春秋時代 晏子列伝
ここでは晏嬰に関する故事を紹介します。
まずは『説苑・君道(第一)』からです。
晏子が死んだ時、斉景公は蔞(恐らく地名)で遊んでいましたが、晏子が死んだと聞くと、すぐ輿(車)に乗り素服(喪服)に着替え、駅車を駆けて帰りました。しかしそれでも遅いと思ったため、車を降りて自ら走り始めました。暫くして再び車に乗りましたが、暫くするとまた車から降りて走り出します。国都に着くまでに四回も車を降りて走りました。
景公は哀泣しながら進み、晏子の前まで来ると死体に伏せ、号哭してこう言いました「子大夫(晏子)は日夜、寡人を譴責して容赦が無かったが、寡人の淫蕩は収まらず、百姓に怨みが溜まってしまった。その結果、天が禍を斉国に降したが、それは寡人ではなく夫子(あなた)の身に起きた。これは斉国の社稷の危機だ。今後、百姓は誰に訴えればいいのだ。」
『説苑・正諫(巻九)』には晏嬰以外の諫臣も紹介していますが、これがいつの事かは分かりません。晏嬰が死んでからの事かもしれません。
景公が海上で遊び、六ヶ月間帰還しませんでした。左右の近臣にこう命じます「還るように勧める者は死刑に処す。」
すると顔燭が小走りで進み出て言いました(貴人の前では小走りで移動するのが当時の礼です)「主公は海上で楽しんで六か月も還っていませんが、もしも国を治める者が現れたら(他の者に国を乗っ取られたら)、主公は海で楽しんでいられますか。」
景公は戟を持って顔燭を撃とうとしました。しかし顔燭は更に小走りで進み出て、衣服を正してからこう言いました「速く臣を撃ってください。昔、桀(夏王朝最後の王)は関龍逢(夏王朝末期の諫臣)を殺し、紂(商王朝最後の王)は王子・比干(商王朝末期の賢人)を殺しました。主公の賢はこの二主(桀と紂)に及ばず、臣の材(能力)はこの二子(関龍逢と比干)に及びません。主公はなぜ臣を撃たないのですか。臣が(諫言によって死んで)この二人に並ぶことができれば、それも善いではありませんか。」
景公は諫言を称賛し、斉都に帰還しました。道中、国人の中に謀反を企んでいる者がいると知りました(顔燭の諫言に感謝しました)。
斉の相になってからも食事では肉を重ねず(複数の肉料理を食べることがなく)、妾が帛の衣服を着ることもありませんでした。
晏子の倹約に関しては、『十八史略』に「一着の狐裘(狐の腋の下の毛皮だけで作った上着)を三十年も着続け、豚肩(祭祀で使う豚肉)は豆(食器)を覆うことがなかった(肉が少ないという意味です)。しかし斉国の士で晏子の援助を得て火を挙げる者(炊事する者。生活するという意味)は七十余家あった」と書かれています。
『管晏列伝』に戻ります。
朝廷で国君の言が自分に及べば実直に意見を述べ、国君の言が自分に及ばなければ自分の行動を正すことに勉めました(原文「君語及之,即危言。語不及之,即危行。」国君に認められて意見を求められたら媚びることなく語り、国君に認められず意見を求められることがなければ、余計な事は語らず自分の身を正したという意味です)。また、国に道があれば命に従い、国が無道なら命令の内容を検討して行動するかどうかを決めました。
越石父は賢人でしたが、縲紲(罪人。奴隷)に身を落としていました。
暫くして、越石父が晏子との関係を絶ちたいと言いました。驚いた晏子が衣冠を正して問いました「嬰(私)は不仁ですが、子(あなた)を厄(難)から救いました。子が絶(関係を絶つこと)を求めるのは速すぎませんか?」
すると越石父はこう言いました「君子は自分を理解しない人に出遭ったら身を屈し(表に出ず)、自分を理解する者に出会ったら伸張することができる(君子詘於不知己而信於知己者)といいます。私は縲紲の中にいましたが、それは彼が私を理解できなかったからです。夫子(あなた)は既に心を動かし、私を贖いました。これは私を理解しているからです。しかし私を理解しながら礼を用いないのなら、縲紲の中にいた方がましです。」
夫は大蓋を立てた車で駟馬(四頭の馬)を操り、斉相の御者として意気揚揚としていました。
ところが、御者が家に帰ると妻が別れを告げました。夫がその理由を問うと妻はこう言いました「晏子の身長は六尺にも満たないのに、その身は斉国の相を勤めており、その名は諸侯に轟いています。今日、妾(私)が外出する様子を見ていたら、晏子は志念がとても深いのに、人の下になることもできる態度をとっていました。ところが子(あなた)は身長が八尺もありながら人の僕御を勤め、しかも子の意志は既に満足しているようでした。だから妾は去りたいと思うのです。」
この後、夫は自分を抑えて謙譲の態度をとるようになりました。
晏子が使者として楚に行ったことがありました。晏子は背が低かったため、楚人は晏子を辱めるため、大門の横に小門を作って晏子を通らせようとしました。しかし晏子は小門に入らず、こう言いました「狗の国に使者として来た者は狗の門から入るものだ。しかし臣(私)は楚に使者として来た。この門から入るべきではない。」
晏子が答えました「臨淄(斉都)には三百の閭(巷)があり、人々が袂(袖)を張れば陰ができ、汗を揮えば雨になり、道を歩く人々の肩がぶつかり踵が接するほどです。なぜ人がいないと言うのでしょうか?」
楚王が問いました「それではなぜ子(汝)が使者として来たのだ?」
晏子が答えました「斉が使者を任命する時には、それぞれの主(使者として訪問する相手)がいるものです。賢者が使者となったら賢王を訪問し、不肖の者が使者となったら不肖な王を訪問します。嬰(私)は最も不肖なので、こうして楚に来たのです。」
近臣が言いました「彼が来たら、一人を縛って王の前を通らせてください。その時、王が『あれは何者だ?』と問い、臣等が『斉の人です』と答え、王が『何の罪を犯したのだ?』と問い、臣等が『盗みを働きました』と答えます(こうすれば斉人の晏子を辱めることができます)。」
晏子が来ると楚王は晏子に酒をふるまいました。酒がまわった頃、二人の官吏が一人の男を縛って楚王の前に来ました。
楚王が問いました「縛られている者は何をしたのだ?」
官吏が答えました「斉人です。盗みを働きました。」
楚王が晏子を見て言いました「斉人はやはり盗みが好きだ。」
すると晏子は席を下りてこう言いました「橘が淮南で育ったら橘となり、淮北で育ったら枳になるといいます。両者は葉の形が似ているだけで、実の味は異なります(橘は甘く、枳は苦くて酸っぱいといわれています)。なぜそうなるのでしょう。水土が異なるからです。民が斉で育ったら盗賊にならないのに、楚に入ったら盗賊になるというのは、楚の水土が民に盗みを得意とさせているのではありませんか?」
楚王が笑って言いました「聖人をからかうべきではないな。寡人が恥をかいてしまった。」