春秋時代270 東周敬王(三十九) 鉄の戦い 前493年

今回は東周敬王二十七年です。
 
敬王二十七年
493年 戊申
 
[] 春二月、魯の季孫斯、叔孫州仇、仲孫何忌が邾を攻撃し、絞(邾の邑)を攻めました。
邾は絞の地を惜しんだため、水以東と沂水以西の田(土地)を魯に譲りました。
癸巳(二十三日)、叔孫州仇、仲孫何忌が邾子と句繹(恐らく邾の都)で盟を結びました。
 
[] 以前、衛霊公が郊外に巡遊した時、子南(霊公の庶子・郢)が僕(御者)になりました。
霊公が子南に言いました「余には嫡子がいない(太子・蒯聵が出奔したためです。東周敬王二十四年・前496年参照)。汝を後嗣に立てようと思う。」
子南は何も言いませんでした。
 
後日、霊公が再びこの事を話すと、子南が言いました「郢(私)社稷を治めることはできません。国君は考えを改めるべきです。国君の夫人が堂におり、三揖(卿・大夫・士)が下にいます。(夫人や卿大夫と相談せず、勝手に私を後継者に立てたら、私にはその能力がないので)ただ君命を辱めることになります。」
 
夏四月丙子(初七日)、霊公が死にました。
霊公夫人が言いました「公子・郢を太子に立てます。これが君命です。」
公子・郢が言いました「郢(私)は他の子と異なります(原文「郢異於他子」。「他の子のように国君の位を欲することはない」という解釈と、「母の身分が低いので他の子と立場が異なる」という解釈があります)。また、郢は国君が没するまで従っていましたが、もしそのような命があったのなら、郢も聞いていたはずです(国君が生きている間に太子に立てられたはずです)。亡人(亡命者。蒯聵)の子・輒がいます。」
衛は霊公の孫に当たる輒を立てることにしました。これを出公といいます。
 
[] 滕子が魯に来朝しました。
 
[] 六月乙酉(十七日)、晋の趙鞅(簡子)が衛の太子・蒯聵を戚に送り返そうとしましたが、夜道に迷ってしまいました。
陽虎が言いました「右に向かって河黄河至り、渡河して南に向かえば、必ず(戚に)着く。」
 
陽虎は蒯聵を絻(冠をとって髪を後ろで束ねること)の姿にさせました。また、八人に衰絰(喪服)を着せて、衛都から蒯聵を迎え入れるために来た使者のふりをさせました。
蒯聵は衛の使者のふりをした八人と一緒に戚に近づくと、まず八人を送って門を開かせます。戚人は衛の使者だと信じて城門を開きました。そこで蒯聵は哀哭しながら城に入り、戚を居城にしました。
 
趙鞅は衛に対する影響力を大きくするために蒯聵を即位させようとしました。しかし衛は晋と対立しているため、蒯聵の帰国に反対しました。
 
以上は『春秋左氏伝哀公二年)』の記述です。史記・衛康叔世家』は少し異なります。
趙簡子蒯聵を帰国させようと思い、陽虎を使って衛の衰絰を着させました。十余人は蒯聵を迎えに来た使者を装います。偽の使者が晋に来て蒯聵の帰国を請うと、趙簡子はそれに同意して偽の使者と一緒に蒯聵を衛に送りました。
それを聞いた衛を出して蒯聵を迎撃したため、衛都に入れなかった蒯聵宿を拠点にしました。衛を還しました。
 
[] 秋八月、斉が晋で叛した范氏に粟(食糧)を届けました。
『春秋左氏伝』にはありませんが、『史記』の『斉太公世家』『田敬仲完世家』が斉の状況を書いています。
氏と中行氏が晋に背いたため、晋が討伐しました。二氏は斉に(食糧)を求めます。
斉の田乞は斉で乱を起こそうと思っていたため、晋の逆臣と関係を結んで諸侯の中に味方を作ることにしました。そこで景公にこう言いました「范氏と中行氏は斉に対して度々恩徳を施してきました。援けないわけにはいきません。」
景公は田に食糧を運ばせました
 
以下は『春秋左氏伝哀公二年)』の記述です。
 
鄭の子姚(罕達。子皮の孫)と子般(駟弘)が斉の食糧を輸送しました。士吉射が迎え入れるために兵を出します。一方の趙鞅も輸送を阻止する兵を出し、両軍は戚で遭遇しました。
陽虎が趙鞅に言いました「我が軍は車が少ないので、兵車に旆(大将の旗)を立てて罕・駟(子姚と子般)の兵車に対峙させましょう(旆がある場所に精鋭がいるはずなので、食糧を輸送している二人は兵を割いて晋軍に備えるはずです)。罕・駟が来て私の容貌を見れば(魯を騒がせた陽虎と知って)必ず恐れを抱きます。その時に戦いを仕掛ければ、必ず大勝できます。」
趙鞅はこれに従いました。
 
戦の吉凶を卜うと、亀の甲羅は亀裂を作る前に焦げてしまいました。楽丁が言いました「『詩(大雅・緜)』にこうあります『まず計謀を練り、それから卜を行う(爰始爰謀,爰契我亀)。』計謀が同じなら、以前の兆を信じればいいのです(杜注によると、かつて蒯聵を帰国させることを卜った時に吉と出たので、改めて卜う必要はないという意味です)。」
 
趙鞅が誓って言いました「范氏と中行氏は天明(天命)に背き、妄りに百姓を殺し、晋国で専横して国君を滅ぼそうとした。寡君は鄭に頼って自分を守ろうとしたが、今の鄭は不道(無道)のため、寡君を棄てて臣下を援けた。二三子(我々)天明に順じ、君命に従い、徳義を経(法)とし、詬恥(恥辱)を除くために今回の行動を起こした。敵を破った者は、上大夫には県を授け、下大夫には郡を授け、士には田十万歩(百歩で一畝なので千畝)を授け、庶人工商には官を与え、人臣隸圉(奴隷)は免じることにする。志父(趙鞅の別名)が無罪なら、国君がこれら(戦勝後の褒賞)を実行する。もし罪があるというのなら、絞縊によって戮し(死刑に処し)、三寸の桐棺(罪人の棺)に入れ、属辟(当時の国君や貴族は二重三重の棺に入れられていました。死体を直接入れる棺を椑=辟、大棺の中に入れる次に大きい棺を属といいます)を設けず、素車・樸馬(装飾のない車と馬)で棺を運び、兆(一族の墓苑)に入れる必要はない。これが下卿に対する罰である(趙鞅は上卿ですが、身分を落として下卿の刑罰を受け入れるという意味です)。」
 
甲戌(初七日)、趙鞅が鄭の罕達と鉄(鉄丘。または「栗」「秩」)で戦いました。
晋の郵無恤(または「郵良」「王良」「子良」「王子期」「王子於期」)が趙鞅を御し、衛の太子・蒯聵が車右になります。晋軍が鉄丘に登って鄭軍を眺めると、その兵数が多かったため、蒯聵が恐れて車から飛び降りました。すると郵無恤が綏(車に乗る時に引く縄)を蒯聵に渡して車に乗せ、「婦人のようだ」と言いました。
 
趙鞅が軍中を巡視して言いました「畢万(魏氏の祖)は匹夫(庶民)だったが、七戦して全て戦功を挙げ、馬百乗(四百頭)を擁して牖(窓)の下で死んだ(家で死んだ。天寿を全うできた)。群子(汝等)は勉めよ。寇(敵)の中で死ぬ必要はない(勇ましく戦ったとしても、必ず命を落とす必要はない。功績を立てて褒賞を受け取れ)。」
繁羽が趙羅(趙武の曾孫。趙獲の孫)を御し、宋勇が車右になりました。三人とも晋の大夫です。趙羅は勇気がなかったため、車の上に縛りつけられました。軍吏がその理由を問うと、繁羽が「痁(おこり。病)の発作が起きて伏せているのです」と答えました。
 
蒯聵が祈祷して言いました「曾孫(先祖に対しては自分を指して「曾孫」といいます)・蒯聵が皇祖・文王(衛祖・康叔の父)、烈祖・康叔、文祖・襄公(蒯聵の祖父)に報告します。鄭勝(鄭声公)が順道を乱し、晋午(晋定公)は難にあって乱を治めることができないため、鞅(趙鞅)に討伐させました。蒯聵は敢えて安逸を貪ることができず、矛を持っています(車右は矛を使います)(我が将兵の)筋を絶たせず、骨を折らせず、面(顔)を負傷させず(無事帰還させ)、これによって大事を完遂し、三祖の恥辱とならないことを祈ります。大命(生死)を敢えて請うのではありません(私個人の生死のために祈祷するのではありません)。佩玉を惜しむこともありません(三祖のための祭祀も欠かさず行います)。」
 
戦いが始まると、鄭人が趙鞅の肩を撃ちました。趙鞅は車中に倒れ、蠭旗(趙鞅の旗の名)が奪われます。しかし蒯聵が戈を使って趙鞅を援けました。
 
戦いの結果、鄭軍が敗れて温大夫・趙羅(范氏の党。上述の趙羅とは別人)が捕虜になりました。
蒯聵が再び侵攻して鄭が大敗します。晋軍は斉の粟(食糧)千車を奪いました。
趙鞅が喜んで「充分だ(可矣)」と言うと、趙鞅の家臣・傅傁が「鄭には勝ちましたが、知氏がまだいます。憂いは消えていません」と言いました。
 
以前、周人が范氏に田(土地)を与え、范氏の家臣・公孫尨がその地の税を管理しました。
後に趙氏の徒衆が公孫尨を捕えて趙鞅に献上しました。官吏公孫尨を殺そうとしましたが、趙孟はこう言いました「自分の主のために働いたのだ。何の罪があるというのだ。」
趙鞅は公孫尨に田を与えました。
鉄の戦いで、公孫尨は(歩兵)五百人を率いて夜の間に鄭軍を攻撃し、子姚の幕下から蠭旗を取り戻しました。戻った公孫尨が趙鞅に献上して言いました「これで主の徳に報いさせてください。」
 
晋軍が鄭軍を追撃しました。子姚、子般と公孫林が殿しんがりになって矢を射たため、晋軍の前列の兵が倒れていきます。
趙鞅が言いました「国に小はないものだ(「国無小」。国が小さいからといって軽視してはならない、という意味です)。」
 
戦いが終わってから、趙鞅が言いました「わしは弢(弓袋)に伏せて血を吐いたが、鼓音を衰えさせなかった(戦闘が始まったら将帥が戦鼓を敲きます)。今日の戦いでは、わしの功績が最上だ。」
蒯聵が言いました「私は車の上で主を救い、車の下で敵を退けました。車右の中では私の功績が最上です。」
郵無恤が言いました「両靷(四頭の馬のうち左右の馬を繋ぐ綱)が切れそうでしたが、私はうまく馬車を制御しました。御者の中では私の功績が最上です。」
郵無恤は危険だったことを証明するために木材を車に乗せました。すると左右の靷はどちらも切れてしまいました。
 
[] 冬十月、衛が霊公を埋葬しました。
 
[] 呉の洩庸が蔡に入って聘礼を贈り、少しずつ兵を蔡国に進入させました。呉軍が新蔡(蔡都)に集結した時、蔡人はやっとそれに気づきます。そこで蔡昭公(昭侯)は呉に遷る計画を大夫に告げました。遷都に反対する公子・駟(大夫)を殺して呉を安心させてから、号哭して先君の墓陵を遷します。
十一月、蔡が州来に遷りました
 
以上は『春秋左氏伝哀公二年)』の記述です。『史記・管蔡世家』の記述は少し異なります。
楚昭王を討伐したため、は恐れて呉にを告げました。しかしが呉から遠いため、呉は蔡を近くに遷すことを提案します。蔡昭侯大夫と相談せず、秘かに同意しました
そこで呉救援のために兵を出し、来に遷しました
 
[] この年、燕簡公が在位十二年で死に、献公が立ちました。
 
[] 『史記・管蔡世家』によると、この年(蔡昭侯二十六年孔子に来ました。
 
 
 
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