第二十一回 管夷吾が兪児を知り、斉桓公が孤竹を平定する(四)

*今回は『東周列国志』第二十一回その四です。
 
黄花元帥は斉将・高黒と共に先行し、陽山まで来ました。高黒は後隊の大軍が来ていないことに気づき、黄花に暫く止まるように勧めます。しかし黄花は先に進むように催促しました。高黒は疑いを持ち、馬を止めて進軍を中止しました。すると黄花は高黒を捕え、孤竹の主・答里呵に会いに行きました。
黄花は密盧を殺したことを隠してこう言いました「密盧は馬鞭山で破れて殺されました。臣は詐降の計を用いて斉侯の大軍を誘い出し、既に旱海に陥れました。また、ここに斉将・高黒を捕えて来ました。彼の処理を命じてください。」
答里呵が高黒に言いました「汝が投降するのなら、重く用いよう。」
しかし高黒は目を見開くと罵って言いました「わしは代々斉の恩を受けてきた。汝のような犬羊に仕えることはない!」
更に黄花を罵って言いました「汝はわしを誘い出してここまで来たが、わしの一身が死んでも惜しむことはない。我が主の兵が来たら汝の君臣が死んで国が滅ぶ。それが速いか遅いかだけの事だ。汝が後悔しても及ばないようになるだろう!」
怒った黄花は剣を抜くと自ら高黒の首を斬りました。
 
答里呵は軍容を正して無棣城を奪還しました。
燕荘公が率いる兵はわずかで城内にも人がいないため、とても敵いません。荘公は四面に火を放ってから混乱に乗じて脱出し、団子山に撤退して営寨を構えました。
 
桓公の大軍が迷谷を出て十里も進まない頃、一隊の軍馬に遭遇しました。桓公が人を送って探ると公孫隰朋です。隰朋も本隊に合流して無棣城に向かいました。
途中、百姓が老幼を抱きかかえ、長い列を作って歩いていました。管仲が人を送って問うと、民がこう答えました「孤竹の主が燕兵を駆逐し、既に城中に帰りました。私達は山谷に避難していましたが、これから井里裡(郷里。家)に帰るのです。」
管仲が言いました「私に敵を破る計がある。」
管仲は虎児斑に腹心の軍士数人を選ばせ、城中の百姓の姿をさせました。虎児斑と軍士は民衆の群れに紛れ込んで入城し、夜半になるのを待って火を挙げるように命じられます。虎児斑が計に従って行動を開始しました。
管仲は豎貂に南門を、連摯に西門を、公子・開方に東門を攻撃するように命じました。北門だけは退路に残してわざと攻撃せず、王子成父と隰朋にそれぞれ一隊を率いて北門の外に埋伏させます。答里呵が城を出たら襲いかかる計画です。
管仲と斉桓公は城から十里離れた場所に営寨を構えました。
 
一方の答里呵は城中の火を消し、百姓を呼び戻して復業させたところでした。黄花に兵馬を整えさせ、戦いの準備をします。
黄昏の頃、突然、炮声が四回挙がりました。「斉兵が来ました。もうすぐ城門が囲まれます」という報告が入ります。
黄花は斉兵がこれほど速く来るとは思ってもいなかったため、驚いて軍民を指揮し、城壁に登って守備しました。
半夜、城中の各箇所の路から火が挙がります。黄花が人を送って火を放った者を探させた頃、虎児斑が十余人を率いて南門に至り、城門を切り開いて豎貂の軍馬を入城させました。
黄花は敗戦を覚り、答里呵を馬に乗せて逃げる道を探しました。北路に斉兵がいないと聞いて北門から出ていきます。しかし二里も進まないうちに、縦横に火把(たいまつ)が並んで戦鼓の音が地を震わせました。王子成父と隰朋の軍馬が両路から殺到します。
城を奪った開方、豎貂、虎児斑も兵を率いて追撃してきました。
黄花元帥は久しい死戦の末、力尽きて殺されます。
答里呵は王子成父に捕えられ、兀律古は乱戦の中で戦死しました。
 
空が明るくなった頃、各将が桓公を城に迎え入れました。
桓公は答里呵が悪を助けた罪を数え上げ、自ら首を斬りました。戎夷に対する戒めとして首を北門に掲げ、百姓を安撫します。
戎人が高黒の不屈による死を語ったため、桓公は嘆息してその忠節を記録させ、帰国してから恤典(死んだ臣下に対する賞賜や葬礼)について決定することにしました。
 
燕荘公は斉侯の兵が勝って入城したと聞き、団子山から馬を駆けさせて会いに行きました。
祝賀の礼が終わると桓公が言いました「寡人は貴君の急に臨み、千里を越えてここまで来ました。幸いにも遠征は成功し、令支も孤竹も一朝にして全滅させ、五百里の地を開くことができました。しかし寡人には国を越えて領有する力がありません。貴君の封土に加えてください。」
燕荘公が言いました「寡人は貴君の霊(福)によって宗社を保つことができました。これだけで充分です。土地を望もうとは思いません。貴君が建置(国を建てたり県邑を置くこと)するべきです。」
桓公が言いました「北陲(北方の辺境)は僻遠(遠い僻地)なので、もし改めて夷種を立てたら、必ず再び謀反することになります。貴君は辞すべきではありません。東道が既に通じたので、先の召公(燕国の祖)の業を修めることに勉め、周に貢献し、長く北藩(北の守り)となってください。そうすれば寡人も栄施(栄誉と恩恵)を得ることができます。」
燕伯は北方の地を受け入れました。
 
桓公は無棣城で三軍を大賞(論功行賞)し、無終国が遠征に協力した功績を称えて小泉山下の田(土地)を贈ることにしました。虎児斑は拝謝して先に帰国します。
桓公は兵を五日間休ませてから出発し、再び卑耳の溪を渡りました。石壁で車輌を回収してから軍容を整えてゆっくり帰国します。
帰路、荒廃した令支の土地を見た桓公は、悲痛な気持ちになって燕伯に言いました「戎主は無道だったために殃(禍)が草木にまで及んだ。戒めとしなければならない。」
 
鮑叔牙が葵茲関を出て一行を迎えました。桓公が言いました「餉饋(食糧)が途絶えなかったのは全て大夫の功だ。」
桓公は燕伯に葵茲関を守らせ、斉兵を撤収します。
燕伯は桓公を国境まで送りましたが、別れを惜しんでいつの間にか斉界に入っていました。燕界から五十余里も離れています。
桓公が言いました「古来、諸侯が相手を送る時は境外を出なかったものです。寡人が燕君に無礼を行うわけにはいきません。」
桓公は燕荘公が至った地までの領土を割いて燕に譲り、見送りを謝しました。燕伯は辞退することもできず、土地を受け取って還ります。この地には城が築かれ燕留と名付けられました。斉侯の徳を燕に留めたという意味です。
燕は西北に五百里の土地を拡大し、東にも五十余里の土地を得ました。この後、北方の大国に発展していきます。
諸侯は桓公が燕を援けながら土地を欲しなかったと知り、斉の威信に恐れて徳に感服しました。
 
桓公が魯済に至りました。魯荘公は水辺で斉軍を労い、祝賀の饗宴を設けます。
桓公は荘公と親密な関係にあるため、二戎から奪った戦利品の半分を魯に贈りました。
管仲の采邑を小穀といい、魯との境にありました。それを知った魯荘公は丁夫を動員して城を築きました。管仲を喜ばせるためです。
魯荘公三十二年、周恵王十五年の事です。
 
この年秋八月、魯荘公が死んで魯国に大乱が訪れます。
魯国がどうなるか、続きは次回です。