春秋時代286 東周敬王(五十五) 宋の内乱 前481年(3)

今回で東周敬王三十九年が終わります。五月の続きからです。
 
[] 宋の向魋(桓魋)は景公の寵愛を受けて勢力を拡大し、景公をも脅かすようになりました。
景公は夫人(景公の母)を使って何度も向魋を享宴に招き、討伐しようと考えましたが、逆に向魋が景公を襲う計画を立てました。
向魋が自分の邑であると公邑の薄を交換するように求めましたが、景公はこう言いました「それはできない。薄は宗邑(宗廟がある邑)だ。」
景公は七邑を加えることにしました。
 
向魋は謝意を示すためと称して景公を享宴に招きました。
同時に日中(正午)を期限にして家中の徒衆を享宴の場に移動させます。
それを知った景公が皇野(司馬・子仲。皇瑗の兄弟)に言いました「余は向魋の成長を見守ってきたが、禍を招くことになってしまった。援けてほしい。」
皇野が言いました「臣下に不順の者がいたら、神でも憎むものです。人ならなおさらでしょう。命に逆らうことはありません。しかし左師(向巣。向魋の兄)の助けが必要です。君命によって招いてください。」
向巣は食事をする度に鐘を撃つ習慣がありました。この時も鐘の音が聞こえたため、景公が言いました「夫子(彼)はこれから食事をするようだ。」
暫くして再び鐘が鳴りました。食事が終わった相図です。
景公が「今ならいい」と言うと、皇野が車に乗って向巣に会いに行きました。
 
皇野が向巣に言いました「迹人(狩猟で禽獣の足跡を確認する者)がこう報告しました『逢沢に介麇(介は「大」の意味。もしくは配偶がいない一頭の獣の意味。麇は鹿の一種)がいます。』そこで主公がこう言いました『魋が来ないとしても、左師と一緒に田(狩猟)をしたらどうだろう?』国君が子(あなた)に直接伝えるのをはばかったため(遊びのために大臣を煩わすことに気がとがめたため)、野(私)が『私を(公人ではなく私人の立場で)派遣して試させてください』と言いました。国君は急いでいます。だから一乗の車だけで子を迎えに来ました。」
向巣は皇野と一緒に車に乗って景公に会いに行きました。
到着した向巣に景公がよび出した真相を話します。向巣は拝礼したまま立てなくなりました。
皇野が言いました「主公は言を与えるべきです(向巣と盟を結ぶべきです)。」
景公が言いました「子(汝)に難を与えることがあったら、上は天があり、下は先君がいる(天と先君が私に咎を与える)。」
向巣が言いました「魋の不恭は宋の禍です。命に逆らうことはありません。」
 
皇野が景公に瑞(兵符)を請い、自分の徒(兵)に桓氏(向魋)を攻撃させました。皇野の父兄や旧臣は反対しましたが、新しい家臣は「我が君の命に従います」と言って向魋討伐に賛成します。
皇野の動きを知った子頎(向魋の弟)が桓司馬(向魋)に伝えました。
向魋は公宮に攻め入ろうとしましたが、子車(向魋の別の弟)が諫めて言いました「国君に仕えることができず、更に国を攻撃しても、民が支持しません。死を求めに行くだけです。」
向魋は曹(向魋の邑。以前の曹国)に入って叛しました。
 
[] 莒子・(郊公)が死にました。
 
[十一] 六月、宋景公が向巣に曹を討伐させましたが、向巣は向魋に勝てませんでした。
向巣は景公が怒って盟約(向巣に難を与えないこと)を破るのではないかと心配し、国内の大夫を人質として送るように要求しました。人質が来てから帰国するつもりです。
しかし景公は人質を送ることを拒否しました。
向巣はやむなく曹に奔ります。
 
向巣は曹討伐の指揮をとっていたため、曹人の反発を恐れました。そこで今度は曹人を人質にとって自分の安全を確保しようとしました。
弟の向魋が言いました「いけません。国君に仕えることができず、民からも罪を得たら(民を人質にしたら人心を失います)、今後どうするつもりですか?」
向巣はあきらめました。
ところが、曹の民は向氏に背きました。
向魋は衛に奔り、向巣は魯に奔ります。
宋景公が使者を送り、向巣に「寡人と子(汝)には言(盟約)がある。向氏の祀を絶えさせることはない」と伝えて引き止めましたが、向巣は「臣の罪は大きく、桓氏(向氏)を族滅してもいいほどです。しかしもし先臣の縁故によって後代を残すことができるのなら、それは国君の恩恵というものです。臣のような者は、帰国するわけにはいきません」と答えました
 
司馬牛向魋の弟)が自分の邑と珪(玉器。邑を治めるための符)を景公に返上して斉に向かいました。
 
向魋が衛地に至ると、公文氏(衛の公族)が攻撃し、夏后氏の璜(宝玉)を要求しました。向魋は他の玉を与えて斉に奔ります。
陳恒(田恒。陳成子)は向魋を次卿としました。
先に斉に入った司馬牛も邑を与えられましたが、その邑を返上して呉に奔りました。向魋と共に居たくないからです。
しかし呉が司馬牛を嫌ったため、司馬牛は宋に帰りました。
それを知って晋の趙鞅(趙簡子)が司馬牛を招き、斉の陳恒も再び司馬牛を招きましたが、司馬牛は魯の郭門(外城門)の外で死に、阬氏(魯人)によって丘輿に埋葬されました。
 
[十二] 甲午(初五日)、斉の陳恒が舒州で簡公を殺しました。簡公の在位年数は四年です。
陳恒は簡公の弟・驁を即位させました。これを平公といいます。
陳恒が相としてますます専権するようになりました。
 
この時の事が『新序・義勇(巻八)』に書かれています。
陳恒は簡公を殺してから諸大夫の反発を防ぐために盟を結びました。陳氏に協力することを誓えば家族の安全を守り、盟約に参加しなかったら死刑に処します。
石他人が言いました「昔の国君に仕えていた者は、皆、自分の国君を得てその国君に仕えたものだ(自分の国君だけに仕えたものだ)。ところが今の人は、他人(私)に『国君を棄ててわしに仕えよ』と言う。他人にそれはできない。しかし盟に参加しなければ父母を殺すことになる。盟に従えば君臣の礼を失うことになる。乱世に生きたら行いを正すことができず、暴君に強要されたら道義を得ることができない。確かに盟を結べば父母が死ななくてすむが、(行いを正すことができず、暴君に強要されるくらいなら)退いて自殺し、国君に対する礼を守った方がいい。」
石他人は自殺しました
 
恒が簡公を殺した時、勇士六人を派遣して子淵栖を捕えさせました。子淵栖に服従を要求します。
すると子淵栖が言いました「(汝。陳恒)が私と与したいのは、私を知明智の人だと思っているからか?臣下が国君を弑殺するのは、非知である(陳恒に協力して国君を殺したら明智の人ではなくなります)。私を仁の人だと思っているからか?利を見て国君に背くのは、非仁である。私を勇の人だと思っているからか?武器による脅迫を受け、恐れて子に協力するようなら、非勇である。私からこの三者(智・仁・勇)を失わせて、何をもって子に協力しろと言うのだ?逆にもし私にこの三者があるのなら、私が子に従うことはない。」
陳恒は子淵栖を釈放しました
 
史記・田敬仲完世家』からです。
簡公を殺した田常は、諸侯がその罪を問うことを恐れました。そこで魯や衛から奪った地を返還し、西は晋公室や韓・魏・趙の三氏(実際は智氏も含む四氏のはずです)と友好を約束し、南は呉・越に使者を送りました。
また、功徳を立てることに励み、功績がある者を賞し、百姓に親しんで斉を安定させました。
 
田常が平公に言いました「徳を施すのは人々が欲することです。国君が行ってください。刑罰は人々が嫌うことです。臣に行わせてください。」
五年後、斉の政治は全て田常が行うようになりました。
実権を握った田常は鮑氏、晏氏や監止(監止は既に殺されているので、その一族を指すと思われます)および公族の中で権勢を握る者をことごとく滅ぼし、安平以東から琅邪に至る地を自分の邑にしました。田氏の封邑は平公が直轄する領地よりも広くなります。
 
田常は斉国中から身長七尺以上の女性を集めて陳氏(田氏)後宮に入れました。姫妾の数は百人以上になります。田常は賓客や舍人(官名)後宮への出入りを自由にしました。
田常が死んだ時、後宮には七十余の男(息子)がいたといいます。娘もいたはずなので、その数を合わせ得たらもっと多くなります。一部は賓客・舍人と姫妾の間にできた子のようです。
 
[十三] 魯の孔丘孔子が三日間の斎戒後、斉討伐を請いました。斉簡公が弑殺されたためです。
哀公が言いました「魯は斉のために衰弱して久しくなる。子(あなた)はそれを討とうというが、どうするつもりだ?」
孔丘が言いました「陳恒はその君を殺しました。民の半数はまだ彼に帰心していません。魯の衆と斉の半数の民を合わせれば勝てます。」
哀公が言いました「子は季孫に報告せよ。」
孔丘は退出すると人に言いました「私もかつては大夫の後(末)に従っていたから(私もかつては一大夫だったから)(斉討伐を)言わないわけにはいかなかったのだ以吾従大夫之後,不敢不告也)。」
以上は『春秋左氏伝(哀公十四年)』の内容です。『論語・憲問(第十四)』ではこの後、孔子が三桓にも斉討伐を請いますが、やはり拒否されて「以吾従大夫之後,不敢不告也」という言葉を繰り返します。
無理とは分かっていても礼に外れた事を許すことはできないという孔子の思想を表す故事です。
 
[十四] 秋、晋の趙鞅が衛を攻めました。
 
[十五] 魯の孟孺子洩(仲孫彘。孟武伯。仲孫何忌の子)がかつて成(孟氏の邑)で馬を飼おうとしましたが、成邑の宰・公孫宿が拒否して「孟孫(仲孫何忌)は成の病だ(孟孫のおかげで成の民が貧困に苦しんでいる)。馬を飼ってはならない」と言いました。
孺子は怒って成を襲いましたが、従者が中に進入できなかったため引き返しました。
成の有司(官員)が人を派遣すると、孺子は使者に怨みをぶつけて鞭打ちました。
 
秋八月辛丑(十三日)、仲孫何忌(孟懿子)が死にました。
成邑の人々も喪に参加しようとしましたが、孺子が中に入れません。成邑の人々は上衣を脱いで(大路)で大哭し、孟氏の命に従うことを約束しましたが、孺子はそれでも受け入れませんでした。
成邑の人々は孟孺子洩を恐れ、怒りを解くために帰ろうとしませんでしたが、成邑では謀反が計画されるようになります
 
[十六] 冬、陳の宗豎が楚から陳に戻りましたが、陳人に殺されました。
『春秋』経文に記述があるだけで、『春秋左氏伝』には書かれていません。
 
[十七] 陳の轅買が楚に出奔しました。宗豎が殺されたことに関係があるのかもしれませんが、宗豎の出奔と同じく、『春秋左氏伝』に記述がないため詳細は分かりません。
 
[十八] 孛星(恐らく彗星)が現れました。
 
[十九] 魯を飢饉が襲いました。
 
[二十] 『竹書紀年(今本・古本)』によると、この年、晋が頓丘に城を築きました。
 
[二十一] 『史記・衛康叔世家』はこの年に衛で政変が起きて蒯聵が即位したとしています。しかし『春秋左氏伝』は翌年の事としているので、翌年に詳述します。
 
 
 
次回に続きます。