春秋時代 孔子の晩年(3)

東周敬王三十六年(484)孔子魯に帰国しました。
孔子に関する故事を紹介しています。
今回は『史記孔子世家』から孔子の教えに関して書きます。

孔子は四つの事を教えました四教。「(学問)」「(行動)」「(忠誠)」「(信義)」です
また、四つの事を禁止しました(絶。「毋意(勝手な判断をしないこと。道だけを行動の基準にすること)」「毋必(一定の形にこだわらないこと。用いられたら行動し、用いられない時は退き、臨機応変に行動すること)」「毋固(一つの意見に固執しないこと)毋我(自分が正しいと過信しないこと)」です
孔子は「斉(斎戒)」「戦」「(疾病)」に対して慎重であるべきだと考えました。
孔子についてほとんど語りませんでした。もし利について語る場合は、(天命)と関連付けて語りました
孔子は弟子が本心から学問に臨んでいなければ啓発することがなく、一つの事を教えてそこから三つの事に発展させられなかったら、それ以上教えることもありませんでした。簡単に回答を与えるのではなく、弟子が自分で考えることを重視したからです不憤不一隅不以三隅反,則弗復也
 
孔子が郷党(故郷)に居る時は、謙遜して恭敬な態度を示し、話が得意ではないようでした。しかしで宗廟朝廷においては雄弁になりました。それでも恭を忘れることはありません。
朝廷で上大夫と話をする時は公正実直で、下大夫と話す時は親しみを表しました。
 
公門(宮門)を入る時は鞠躬(お辞儀)をし、早足で通りすぎました(貴人の前では早足になるのが当時の礼です)。国が使者を送って孔子を招いた時は、様相を正して応じ、君命があれば車の準備ができていなくてもすぐに行動しました。
 
魚が新鮮でなかったり、肉が痛んでいたり、切り方が決まりに則っていなかったら食べず、席が正しくなければ座りませんでした。食事の席に喪者(喪中の者)が同席したら、満腹になることを避けました。
した日にはうことがなく、齊衰(喪服を着た者)瞽者(盲人)に会ったら、たとえ相手が童子でも必ず真剣な面持ちになりました。
 
孔子三人いれば必ず我が師となる人物がいる三人行,必得我師と言いました。
また、徳を修めることができず、学業を講じることができず、義を聞きながら実践することができず、欠点があるのに改善することができない、私はこれを憂いる(徳之不脩,之不講,聞義不能徙,不善不能改,是吾憂也と言いました。
を歌わせた時、その歌を気に入ると、繰り返して歌わせてから孔子も唱和しました当時、音楽は礼を表す一つの儀礼として非常に重視されていました。
 
孔子(怪異)(怪力。または暴力)、乱(弑殺、謀反)(神仙。神霊)について語ることがありませんでした(または「怪力と乱神」)
子貢が言いました「夫子(先生)が文献の方面で優れていることはよく知られています。しかし夫子天道性命(どちらも人の運命)について語るのは、聞いたことがありません。」
孔子は実際に見聞きし、行動ができる実態があるものを語り、不可思議なものや理解ができないことを語るのは避けたようです。
が深く嘆息して言いました夫子を仰ぎみればますます高くなり、深く入ろうとするとますます堅固になる(学問が深すぎてきりがない)。前にいるかと思えば、いつの間にか後ろにいる(先生を完全に理解することはできない)夫子は筋を通してをうまく導き、博識によって私の見聞を増やし、礼によって私を規制した。だから私が学問を棄てようとしても、棄てることができなかった。私は自分の才力を尽くしてそれなりの成果を挙げることができたが、夫子にはまだはるかに及ばない。
 
ある時、達巷という党(党は行政単位。五百人で形成されます)童子がこう言いました孔子は偉大だ。学で一名を成すだけではない(全てに精通しているので専門とする分野がない)。」
それを聞いた孔子が言いました私は何を専門とすればいいのか?術を専門としようか。射術を専門としようか。やはり御術がいいだろう。」
当時の貴族は六芸に精通する必要がありました。礼、楽(音楽)、射、御、書、数です。中でも御術は六芸の基礎とされていました。孔子が御術を選んだのは謙遜の意味があります。
後に孔子の弟子・子がこう言いました「子孔子はかつて私は人に用いられないから多芸なのだ』と語った。」