第二十二回 公子友が魯君を定め、斉の皇子が委蛇を当てる(中編)

*今回は『東周列国志』第二十二回中編です。
 
閔公二年、慶父は簒奪の計画を急ぐようになりました。しかし閔公が斉侯の外甥にあたり、季友も忠心をもって補佐しているため、軽率には動けません。
ある日突然、閽人(門守)が報告しました「大夫・卜齮が尋ねて来ました。」
慶父が書房で迎え入れると、卜齮が怒りを顕わにして入ってきます。卜齮が慶父に訴えて言いました「私の田(土地)は太傅・慎不害の田荘の近くにありましたが、慎不害に奪われてしまいました。私がこれを主公に訴えると、主公は師傅をかばって逆に私に譲るように勧めました。このようなことに甘んじるわけにはいかないので、こうして公子に投じたのです。主公の前で一言言っていただけませんか。」
慶父は従人を去らせてから卜齮に言いました「主公は幼くて無知なので、何を言っても聞き入れない。子(汝)がもし大事を行うなら、私が子のために慎不害を殺してみせよう。」
卜齮が言いました「季友がいるので、事を行っても禍から逃れられないでしょう。」
慶父が言いました「主公には童心があるので、夜の間に武闈(宮殿の小門)を出て街市で遊び歩くことがある。子は武闈に人を隠し、出てきたところを刺せばいい。盗賊の仕業だと言えば誰にも分からないだろう。私は国母の命によって国君に立つ。成功すれば季友を追放するのも掌を返すように簡単だ。」
卜齮は同意して勇士を探しました。やがて、秋亜という士を見つけると、鋭利な匕首を授けて武闈に隠れさせます。
夜、閔公が門を出ました。突然、秋亜が閔公を襲って刺し殺します。左右の者が驚いて叫び、秋亜を捕えました。しかし卜齮が家甲を率いて秋亜を奪い去りました。
慶父は慎不害を家で殺します。
異変を知った季友は夜の間に公子・申の門を叩き、急いで起こして慶父の乱を告げました。二人は邾国に出奔します。
 
魯の国人は元々季友に心服していたため、魯侯が殺されて相国が出奔したと聞き、国を挙げて騒ぎ出しました。皆、卜齮と慶父を憎みます。
その日、国中の市が閉じられ、千人が集まってまず卜齮の家を囲みました。人々は家の中に進入し、中にいる者を皆殺しにします。
次に慶父の家に向かった時、人々の数は更に増えていました。
慶父は人心が帰順していないと知って出奔を謀ります。この時、斉侯がかつて莒国の力を借りて即位したことを思い出しました。斉に恩がある莒に逃げれば、莒から斉に命乞いができるかもしれません。また、文姜も莒の医者と情を交わしたことがありました。今の夫人・姜氏は文姜の姪女です。これらの縁を考えると、莒に頼ればなんとかなると思えてきました。そこで微服(庶民の服)を着て商人に化け、貨賂を車いっぱいに乗せて莒国に出奔しました。
 
夫人・姜氏は慶父が莒に奔ったと聞き、不安になって自分も莒国に逃げようとしました。しかし左右の者がこう言いました「夫人は仲(慶父)のために国人から罪を得ることになりました。今また一国で二人が一緒になったら、誰が許容するでしょうか?季友は邾におり、衆人に支持されています。夫人は邾に向かって季に憐れみを乞うべきです。」
姜氏は邾国に走って季友に会おうとしました。しかし季友は拒否しました。
 
慶父と姜氏がどちらも魯国を出たため、季友は公子・申と一緒に魯に還りました。同時に斉に使者を送って国難を告げます。
桓公が仲孫湫に問いました「今、魯には国君がいない。奪うことは可能だろうか?」
仲孫湫が言いました「魯は礼を重視する国です。弑乱に遭ったとはいえ、それは一時の変なので、人心はまだ周公を忘れていません。よって魯国を取るべきではありません。しかも公子・申は国事に対して聡明で、季友には乱を治める能力があります。必ず衆庶を集めて安定させることができます。我々は魯を守るべきです。」
桓公は「わかった(諾)」と言うと、上卿・高傒に南陽の甲士三千人を率いさせ、機を見て動くように命じてこう言いました「公子・申が本当に社稷の主として堪えることができる人物なら、彼を魯君に立てて隣国と修好せよ。しかしもしその能力がないようなら、魯の地を兼併せよ。」
高傒は命を受けて出発しました。
 
斉軍が魯国に至った時、ちょうど公子・申と季友も到着しました。高傒は公子・申の端正な相貌と理にかなった言論に接し、心中で敬重しました。そこで季友と共に計を定め、公子・申を魯君に立てました。これを僖公といいます。
邾・莒の攻撃に備えるため、斉の甲士が魯人を助けて鹿門の城を築きました。
季友は公子・奚斯に命じて高傒と共に斉に入らせました。斉侯が国を安定させた功労を謝すためです。併せて莒にも使者を派遣し、重賂を莒人に贈って慶父を殺すように誘いました。
 
慶父は莒に奔った時、魯国の宝器を大量に持ち出しました。それらは莒医を通して莒子に献上され、莒子は全て受け取りました。
今回、季友も厚い賄賂を贈ってきました。莒子はこれも自分のものにしたいと思い、慶父に人を送って言いました「莒国は狭いので、公子が兵端(戦のきっかけ)になることを恐れます。公子は他国に移っていただけないでしょうか。」
慶父がまだ出発する前に、莒子は慶父を放逐する命令を下しました。
慶父はかつて斉の豎貂が賄賂を受け取って関係を築いたことを思い出し、邾から斉に向かいました。
しかし斉の疆吏(国境の官吏)が以前から慶父の悪を知っていたため、自分の判断で国に入れることができず、汶水の辺に住ませました。ちょうどこの時、斉に派遣された公子・奚斯が魯に帰る途中で汶水を通ります。
奚斯は慶父に会い、車に乗せて帰ろうとしました。しかし慶父はこう言いました「季友が許容するはずがないから、私の代わりに子魚(奚斯)に発言してほしい。先君の一脈(家系。血統)に念じて性命を留めさせ、匹夫(庶人)として生き永らえさせてもらえるなら、死んでも朽ちることはない。」
奚斯は魯に帰ると慶父の言を伝えました。僖公は帰国を許可しようとします。しかし季友がこう言いました「国君を弑殺した者を誅殺しなかったら、後世の戒めになりません。」
季友は秘かに奚斯にこう言いました「慶父が自裁(自殺)するのなら、後世を立てて祭祀を絶えさせないことを約束しよう。」
奚斯は命を受けて再び汶水に向かいます。しかしなかなか慶父に話すことができず、門外で大哭しました。その声を聞いた慶父は奚斯が来たと知り、嘆息してこう言いました「子魚が私に会おうとせず、外でこのように哀哭しているのは、私が死から逃れられないからだ。」
慶父は帯を解くと木に掛けて自縊しました。
奚斯は門に入って慶父の死体を棺に納め、帰って僖公に報告しました。僖公は歎息を繰り返しました。
 
この時、突然報告が入りました「莒子が弟の嬴拿を派遣しました。兵を率いて国境に臨んでいます。慶父が既に死んだと聞いて、謝賂(報酬)を要求しています。」
季友が言いました「莒人は慶父を捕えて送り返したわけでもないのに、何の功があるというのだ。」
季友自ら兵を率いて応戦することを願い出ます。すると僖公が宝刀を解いて季友に渡し、こう言いました「この刀は『孟労』といい、長さは一尺もないが、他に並ぶものがないほど鋭利だ。叔父が大切に使え。」
季友は刀を腰胯(腰と太股の間)に掛けると、恩を謝して退出しました。
 
季友が酈地に到着した時、莒の公子・嬴拿は既に陣を構えて待機していました。
季友が言いました「魯は新君が立ったばかりで国事が安定していない。もし戦って勝てなかったら人心が動搖してしまう。莒拿は貪婪で無謀だ。計を用いて勝ちとろう。」
季友は陣前に進むと嬴拿を招き出して直接話しました「我々二人の仲が悪くて対立したとしても、士卒に罪はない。公子は力が強く搏(格闘技)を善くすると聞いた。それぞれ器械(兵器)を解き、公子と素手で雌雄を賭けたいと思うが如何だ?」
嬴拏は「願うところだ(甚善)!」と言うと、軍士を退かせて戦場で季友に向かいあいました。
二人が取っ組み合いを始めました。しかし五十余合争っても互いに隙が見えません。
季友には寵愛する子がいました。行父といいまだ八歳でしたが、軍中で戦いを観ています。父がなかなか勝てないため、行父が「『孟労』はどこですか!」と連呼しました。
季友は突然思い出し、わざと隙を見せて嬴拿に一歩踏み込ませました。その瞬間、少し身体をひねって腰から「孟労」を抜きとり、手を一振りします。刀は眉から額にかけて切り裂きましたが、刃には血痕がありません。真に宝刀です。
莒軍は主将が倒れるのを見て戦わずに逃走しました。
季友は凱歌を歌って朝廷に還ります。
 
僖公が自ら郊外で季友を迎え、上相に立てました。また、費邑を采地として与えます。
季友が上奏しました「臣と慶父、叔牙は桓公の孫(実際は桓公の子)ですが、臣は社稷のために酖で叔牙を殺し、慶父を自縊させました。大義のために親(親族の情け)を滅ぼすのは仕方がないことです。しかし今二子は後代が途絶え、臣一人が栄爵を受けて大邑をいただきました。これでは地下で桓公に会わせる顔がありません。」
僖公が言いました「二子は反逆を成した。それを封じるのは正常な法ではないのではないか。」
季友が言いました「二子には逆心がありましたが逆形(実際の行動)はありませんでした。また、その死は刀鋸の戮(処刑)によるものではありません。二人の子孫を立てて親親の誼(親族が親しむ道徳)を明らかにするべきです。」
僖公は同意し、公孫敖に慶父を継がせました。これを孟孫氏といいます。慶父の字は仲で、通常は字が後人の氏になるので、本来は仲孫氏とするべきですが、慶父の悪を避けて「仲」が「孟」に改められました。孟孫氏の食采は成です。
また、公孫茲に叔牙の後を継がせました。これを叔孫氏といい、郈が食采となります。
季友の食采は費で、更に汶陽の田が加封されました。これを季孫氏といいます。
この後、魯では季・孟・叔の三家が鼎足のように並び立ち、共に政権を掌握するようになります。この三家を「三桓」といいます。
この日、魯の南門が理由もなく崩れました。識者は高いものが突然傾いた事件を、後日に起きる凌替の禍(下の者が上の者を凌駕すること。三桓の専横)の予兆だと判断しました。
 
 
桓公は姜氏が邾に居ると知って管仲に言いました「魯の桓・閔二公は善い終わりを迎えることができなかった。これは全て我が姜氏のせいだ。これを討たなければ魯人は今回の事件を戒めとし、斉との婚姻を絶つことになるだろう。」
管仲が言いました「女子が嫁いだら夫に従うものです。夫家の罪を得たとしても、外家が討つことではありません。それでも主公が討つというのなら、隠れて行うべきです。」
桓公は「善し」と言い、豎貂を邾に派遣して姜氏を魯に送り帰らせました。姜氏が夷に到着して館舍に泊まった時、豎貂が姜氏に言いました「夫人が二君を弑殺したことは、斉と魯で知らない者がいません。夫人は帰ってから何の面目があって太廟に行くのですか。自裁すれば自分で罪を覆うことができます。」
姜氏は門を閉じて哭泣しました。
半夜、部屋が静かになりました。豎貂が門を開いて見ると、既に自縊していました。
豎貂は夷邑の宰に命じて殯事(棺に入れること)を行わせ、すぐ魯僖公に伝えます。僖公は喪(霊柩)を迎えて帰り、礼に則って葬儀を行ってからこう言いました「母子の情を絶つことはできない。」
謚号は「哀」が贈られ、哀姜と号されました。
八年後、宗廟の荘公に配する牌位がないため、僖公は哀姜を太廟に入れました。
 
 
 
*『東周列国志』第二十二回後編に続きます。