第十八回 曹沫が斉侯を脅迫し、桓公が甯戚を爵す(後編)

*今回は『東周列国志』第十八回後編です。
 
管仲が去ってからも甯戚は峱山の下で牧牛をしました。
三日後、斉桓公の大軍が通りました。甯戚は以前と同じように短褐単衣を身に着け、破れた笠をかぶり、裸足で路旁に立ちました。大軍を恐れて避けるような様子はありません。
桓公が輿に乗って近づいた時、甯戚が牛角を叩いて歌いました「南山が輝き、白石が光り、水中には一尺半の鯉魚がいる(南山、白石、鯉魚は優秀な人材の比喩です)。生まれながら堯・舜の禅にめぐり会うことなく(せっかく生まれたのに聖人の時代にめぐり会えない)、短褐単衣はやっと骭にいたる(骭は脛のあたりを指し、貧しいため着る物は脛のあたりまでしかないという意味です)。黄昏から飯牛(牛に餌を与えること)して夜半に至る。長い夜がゆっくり続くが、いつになったら朝になるのか(南山燦,白石爛,中有鯉魚長尺半。生不逢堯与舜禅,短褐単衣纔至骭。従昏飯牛至夜半,長夜漫漫何時旦)
桓公は歌を聞いて常人ではないと思い、左右の臣に命じて車の前まで連れて来させました。
桓公が姓名と居処を問うと、「姓は寧、名は戚」と答えます。
桓公が問いました「汝は牧夫であるのに、なぜ時政を風刺したのだ?」
甯戚が言いました「臣は小人です。どうして風刺できるでしょう。」
桓公が言いました「今の世は天子が上におり、寡人が諸侯を率いて下に賓服服従している。百姓は自分の業を楽しみ、草木は春を潤し、舜の日も堯の天もこのようであったはずだ。しかし汝は『堯・舜にめぐり会えない(不逢堯舜)』と言い、『夜が長くて朝にならない(長夜不旦)』と言った。これは風刺ではないのか?」
甯戚が言いました「臣は村夫に過ぎないので先王の政治を見たことがありません。しかし堯・舜の世がどのようであったかは聞いたことがあります。当時は十日で一風が吹き、五日で一雨が降り、百姓は田を耕して食べ、井戸を掘って飲み、『知らず知らずに帝の法に従っている(不識不知,順帝之則)』という状態だったといいます。今の世は綱紀が振るわず、教化が行われていません。それなのに『舜の日や堯の天と同じだ』というのは、小人には理解できません。また、堯・舜の世は百官を正して諸侯を服し、四凶を除いて天下を安定させ、言がなくても信があり、怒らなくても威を示すことができたといいます。ところが今は、明公が一挙したら宋が会に背き、再挙したら魯が盟を脅迫し、兵を用いて休むことなく、民は疲労し財も費やされています。それなのに『百姓が業を楽しみ、草木が春を潤す』というのも、小人には理解できないことです。更に、堯は我が子・丹朱を棄てて天下を舜に譲り、舜はそれを避けて南河に移りましたが、百姓が集まって舜を奉じたため、舜はやむなく帝位に即いたと聞いています。しかし今、あなたは兄を殺して国を得て、天子の名を借りて諸侯に号令しています。小人には唐・虞(堯・舜)の謙譲がどのようなものだったのか理解できません。」
桓公は激怒して「匹夫の発言は不遜だ!」と言い、近臣に処刑するよう命じました。左右の近臣が甯戚を縛ります。
しかし甯戚は刑に臨んでも顔色を変えず、恐れる様子も見せません。ただ天を仰いで嘆息してからこう言いました「桀は龍逢を殺し、紂は比干を殺した。今、甯戚は彼等に続いて三人目になるのか。」
隰朋が桓公に言いました「この者は権勢を見てもおもねらず、武威を見ても恐れないので、普通の牧夫ではないはずです。赦すべきです。」
桓公は考えを変え、怒気を収め、甯戚の縄を解かせてこう言いました「寡人は子(汝)を試してみたのだ。子は誠に佳士である。」
そこで甯戚は懐から管仲の書を出しました。
桓公が開いて見るとこう書かれています「臣は命を奉じて出師し、峱山に至って衛人・甯戚を得ました。この者は牧豎の者の流(類)ではなく、当世有用の才を持っています。主公は彼を留めて自分を補佐させるべきです。もし彼を棄てて隣国に用いられるようになったら、斉は後悔しても及びません。」
桓公が問いました「子は既に仲父の書を持っていたのに、なぜ寡人に見せなかった?」
甯戚が答えました「『賢君は人を選んで佐(自分を補佐する者)とし、賢臣も主を選んで輔(補佐)する(賢君択人為佐,賢臣亦択主而輔)』と言います。主公が直言を嫌って阿諛を好み、怒色を臣に加えるようなら、臣は死を選びます。相国の書を出す必要はありません。」
桓公は喜んで甯戚を後車に乗せました。
 
その夜、斉桓公が営寨を築いて軍を休ませてから、火を点して大夫の衣冠を探し始めました。寺人・貂が問いました「主公が衣冠を探しているのは、甯戚に爵を与えるためですか?」
桓公が「そうだ」と答えると、寺人・貂が言いました「衛は斉から遠くありません。なぜ人を送って確認しないのですか。彼が本当に賢人だと分かってから爵を与えても遅くありません。」
桓公が言いました「彼は廓達の才(常識を越えた広い才能)を持ち、小節にこだわらないから、衛で細過(小さい過失)を犯した恐れがある。もし衛に確認して過失を知ったら、爵を与えても光彩がなくなる。また、過失を知ったことが原因で彼を棄てたら悔やむことになる。」
こうして燈燭の下で甯戚を大夫に拝命し、管仲と共に国政に参画させることにしました。
甯戚は衣冠を改め、桓公に恩を謝して退出しました。
 
桓公の兵が宋の国境に至りました。陳宣公・杵臼と曹荘公・射姑が先に到着しています。少し遅れて周の単子の軍も合流しました。
それぞれが顔を合わせ、宋攻撃の策を協議します。
甯戚が進み出て言いました「明公は天子の命を奉じて諸侯を糾合しています。威によって勝つのではなく、徳によって勝つべきです。兵を進める必要はありません。臣は不才ですが、三寸の舌を使って宋公に講和を説得させてください。」
喜んだ桓公は国境に陣を構えてから甯戚を宋に送りました。甯戚は小車に乗り、数人の従者を連れて睢陽に入ります。
 
宋公が戴叔皮に問いました「甯戚とは何者だ?」
叔皮が言いました「臣が聞いたところでは、彼は牧牛の村夫で、斉侯が最近抜擢したようです。その口才は人を越えているはずです。遊説に来たのでしょう。」
宋公が問いました「どう対応するべきだ?」
叔皮が答えました「主公は彼を招き入れ、礼を用いずに対応して動静を見守ってください。もし開口した内容が不当だったら、臣が紳(大帯)を牽いて合図するので、武士に命じて彼を捕えさせてください。そうすれば斉侯の計は失敗に終わります。」
宋公は頷き、武士に待機させました。
 
甯戚は寬衣大帯を身に着け、堂々と宋の朝廷に入って宋公に長揖しました。しかし宋公は座ったまま応えようとしません。甯戚が宋公の顔を仰ぎ、長く嘆息して言いました「宋国は危険だ。」
宋公が驚いて問いました「孤は上公の地位におり、諸侯の首である。危険はどこから来るのだ?」
甯戚が逆に問いました「明公と周公を較べたらどちらが賢人ですか?」
宋公が言いました「周公は聖人だ。孤が較べることはできない。」
すると甯戚はこう言いました「周公は周が隆盛して天下が太平となり、四夷が賓服した時でも、吐哺握髪(食事を途中で止めて口の中の物を吐き出し、髪を洗っている途中で髪を握って束ねること。賢人が訪問したら、周公は食事中でも髪を洗っている時でもすぐに会いに行きました)して天下の賢士を集めました。これに対して明公は亡国商王朝の余(後裔)であり、群雄が角力(力比べ)をしている秋(時)におり、しかも二世が弑逆を行った後に位に即きました。周公を真似て下士に対して腰を低くしても、まだ士が集まらないことを心配するべき立場にいます。それなのに自ら尊大になり、賢人を簡単に扱って客に対して驕慢になっています。これでは忠言があっても明公の前に届くことはないでしょう。危険を待たずして何を待つのですか。」
宋公は愕然として席を離れ、こう言いました「孤は位を継いで日が浅いので、君子の訓(訓戒。教訓)を聞いたことがありません。先生はそれを罪としないでください。」
傍にいた叔皮は宋公が甯戚に動かされたのを見て何回も帯紳を引っぱり上げました。しかし宋公は叔皮を無視して甯戚に問いました「先生が来たのは何を教授するためですか?」
甯戚が言いました「天子が権を失い、諸侯が星散し、君臣には等級がなくなり、簒奪弑殺が毎日のように聞こえてきます。斉侯は天下の乱を忍ぶことができず、王命を承って夏盟(中原の会盟)の主になりました。明公(宋公)はかつて会に名を列してその位を定めましたが、会盟に背くのならその位が定まらないことになります。今、天子は震怒して王臣(単子)を派遣し、諸侯を率いて宋を討伐させました。明公が既に王命に背き、更に王師に抵抗するというのなら、兵を交える必要もなく、臣が勝負を卜うことができます(戦わなくても宋が破れることは明白です)。」
宋公が問いました「先生の見解は如何ですか?」
甯戚が言いました「臣の愚計に従うのなら、一束の贄(犠牲)を惜しまず、斉と会盟するべきです。そうすれば、上は周に臣従する礼を失わず、下は盟主の歓と結び、兵甲を動かすことなく宋国を泰山のように平安にできます。」
宋公が言いました「孤(私)は一時の過ちによって会盟の友好を全うできなかった。今、斉が我が国に兵を加えようとしているが、我が国の贄を受け入れるだろうか?」
甯戚が言いました「斉侯は寬仁大度なので人の過ちを覚えていることがなく、旧悪を想い続けることもありません。魯は以前の会に赴きませんでしたが、柯で一度盟したら、失った田を全て返還されました。明公はかつて会に参加した一人です。斉が拒否することはありません。」
宋公が問いました「何を贄にするべきだろうか?」
甯戚が言いました「斉侯は礼によって隣国と和しており、厚礼を他国に送って薄礼を受け入れています。束脯(乾肉)を贄にすればいいでしょう。府庫の藏物を傾ける必要はありません。」
喜んだ宋公は使者を甯戚に従わせ、斉の軍中で講和を求めることにしました。叔皮は満面に羞恥の色を浮かべて退出します。
 
宋使は斉侯に会って謝罪し、盟を請いました。白玉十玨、黄金千鎰が献上されます。
しかし斉桓公は「(出兵は)天子の命によるものなので、寡人が勝手に決めるわけにはいかない。王臣に頼んで王に転奏する必要がある」と言い、金玉を単子に譲って宋公の講和の意思を伝えました。
単子が言いました「君侯の赦宥(赦し)と藉手(助け)があるのなら、それを天王に復命します。命(斉侯の決定)に逆らうことはありません。」
桓公は宋公に周を聘問させてから会見の日を決めることにしました。単子は斉侯に別れを告げて帰国します。斉と陳・曹もそれぞれ本国に帰りました。
 
この後の事はどうなるのか、続きは次回です