくらい危険だろうか?」
国人が答えました「五回攻撃を受けてもまだ戦えます。」
王孫賈が言いました「それならば、先に叛して危険になってから質を送っても遅いことはない。」
国人は同意し、人質を中止して晋から離反しました。
晋は改めて盟を結ぼうとしましたが、衛は拒否しました。
 
以上は『春秋左氏伝(定公八年)』を元にしました。『説苑・権謀(巻十三)』にも書かれています。
趙簡子が成何と渉他(渉佗)を送って衛霊公と沢で盟を結ばせました
霊公が喋盟歃血の儀式)をしようとした時、成何と渉他が霊公の手を払いのけました。血は霊公の腕にしたたります。
霊公は怒って趙(晋)から離反することにしました。
王孫商が霊公に言いました「主公が趙に反したいのなら、百姓と悪を共にするべきです(国民と共に晋を憎むべきです)。」
霊公がその方法を問うと、公孫商が言いました「臣に命じて国人にこう伝えさせてください『姑(父の姉妹)・姉妹および娘がいる者は、家ごとに一人を出せ。人質として趙に送る。』こうすれば百姓は必ず怨み、主公は国人の支持を得て反すことができます。」
霊公は「善し」と言い、公孫商に命令を発布させました。
三日後に女性達が集められ、五日間で命令が完遂されます。国人は巷で哀泣しました。
そこで霊公が国内の大夫を集めてこう言いました「趙の無道に対して、離反するべきではないか。」
憤慨している大夫達は皆「その通りです」と答えます。
こうして衛は晋から離れました。
 
[] 魯定公が瓦から帰国しました。
 
 
 
次回に続きます。