第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(二)

*今回は『東周列国志』第二十一回その二です。
 
管仲は食糧を運ぶと称して賓須無を葵茲に還らせるふりをしました。実際は虎児斑に先導させて一軍を芝麻嶺に向けます。六日後に合流することを約束しました。
その間、牙将・連摯に命じて日々黄台山の戎軍に戦いを挑ませます。密盧の兵は斉軍が移動していることに気がつかず、六日間、陣内に籠もって動こうとしませんでした。
管仲が言いました「計画通りなら賓将軍の西路が到着するはずだ。敵に戦う気がない以上、我々がここを座して守る必要もない。」
管仲は士卒全員に土嚢を担がせ、まず空車二百乗を先に進めて探らせました。戎が造った塹壕にぶつかると土嚢で埋めていきます。
大軍が谷口に接近した時、突然喚声を挙げました。斉兵が木石を運んで山戎の陣に進みます。
密盧は堅い守りに安心して日々速買と酒を飲んでいました。しかし突然、斉軍が殺到して来たと聞き、慌てて馬に乗って迎え討ちます。
密盧が斉軍と衝突する前に戎兵が報告しました「西路からも敵軍が殺到してきました!」
速買は小路を失ったと知り、戦いをあきらめて密盧を守りながら東南に向かいました。
賓須無が数里追撃しましたが、山路が入りくんでおり、戎人の馬も飛ぶように駆けたため、追いつくことができず兵を返しました。
馬や武器、牛羊、帳幕等、戎軍が残した大量な物資が全て斉軍に回収されます。燕国から奪った子女も取り返し、戦利品は数えきれないほどでした。
令支の国人は今まで見たこともない兵威を目の当たりにしたため、次々に食物や飲物を提供して桓公の馬前で帰順しました。桓公が一人一人慰撫し、投降した戎人の殺戮を禁止したため、戎人は大喜びしました。
 
桓公が投降した戎人に問いました「汝等の主はどこの国に投じたのだ?」
戎人が答えました「我が国は孤竹と隣接しており、かねてから親睦があります。最近も人を送って師を請いましたが、まだ来ていません。孤竹に投じたはずです。」
桓公が孤竹の勢力や路程を問うと、戎人が答えました「孤竹は東南の大国で、商朝の頃から城郭があります。ここから百余里進んだ所に卑耳という溪があり、その溪を越えたら孤竹の界内に入ります。しかし山路が険峻で行軍は困難です。」
桓公が言いました「孤竹が山戎の暴を助けようとしている。既に近くまで来ているのだから、討伐するべきだ。」
ちょうどこの時、鮑叔牙が派遣した牙将・高黒が乾糒(食糧)五十車を率いて到着しました。桓公は高黒軍を留めて前軍に編入し、投降した戎兵の中からも精壮千人を選んで虎児斑の帳下に入れました。失った兵が補われます。
三日間の休憩の後、進軍を再開しました。
 
密盧等は孤竹に入って国主・答里呵に会うと、地に倒れて痛哭し、こう言いました「斉兵は強さに頼って我が国を奪いました。兵を出して仇に報いてください。」
答里呵が言いました「ちょうど兵を起こして援けに行こうと思っていたのだが、小恙(病)を患ったため遅れてしまい、計らずもその間にあなたが大きな損失を蒙ってしまった。ここには卑耳の溪があり、深くて渡ることができない。我が国の竹筏を全て港中に隠せば、斉兵に翼が生えたとしても飛び越えることはできないだろう。彼等が兵を退いてから我々が兵を率いて攻撃し、あなたの疆土を恢復すれば、全て解決できる。」
大将の黄花元帥が言いました「敵は筏を造って渡ろうとするはずです。兵を置いて溪口を守り、昼夜巡行すれば無事を保証できます。」
しかし答里呵は「敵が筏を造ったらすぐに分かるではないか」と言って進言を聞きませんでした。
 
桓公の大軍が出発して十里も進んでいない所で、遠くに険しい山路が見えました。怪石がそびえ立ち、草木が繁茂し、竹箐(竹林)が路を塞いでいます。
管仲は硫黄・焰硝(硝石)等の燃えやすい物を集めると、草樹の間に撒いて火を放ちました。炎が音を立てて一面に拡がります。草木は根もなくなるほど燃え尽き、狐兔の影も見えなくなりました。火光は天を衝き、五昼夜にわたって燃え続けます。
火が消えてから山を切り開いて道を造らせ、車を通せるようにしました。
しかし諸将が言いました「山が高く険しいので車を通すには労力を費やします。」
管仲は「戎馬は駆けることを得意とする。車がなければ制御できない」と言うと、『上山歌(登山の歌)』と『下山歌(下山の歌)』を作って将兵に歌わせました。
『上山歌』はこうです「山が高くそびえ立ち、道が曲がって入りくんでいる。木は生えることなく、堅い石は欄干のようだ。雲は薄く日は寒いが、私は車を駆けて山峰に登る。風伯(風神)が馬を走らせ兪児(下述)が竿(山を登る時の杖?)を操る。飛ぶ鳥のように羽が生え、山嶺を越えるのも苦としない(山嵬嵬兮路盤盤,木濯濯兮頑石如欄。雲薄薄兮日生寒,我駆車兮上巉岏。風伯為馭兮兪児操竿,如飛鳥兮生羽翰,跋彼山兮不為難)。」
『下山歌』はこうです「登山は難しいが下山は容易だ。車輪が回り馬蹄が下りる。轔轔(リンリン。車の音)と音が鳴り人が息を吐く。曲がりくねった道をいくつも越えて、もうすぐ平地に到着する。戎廬を攻めて烽燧を消し、孤竹の功績を億万世も留める(上山難兮下山易,輪如環兮蹄如墜。声轔轔兮人吐気,歴幾盤兮頃刻而平地。擣彼戎廬兮消烽燧,勒勲孤竹兮億万世)。
人夫達がこの歌を歌って互いに唱和すると、活気が充ちて士気が上がりました。歌にのって車輪が回り、飛ぶように前進します。
桓公管仲、隰朋等と共に卑耳の嶺に登り、山を登り降りする軍士の様子を眺めました。桓公が言いました「寡人は今日初めて歌からも人力を得られると知った。」
管仲が言いました「臣は以前、檻車の中で魯人の追撃を恐れたので、歌を軍夫に教えました。軍夫は歌を楽しんで疲れを忘れたので、兼程(急行)の功を挙げることができました。」
桓公が問いました「それはなぜだ?」
管仲が答えました「人は形(身体)を労したら神(精神)を疲れさせ、神を楽しませたら形を忘れるものです。」
桓公は感心して「仲父はそれほどまで人情(人の本性)に精通していたのか」と言いました。
 
斉の車徒(車兵と歩兵)は先を急いで行軍し、いくつかの山を越えました。
新たに一つの嶺に登った時、前を進む大小の車輌が岩壁に挟まれて動けなくなっていました。
軍士が桓公に報告しました「両側に天生の石壁があり、その間の小路は単騎しか通れません。車輌を通すのは無理です。」
桓公が顔色を変えて管仲に言いました「もしもここに伏兵がいたら我が軍の負けだ。」
躊躇している時、山のくぼみから何かが現れました。桓公が目を凝らして見ると、人のようで人ではなく、獣のようで獣でもありません。背は一尺余で、朱衣玄冠(赤い服と黒い冠)を身に着け、両足は裸足です。桓公に向かって三回拱揖(片手でもう片方の拳を包んでお辞儀する礼)をしました。桓公を迎え入れる意思を示したようです。その後、右手で衣の裾を上げ、石壁の間を疾駆して去りました。
驚いた桓公管仲に問いました「卿は見たか?」
しかし管仲は「臣は何も見ていません」と答えます。
桓公がその様子を説明すると、管仲はこう言いました「それはまさに臣が作った歌詞に出てきた『兪児』です。」
桓公が「兪児とは何者だ?」と問うと、管仲が説明しました「北方に登山の神がおり、名を兪児といいます。霸王の主がいる所に姿を現すといわれています。主公が見たのは間違いなく兪児です。拱揖して迎え入れたのは、主公の討伐を望んでいるからです。衣の裾を挙げたのは前方に水()があるからです。右手を使ったのは水の右側が深いため、主公に左へ進むように教えたのです。前方は水に隔てられており、しかも幸いなことに石壁に守られています。とりあえず山上に駐軍しましょう。人を送って水の勢いを確認してから兵を進めるべきです。」
こうして水の流れを調べるために諜者が派遣されました。
 
長い時間が経ってから、諜者が戻って報告しました「山を下って五里も離れていない所に卑耳溪があります。溪は広く水も深く、冬になっても涸れません。本来は竹筏で渡るのですが、今は戎主に隠されています。右に行けばいくほど水が深くなり、一丈以上もあります。しかし左に三里程進めば、水面は広いものの水が浅くなります。そこを渡れば水は膝にも及びません。」
桓公は手を敲いて「兪児の兆が当たった!」と言いました。
燕荘公が言いました「卑耳溪に浅くて渡れる場所があるとは知りませんでした。これは神が君侯の成功を援けているのでしょう。」
桓公が問いました「ここから孤竹城までの路はどれくらいありますか?」
燕荘公が答えました「溪を越えて東に進むと、まず団子山があり、次に馬鞭山、また次に双子山があります。三山は連なっており、約三十里になります。これは商代の孤竹三君の墓です。三山を越えて更に二十五里進むと無棣城に至ります。そこが孤竹の国君の都です。」
虎児斑が自分の部隊を率いて先に川を渡ろうとしましたが、管仲が言いました「兵が一カ所だけから進んだら、万一敵に遭遇したら進退に窮します。両路に分かれて進みましょう。」
 
管仲は兵に命じて竹を伐らせ、藤で繋げました。暫くして数百の筏が完成します。
斉軍は筏で移動するため、車を石壁の下に留め、軍士が筏を牽いて運びました。
山を降りてから軍馬が二隊に分けられました。王子成父が高黒と共に一軍を率い、右から筏に乗って川を渡ります。これが正兵です。公子開方と豎貂が斉桓公に従って後に続きました。
賓須無と虎児斑も一軍を率いて左から川を渡ります。これが奇兵です。管仲と連摯が燕荘公に従って後に続きました。
左右両軍は団子山の下で合流することを約束しました。
 
 
 
*『東周列国志』第二十一回その三に続きます。