春秋時代271 東周敬王(四十) 魯の火災 前492年

今回は東周敬王二十八年です。
 
敬王二十八年
492年 己酉
 
[] 春、斉の国夏と衛の石曼姑が戚(蒯聵)を包囲しました。戚は中山(鮮虞)に救援を求めました。
 
[] 夏四月甲午朔、魯で地震がありました。
 
[] 五月辛卯(二十八日)、魯の司鐸(官名)の官署で火災が発生し、火は公宮を越えて桓宮桓公廟)と僖宮(僖公廟)に燃え移りました。消火を行う者達は「府庫を守れ」と言っています。財物が惜しいからです。
南宮閲(南宮敬叔。孔子の弟子)が到着すると、周人(周書・典籍を管理する官)に御書(国君が読む書物)を運ばせ、宮中で待機するように命じて言いました「汝に任せた。もし失うようなことがあったら、死刑に処す。」
子服何(景伯。仲孫蔑の玄孫。献子・蔑は孝伯・它を産み、它は恵伯・椒を産み、椒は昭伯・回を産み、回が景伯・何を産みました)が至ると、宰人(恐らく法礼を管理する官)に命じて礼書を運ばせ、新たな命が出るまで待機させました。命に従わない者には刑罰が加えられます。
また、校人(国君の馬を管理する官)に命じて馬の用意をさせ、巾車(車官の長)に命じて車軸に脂(潤滑にするための動物の脂)を塗らせ(すぐに車を動かせるようにするためです)、百官にはそれぞれの官署を守らせ、盗難を防ぐために府庫の警備を強化し、官人(館人。館舎の管理者)に物資を供給させました。
それぞれの部署が決まると、帷幕を濡らしてまず火の近くの建物を覆い、その後、公の建物を覆いました。まず太廟から始まり、尊卑の順に従って中から外に幕が拡げられていきます
力が足りない者は援助し、力があるのに尽くさない者には刑が降されました。
公父(公父文伯。東周敬王十五年・前505年、陽虎の乱で斉に奔りましたが、陽虎が敗れてから帰国したようです)が至ると、校人に命じて乗車(魯公の車)を用意させました。
季孫斯(季桓子)が到着すると、哀公の御者を象魏(雉門の門闕。太廟は雉門にあります)の外に待機させ、負傷した者を休ませました。財物は再び手に入れることができますが、人命は失うわけにいかないからです。
季孫斯は『象魏(法令。旧章。門闕に法令を掲げたことから、法令は象魏とよばれるようになりました)』を保管させて「旧章を失ってはならない」と言いました。
富父槐が到着して言いました「(火を収める)備えが無いのに、百官に諸事を処理させるのは、(地にこぼした)(羹汁)をすくうようなものだ。」
富父槐は火道に当たる場所から槀(枯草等の燃えやすい物)を移動させ、公宮の周りに道(火巷。火が燃え移らなくするための空間)を作りました。
 
この時、陳にいた孔子は、魯で火災があったと聞いて、「それは桓廟と僖廟だ」と言いました。
桓公と僖公の廟が礼から外れていたためです。
 
[] 魯の季孫斯と叔孫州仇が軍を率いて啓陽に城を築きました。
 
[] 宋の楽髠が曹を攻めました。
 
[] 周の卿士・劉氏と晋で挙兵した范氏は代々婚姻関係にありました。
萇弘は大夫として劉巻(劉狄。劉。劉文公)に仕えていましたが、劉文公が死んでから(東周敬王十四年・前506年)政権を握りました。劉氏と范氏の関係が深かったため、萇弘が政事を行っている周も范氏を支持しました。
これが原因で、晋の趙鞅が周を譴責します。
 
六月癸卯(十一日)、周人が萇弘を殺しました。
 
[] 秋、季孫斯(桓子)が病に倒れ、寵臣の正常(人名)に言いました「汝は死ぬな(殉死するな)。南孺子(季孫斯の妻)が産む子が男なら、わしの言葉を伝えてそれを立てよ。女なら肥(康子。季孫斯の子)を立てればよい。」
 
七月丙子(十四日)、季孫斯が死にました。季孫肥が後を継ぎます。
葬儀が終わってからも季孫肥が季孫氏の代表として朝廷にいました。
しかし南氏が男児を産みました。
正常は男児を車に乗せて朝廷に入り、魯哀公に報告しました「夫子(季孫斯)には遺言があり、圉臣(賎臣。私)にこう言いました『南氏が男を産んだらそれを国君に報告し、大夫と共に立てよ。』産まれたのが男児だったので、敢えて報告します。」
言い終わると正常は男児を季孫斯の家に返して衛に奔りました。季孫肥に害されることを畏れたためです。
後日、季孫肥は位から退くことを願い出ました。そこで哀公が大夫・共劉を派遣し、男児の様子を探らせました。ところが男児は既に殺されていました。季孫肥が暗殺させたようです。
哀公は犯人を捜し出すように命じ、正常にも帰国を勧めましたが、正常は季孫肥を畏れて帰りませんでした。
 
[] 蔡人が大夫・公孫獵を呉に放逐しました。『春秋左氏伝』に記述が無いので詳細は分かりません。『春秋左氏伝』の杜注によると、公孫獵は前年殺された公子駟の党のようです。
 
[] 冬十月癸卯(十三日)、秦恵公が在位九年で死にました。
これは『春秋左氏伝(哀公三年)』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』の記述です。
史記』の『秦本紀』と『十二諸侯年表』は翌年の事としているので、恵公の在位年数は十年になります。
恵公の跡は子の悼公が継ぎました。
 
[] 魯の叔孫州仇と仲孫何忌が邾を包囲しました。
 
[十一] 冬十月、晋の趙鞅が朝歌を包囲し、その南に駐軍しました。
朝歌城内の荀寅が南の郛(外城)にいる晋軍を攻撃しました。趙鞅の兵を集結させるためです。その間に城外の徒(部下)に命じて手薄になった北門の趙氏を攻撃させ、荀寅と范吉射も中から撃って出て包囲を突破しました。
 
癸丑(二十三日)、二人は趙稷が守る邯鄲に奔りました(『史記・趙世家』はこれを二年前の事としていますが、恐らく誤りです)
 
十一月、趙鞅が士皋夷(范皋夷)を殺しました。范氏の一族だったからです。
 
[十二] 『竹書紀年(今本・古本)』によると、この年、洛水が(成周)で途絶えました。
 
[十三] 『資治通鑑外紀』はここで『説苑』等の記述を元に孔子に関することを書いています。別の場所で紹介します。
 
孔子は三年前に魯を去って衛に行きました(東周敬王二十四年・前496年参照)
孔子が魯を出てからの足取りには諸説があります。
史記・宋微子世家』によると、この年に孔子に来ました。しかし司馬桓魋孔子を嫌っており、命を狙ったため、孔子微服(庶民の服)に着替えて宋を去りました。
 
孔子の周遊については『史記孔子世家』に詳しく書かれており、別の場所で紹介しています。
[十四] 『資治通鑑外紀』はここで魯の公父文伯の母・敬姜に関する記述を『国語・魯語下』等から紹介していますが、別の場所で書きます。
 
 

次回に続きます。