春秋時代 孔子の故事

東周敬王二十八年(前492年)資治通鑑外紀』が『説苑』等から孔子に関する記述を書いているので、ここで紹介します。
但し、孔子が魯を出てからの足取りは諸説があるので、以下の故事がいつの出来事かははっきりしません。また、一部は『史記孔子世家』と重複しています。
 
まずは『説苑・権謀(巻十三)』からです。
晋の趙簡子(趙鞅)が言いました「晋には澤鳴犢犨(恐らく「鳴鐸竇犨」の誤字か変字。『史記孔子世家』では「竇鳴犢」。氏名が「竇犨」で字が「鳴鐸」または「鳴犢」)がおり、魯には孔丘孔子がいる。わしがこの三人(『説苑』は「澤鳴犢犨」を「澤鳴」と「犢犨」の二人としていますが、実際は一人の名です。『史記孔子世家』を見ると、「竇鳴犢」と「舜華」の二人となっています)を殺せば、天下を図ることができる。」
趙簡子は澤鳴と犢犨に政治を委ねると伝えて招き、殺してしまいました。同時に魯にも人を送って孔子を招きます。孔子黄河に至った時、河水を眺めて言いました「黄河の流れは壮観だ。丘(私)がここを渡ることができないのは(晋に行くことができないのは)、天命だろう(美哉水。洋洋乎。丘之不済於此,命也夫)。」
子路が小走りで進み出て理由を問うと、孔子が言いました「澤鳴と犢犨は晋国の賢大夫だ。趙簡子(簡子は諡号のはずなので生きている間に「趙簡子」と呼ぶことはないと思いますが、原文のまま書きます。あるいは「簡子」は生号かもしれません)は、志を得ていない間は彼等に意見を求めたが、志を得たら彼等を殺して政治を自由に行うようになった。『子を孕んだ動物を割いて幼獣を焼き殺したら、麒麟(吉祥)は現れない。沢の水を全てぬいて魚を獲ったら、蛟龍が遊ばない。巣を倒して卵を割ったら、鳳凰は飛ばない(刳胎焚夭,則麒麟不至。乾沢而漁,蛟龍不遊。覆巣毀卵,則鳳凰不翔)』という。また、『君子は同類の禍を深く悲しむものだ(君子重傷其類者也)』ともいう(子を孕んだ動物が殺されて子供が焼かれたら麒麟は現れず、沢の魚が全て獲られたら蛟龍は現れず、巣が壊され卵が割られたら鳳凰が現れない。このように吉祥の動物は自分と関係するものの禍を悲しんで姿を消すという。君子も同じように、賢人の禍を聞いたら悲しんで身を隠すものだ。だから晋には行くことができない)。」
 
『孔叢子・記問(第五)』にもこの時の事が書かれています。
趙簡子が使者を送って夫子孔子を招きました。
孔子黄河まで来ましたが、鳴犢と竇犨(『説苑』と同じく、「鳴犢竇犨」を二人の人物としています)が殺されたと聞いて、輿を返して衛に戻りました。そこで鄹(魯の邑。孔子の故郷)に使者を送り(原文「使鄹」。「使」の意味がわかりません)琴を弾きながら歌を歌います「周道は衰退し、礼楽が廃れた。文武の徳が失墜したのだ。帰ろうではないか。天下を周遊したが、頼れる場所がない。鳳凰は知られることなく、梟鴟(フクロウ。凶鳥)が重宝されている。名残惜しんで顧みるが、心は悲しみに満たされるだけだ。身を正して旅に出て、唐都(晋都)に向かった。黄河は洋洋と広く、魚が悠悠と遊ぶ。港に至ったが渡ることができず、車を還して鄹で休む。道が窮したことに傷つき、いわれのない不遇を哀しむ。衛国で羽を休め、我が旧廬(故郷)に帰る。自分の思い通りにできるのは(自由に故郷に帰るのは)、楽しいことではないか(周道衰微,礼楽陵遅。文武既墜,吾将焉帰。周遊天下,靡邦可依。鳳鳥不識,珎宝梟鴟。眷然顧之,惨然心悲。巾車命駕,将適唐都。黄河洋洋,攸攸之魚。臨津不済,還轅息鄹。傷于道窮,哀彼無辜。翔于衛,復我旧廬。従吾所好,其楽只且)。」
 
 
孔子は衛(または故郷の鄹)に戻ってから陳に行きました。陳での出来事を『国語・魯語下』からです。
仲尼孔子が陳に居る時、隼が陳侯の宮殿の庭に落ちて死にました。楛矢(楛は木の名)が刺さっており、石砮(鏃)は一尺一咫咫は八寸)ありました
陳恵公(この時の陳君は湣公のはずです)は使者に隼を持たせて仲尼の館を訪問させました。仲尼が言いました「この隼は遠くから来たものです。刺さっているのは粛慎氏(北夷の国)の矢です。昔、武王が商に勝ち、九夷・百蛮との道を開いた時、各地に方貢(特産物)を納めさせました。それぞれの職業(職責)を忘れさせないためです。その時、粛慎氏が納めたのが楛矢で、石砮は一尺一咫ありました。先王(武王)はその令徳(美徳)を遠方にまで示し、後人に伝え、永遠にそれが残るようにするため、栝(矢の後ろの部分。羽がある場所)に『粛慎氏之貢矢』と銘しました。その矢は大姫(太姫。武王の長女)に与えられ、大姫は矢を持って虞胡公(陳国の祖)に嫁ぎ、封地の陳に入りました。古は、同姓の諸侯には珍玉を与えて親情を示し、異姓の諸侯には遠方から送られた職貢(貢物)を分けて天子への服従を忘れさせないようにしました。だから陳(周は姫姓、陳は嬀姓です)には粛慎氏の貢物が贈られたのです。国君が有司(官員)に命じて府庫を探させれば、粛慎氏の矢を見つけることができるでしょう。」
陳君は言われた通りに府庫を探させました。すると金櫝(金で装飾された木箱)を見つけ、中には粛慎氏の矢が入っていました
 
 
次は『孔叢子・記義(第三)』からです。
ある時、孔子が宰予(子我)を楚に送りました。楚昭王は宰予を通して象牙で装飾した安車(小車)孔子に贈ろうとします。しかし宰予は「夫子孔子はこのような物を必要としません」と言いました。
昭王が理由を問うと、宰予が言いました「夫子の様子を見ればそれは分かります(下の文から推測して意訳しました。原文「臣以其用思其所在観之有以知其然」)。」
昭王が詳しく説明させると、宰予はこう言いました「臣が夫子に従うようになってから観てきた姿は、その発言は道から離れることがなく、行動は仁から違えることがなく、義と徳を尊び、清素で倹約を好み、士官して俸禄を得ても蓄えることなく、(道に)合わなければ去り、退いても吝心(恥辱と思う心)を持ちません。その妻は綵(彩色の服)を着ることなく、妾は帛(絹の服)を着ることなく、車器(車や器物)には装飾がなく、馬は粟を食べず、道が行われていればその政治を楽しみ、行われていなければその身(自分のやるべきこと)を楽しんでいます(道行則楽其治.不行則楽其身)。これが夫子です。麗靡(華美)を目にし、窈窕の淫音(礼から外れた音楽)を耳にしても、夫子は度が過ぎていたら視ることも聞くこともありません。だから臣には夫子がこの車を必要としないと分かるのです。」
昭王が問いました「それならば、夫子が欲しているのは何だ?」
宰予が答えました「今の天下は道徳が廃れています。夫子の志はそれを復興させて行わせることにあります。天下に正しく政治を行おうとする国君がいて、道を成すことができるようなら、夫子は歩いてでも朝見に行きます。このようであるので、遠く離れた国君の重貺(厚い賞賜)を必要とすることはありません。」
昭王が言いました「今始めて孔子の徳が大きいことを知った。」
帰った宰予がこの事を孔子に話すと、孔子が弟子達に問いました「二三子(汝等)よ、予(宰予)の言をどう思う?」
子貢が言いました「まだ夫子の美を語りつくしていません。夫子の徳の高さは天に匹敵し、深さは海に匹敵します。予(宰予)の言は行動の実(事実)を述べているだけです。」
孔子が言いました「言葉は実(真実)があるから人を信じさせることができる。実を棄てて何を称すことができるだろう。賜(子貢の名)の華(美辞)は予(宰予)の実に及ばない。」