春秋時代272 東周敬王(四十一) 蔡の政変 前491年(1)

今回は東周敬王二十九年です。二回に分けます。
 
敬王二十九年
491年 庚戍
 
[] 春二月庚戌(二十一日)、蔡昭公(昭侯)が呉に行こうとしましたが、諸大夫は昭公が再び国を遷すのではないかと畏れ(二年前参照)、昭公を止めるために後を追いました。その中の一人、公孫翩が矢を射たため、昭公は家人(庶民の家)に入って死んでしまいました。在位年数は二十八年です。
 
諸大夫は国君を殺した公孫翩を捕えようとしました。しかし公孫翩が二本の矢を持って昭公を殺した家の門前に立つと、誰も前に進まなくなりました。遅れて来た文之鍇が言いました「壁のように(並んで)進めば、殺されるのは多くても二人だけだ(公孫翩の矢が二本しかないからです)。」
文之鍇が弓を持って先を進むと、公孫翩が矢を射ました。矢は文之鍇の肘に中ります。二発目を射る前に文之鍇が公孫翩を殺しました。
公孫辰公孫翩と関係があったようですが呉に出奔しました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公四年)』の記述です。
史記・管蔡世家』では、「再び国を遷すことを畏れた大夫が賊利(利が名)を送って昭侯を殺し、その後、国君を殺した罪で賊利を誅殺して、昭侯の子・朔を立てた」としています。
 
即位した朔は成侯(または「景侯」)といいます。
 
[] 秦が恵公を埋葬しました。
前年も書きましたが、『史記』は恵公の死を本年の事としています。
 
[] 宋人が小邾子を捕えました。小邾子は民に対して無道だったようです。


[
] 夏、蔡が大夫・公孫姓(公孫帰姓)と公孫霍(どちらも公孫翩と関係があったようですを殺しました。

 
[] 夏、楚が夷虎(楚に背いた蛮夷)を破り、北方への進攻を考えました。
 
まず、左司馬・、申公・寿餘、葉公・諸梁(三人とも楚の大夫)が負函(地名)に旧蔡地の人を集め、繒関に方城外の人を集めてこう言いました「間もなく呉が江(長江)をさかのぼって郢(楚都)に入る(攻めて来る)。汝等は命のために奔走せよ。」
楚は呉に備えると宣言して一晩で戦の準備をさせ、翌日、梁と霍を急襲しました。どちらも戎蛮子(または「曼子」)の邑です。
楚の大夫・単浮餘が蛮氏を包囲し、蛮氏は壊滅しました。蛮子・赤は晋の陰地に奔ります。
 
左司馬・は豊と析の兵と狄戎を集めて上雒に迫りました。左師が菟和山に、右師が倉野に駐軍し、陰地の命大夫(周王か晋侯が直接任命した大夫。陰地は晋南部の要道だったため、命大夫が守っていました)・士蔑にこう告げます「晋と楚には盟約があり、好悪を共にすると約束した。それを廃さないことが、寡君の願いである。そうでなければ、少習山を通って命を待つ。」
少習山の下には武関があり、ここを抜ければ秦と通じることができます。楚と秦が協力したら、東は陰地を取り、北上して黄河を渡り、晋都を脅かすことができます。
士蔑が趙鞅に指示を仰ぐと、趙鞅はこう言いました「晋国はまだ安定していないから、楚との関係を悪化させるわけにはいかない。速やかに(蛮子を)楚に譲れ。」
士蔑は九州の戎(晋の陰地の戎)を招き、「田(土地)を割いて蛮子に与え、蛮子のために城を築く」と宣言しました。築城の場所を卜うと称して蛮子を招きます。しかし蛮子が卜を聞きに行くと、五人の大夫と共に捕えられてしまいました。
晋は蛮子と五人の大夫および三戸(地名)を楚に譲りました。
 
楚の左司馬・は「蛮子を宗主に立てて邑を作る」と偽って戎の遺民を招きました。
遺民が集まると全て捕えて帰国しました。
 
[] 魯が西郛(西の外城)を築きました。晋に備えるためです。
 
[] 六月辛丑(十四日)、魯の亳社で火災がありました。
 
[] 秋七月、斉の陳乞(僖子)、弦施(弦多)と衛の甯跪が晋に背いた范氏を援けました。
庚午(十四日)、斉と衛が五鹿を包囲しました。
 
[] 秋八月甲寅(二十八日)、滕子・結(頃公)が死に、隠公・虞毋が立ちました。
 
[] 九月、晋の趙鞅が邯鄲を包囲しました。
 
冬十一月、邯鄲が降伏しました。荀寅と士吉射は鮮虞に奔り、趙稷は臨(晋領)に奔ります。
 
十二月、斉の弦施が臨に行き、趙稷を迎えました。臨の城壁は取り潰されます。
 
斉の国夏が晋を攻めて邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を取り、鮮虞で荀寅、士吉射と会して柏人に迎え入れました(『資治通鑑外紀』は十一月の事としていますが、『春秋左氏伝』は十二月に書いているので、恐らく十二月の誤りです)
 
[十一] 蔡が昭公を埋葬しました。国が乱れていたため葬礼が遅くなったようです。
 
[十二] 滕が頃公を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。