春秋時代 趙鞅と董安于

晋で趙を中心にした内乱が起きました。
『国語』『呂氏春秋』等に趙鞅と董安于に関する記述があるのでここで紹介します。
 
まずは『国語・晋語九』からです。
下邑(国都以外の邑。ここでは趙鞅の食邑・晋陽)の役で董安于が多くの功績を挙げたため、趙簡子(趙鞅)が賞を与えようとしました。しかし董安于は辞退します。趙簡子が頑なに褒賞しようとすると、董安于はこう言いました「臣がまだ若かった頃は秉筆(文を書く仕事)によって仕え、名命(文書による命令。指示書)の作成を手伝い、当時の人々に称賛され、諸侯がそれを義(模範)としました。しかし主(趙鞅)はそれを功績とみなしませんでした。臣が壮年になってからは、主の股肱となって司馬(軍官)に従い、苛慝(暴虐姦悪な事)を防ぎました。臣が長じてからは、端委(礼服礼冠)・韠(服に着ける装飾)・帯(大帯)を身につけて宰人(冢宰。家宰。宰官)に仕え、民に二心を抱かせませんでした(しかしこれらの功績が賞されたことはありません)。今回、臣は一時的に狂疾(気が狂うこと。人を傷つける戦争に参加して功績を挙げた事を指します)になりましたが、あなたは『必ず汝を賞さなければならない』と言っています。狂疾によって私を賞すというのなら、出奔した方がましです。」
董安于が小走りで退出しようとしたため、趙簡子はあきらめました
 
 
次は『呂氏春秋・仲秋紀(巻第八)』からです。
趙簡子は二頭の白騾(騾馬)を飼っており、非常に気に入っていました。
ある夜、広門で官を勤める陽城胥渠(陽城が姓)が趙氏の門を叩いて言いました「主君(趙鞅)の臣・胥渠が病にかかり、医者に『白騾の肝を食べれば治るが、手に入らなかったら死ぬ』と言われました。」
謁者(趙氏の門人)がこれを報告すると、董安于が怒って言いました「胥渠は我が君の騾を狙っています。死刑にするべきです。」
しかし趙鞅はこう言いました「人を殺して家畜を活かすのは不仁ではないか?家畜を殺して人を活かすことこそ仁ではないか?」
趙鞅は庖人(料理人)に命じて白騾を殺させ、肝を陽城胥渠に与えました。
暫くして趙鞅が兵を起こして翟(狄)を攻撃しました。すると広門の官が左に七百人、右に七百人を率いて真っ先に城壁を登り、多くの甲首(敵兵の首)を獲りました。
 
 
韓非子・内儲説上(第三十)』から董安于の故事です。
董閼于(董安于)は趙の上地(地名。上党)の守(長官)となりました。ある日、石邑の山中を巡視すると、地が深く割けている場所を見つけました。溝の中は壁のように切り立っており、深さは百仞(仞は長さの単位。具体的な長さには諸説あります)もあります。
董閼于が附近の者に問いました「この中に入った者はいるか?」
人々は「いません」と答えます。
董閼于が問いました「嬰児や癡聾・狂悖の人(白痴や狂人)で入った者はいるか?」
人々は「いません」と答えます。
董閼于が問いました「牛馬や犬、彘(豚)が入ったことはないか?」
人々はやはり「いません」と答えます。
董閼于が感嘆して言いました「私はこの地をうまく治めることができる。私が刑を用いて罪人を赦さないのは、人々がこの溝に入ったら必ず死ぬのと同じだ。(この地の人々は恐れるということを知っているから)敢えて罪を犯すことはないだろう。これで治められないはずがない。」
 
 
次は趙鞅に関する故事です。『呂氏春秋・貴直論(巻第二十三)』からです。
趙簡子が衛を攻めて郭(外城)に迫りました。趙鞅自ら兵を指揮しています。しかし会戦直前になると、趙鞅は遠くにさがり、盾や櫓に守られた安全な場所に立ちました。
城を攻めるために趙鞅が戦鼓を叩きましたが、士兵は動こうとしません。
趙鞅は桴(ばち)を投げ捨て、嘆息して言いました「士卒はこれほど速く質が悪くなるのか。」
これを聞いた行人・燭過が冑を脱ぎ、戈を横に持って進言しました「主の能力に問題があるのです。士卒の質が悪くなったのではありません。」
趙鞅が怒って言いました「寡人(趙鞅は国君ではないので「寡人」とは言わないはずですが、原文のままにしておきます。あるいは家臣の前では「寡人」と言っていたのかもしれません)は他の者を使わず、自ら衆を指揮している。子(汝)は寡人が無能だというが、子の話に道理があれば赦そう。もし道理が無ければ死刑に処す。」
燭過が言いました「昔、我が先君の献公は即位して五年で十九国を兼併しました。献公が用いたのはこの士卒達です。恵公は即位二年で、淫色暴慢にして玉女(美女)を好んだため、秦人に襲われ、絳(晋都)から七十里までの地を譲ることになりました。恵公が用いたのもこの士卒です。文公は即死して二年で勇によって士卒を鍛え、三年で士卒は果敢になりました。城濮の戦いでは荊人(楚軍)に五勝し、衛を囲み、曹を取り、石社を攻略し、天子の位を定め、天下に尊名を成しました。文公が用いたのもこの士卒です。よって主君(趙鞅)の能力に問題があるのであり、士卒の問題ではありません。」
趙鞅は安全な場所を離れて矢石が届く場所に立ち、戦鼓を叩きました。戦鼓が一度響くと士卒は先を争って前に進みます。
それを見て趙鞅が言いました「革車(兵車)千乗を得るよりも、行人・燭過の言を聞いた方がためになる。」
 
 
『太平御覧・人事部四十三(巻四百二)』にも趙鞅と董安于に関する故事があります。
趙簡子が晋山の陽(南)で狩りをした時、轡を持ったまま嘆息しました。
董安于が「なぜ嘆息したのですか?」と問うと、趙簡子はこう言いました「わしには糧食を食べる馬が数千あり(数千頭の馬を飼っており)多力の士も数百を擁している。これらを使って獣を狩ろうとしているが、もしも隣国が賢人を養ってわしを狩ろうとしたらどうなるだろうかと恐れたのだ。」