春秋時代 晏子列伝

東周敬王二十年(前500年)に斉の晏子(晏嬰)が死にました。
ここでは晏嬰に関する故事を紹介します。
 
まずは『説苑・君道(第一)』からです。
晏子が死んだ時、斉景公は蔞(恐らく地名)で遊んでいましたが、晏子が死んだと聞くと、すぐ輿(車)に乗り素服(喪服)に着替え、駅車を駆けて帰りました。しかしそれでも遅いと思ったため、車を降りて自ら走り始めました。暫くして再び車に乗りましたが、暫くするとまた車から降りて走り出します。国都に着くまでに四回も車を降りて走りました。
景公は哀泣しながら進み、晏子の前まで来ると死体に伏せ、号哭してこう言いました「子大夫晏子は日夜、寡人を譴責して容赦が無かったが、寡人の淫蕩は収まらず、百姓に怨みが溜まってしまった。その結果、天が禍を斉国に降したが、それは寡人ではなく夫子(あなた)の身に起きた。これは斉国の社稷の危機だ。今後、百姓は誰に訴えればいいのだ。」
 
 
『説苑・正諫(巻九)』には晏嬰以外の諫臣も紹介していますが、これがいつの事かは分かりません。晏嬰が死んでからの事かもしれません。
景公が海上で遊び、六ヶ月間帰還しませんでした。左右の近臣にこう命じます「還るように勧める者は死刑に処す。」
すると顔燭が小走りで進み出て言いました(貴人の前では小走りで移動するのが当時の礼です)「主公は海上で楽しんで六か月も還っていませんが、もしも国を治める者が現れたら(他の者に国を乗っ取られたら)、主公は海で楽しんでいられますか。」
景公は戟を持って顔燭を撃とうとしました。しかし顔燭は更に小走りで進み出て、衣服を正してからこう言いました「速く臣を撃ってください。昔、桀夏王朝最後の王)は関龍逢夏王朝末期の諫臣)を殺し、紂商王朝最後の王)は王子・比干商王朝末期の賢人)を殺しました。主公の賢はこの二主(桀と紂)に及ばず、臣の材(能力)はこの二子(関龍逢と比干)に及びません。主公はなぜ臣を撃たないのですか。臣が(諫言によって死んで)この二人に並ぶことができれば、それも善いではありませんか。」
景公は諫言を称賛し、斉都に帰還しました。道中、国人の中に謀反を企んでいる者がいると知りました顔燭の諫言に感謝しました)
 
 
史記・管晏列伝(巻六十二)』から晏子の記述です。
晏平仲は名をといい(平は諡号、仲は字です)、莱の夷維です父は晏桓子といいます。晏子は斉の霊公公、景公に仕え、力行によって重用されました。
斉のになってからも食事ではを重ねず(複数の肉料理を食べることがなく)の衣服を着ることもありませんでした
 
晏子の倹約に関しては、『十八史略』に「一着の狐裘(狐の腋の下の毛皮だけで作った上着を三十年も着続け、豚肩(祭祀で使う豚肉)は豆(食器)を覆うことがなかった(肉が少ないという意味です)。しかし斉国の士で晏子の援助を得て火を挙げる者(炊事する者。生活するという意味)は七十余家あった」と書かれています。
 
管晏列伝』に戻ります。
朝廷で国君の言が自分に及べば実直に意見を述べ、国君の言が自分に及ばなければ自分の行動を正すことに勉めました(原文「君語及之,即危言語不及之,即危行。」国君に認められて意見を求められたら媚びることなく語り、国君に認められず意見を求められることがなければ、余計な事は語らず自分の身を正したという意味です)。また、国にがあればに従い、国が無道なら命令の内容を検討して行動するかどうかを決めました。
そのおかげで晏子三世(霊公・荘景公に渡って諸侯に名が知れわたりました
 
越石父人でしたが、縲紲(罪人。奴隷)に身を落としていました。
ある日、晏子が外出した時、路上で越石父に遭遇しました。晏子左驂(馬車の左の馬)を解いて越石父の主人に贈り、越石父を自由の身にしてから、車に乗せて家に帰りました。
ところが家に着いた晏子は越石父に挨拶もせず、(内室)に入りました
暫くして、越石父晏子との関係を絶ちたいと言いました驚いた晏子衣冠を正して問いました「嬰(私)不仁ですが、(あなた)(難)から救いました。が絶(関係を絶つこと)を求めるのは速すぎませんか?
すると越石父はこう言いました「君子は自分を理解しない人に出遭ったら身を屈し(表に出ず)、自分を理解する者に出会ったら伸張することができる(君子詘於不知己而信於知己者といいます私は縲紲にいましたが、それはが私を理解できなかったからです。夫子(あなた)は既に心を動かし、私を贖いました。これは私を理解しているからです。しかし私を理解しながら礼を用いないのなら、縲紲にいた方がましです。」
晏子は越石父を室内に招き、上客としてもてなしました
 
晏子が斉のになってからのことです。
晏子が外出したた時、晏子の御者のの間からの様子を見ていました
大蓋を立てた車で駟馬(四頭の馬)を操り、斉の御者として意気揚揚としていました。
ところが、御者が家に帰ると妻が別れを告げました。がその理由を問うとはこう言いました晏子の身長は六尺にも満たないのに、そのは斉国のを勤めており、その諸侯に轟いています今日、()が外出する様子を見ていたら、晏子志念がとてもいのに、人のになることもできる態度をとっていましたところが(あなた)は身長が八尺もありながら僕御を勤め、しかもの意志は既に満足しているようでした。だからは去りたいと思うのです。」
このは自分を抑えて謙譲の態度をとるようになりました。
その変化に気がついた晏子が不思議に思って理由を問うと、御者は正直に妻の言葉を話しました。
晏子は御者を推挙し、大夫にしました
 
 
最後は『晏子春秋・内篇・雑下(巻六)』からです。晏子の背に関する故事が書かれています。
晏子が使者として楚に行ったことがありました。晏子は背が低かったため、楚人は晏子を辱めるため、大門の横に小門を作って晏子を通らせようとしました。しかし晏子は小門に入らず、こう言いました「狗の国に使者として来た者は狗の門から入るものだ。しかし臣(私)は楚に使者として来た。この門から入るべきではない。」
儐者(賓客を接待する官)晏子を大門から中に入れました。
晏子が楚王(誰かはわかりません)に会うと、楚王が問いました「斉には人がいないのか?」

晏子が答えました「臨淄(斉都)には三百の閭(巷)があり、人々が袂(袖)を張れば陰ができ、汗を揮えば雨になり、道を歩く人々の肩がぶつかり踵が接するほどです。なぜ人がいないと言うのでしょうか?」
楚王が問いました「それではなぜ子
(汝)が使者として来たのだ?」
晏子が答えました「斉が使者を任命する時には、それぞれの主
(使者として訪問する相手)がいるものです。賢者が使者となったら賢王を訪問し、不肖の者が使者となったら不肖な王を訪問します。嬰(私)は最も不肖なので、こうして楚に来たのです。」

晏子が楚に入る前の事です。楚王が左右の近臣に問いました「晏嬰は斉において習辞の者(弁舌を得意とする者)だ。もうすぐここに来るが、彼を辱めてやろうと思う。何かいい方法はないか?」

近臣が言いました「彼が来たら、一人を縛って王の前を通らせてください。その時、王が『あれは何者だ?』と問い、臣等が『斉の人です』と答え、王が『何の罪を犯したのだ?』と問い、臣等が『盗みを働きました』と答えます(こうすれば斉人の晏子を辱めることができます)。」
晏子が来ると楚王は晏子に酒をふるまいました。酒がまわった頃、二人の官吏が一人の男を縛って楚王の前に来ました。

楚王が問いました「縛られている者は何をしたのだ?」
官吏が答えました「斉人です。盗みを働きました。」
楚王が晏子を見て言いました「斉人はやはり盗みが好きだ。」

すると晏子は席を下りてこう言いました「橘が淮南で育ったら橘となり、淮北で育ったら枳になるといいます。両者は葉の形が似ているだけで、実の味は異なります(橘は甘く、枳は苦くて酸っぱいといわれています)。なぜそうなるのでしょう。水土が異なるからです。民が斉で育ったら盗賊にならないのに、楚に入ったら盗賊になるというのは、楚の水土が民に盗みを得意とさせているのではありませんか?」
楚王が笑って言いました「聖人をからかうべきではないな。寡人が恥をかいてしまった。」