第二十二回 公子友が魯君を定め、斉の皇子が委蛇を当てる(後編)

*今回は『東周列国志』第二十二回後編です。
 
桓公は燕を救って魯を安定させてから、ますます威名を振るわせました。諸侯が喜んで心服します。
桓公管仲を信任して政治を任せ、自分は飲猟(飲酒や狩猟)といった歓楽に専念しました。
ある日、桓公が大沢の陂(坂)で狩りをしました。豎貂が車を御します。
車馬を駆け巡らせて狩猟を楽しんでいる時、桓公が突然止まって一点を凝視しました。暫く何も言わず、何かを恐れているようです。
豎貂が問いました「主公は目を見張って何を見ているのですか?」
桓公が言いました「寡人は鬼物を見た。その姿は奇怪で恐ろしく、久しくして突然消えた。不祥の物であろう。」
豎貂が言いました「鬼は陰の物です。昼に見えるはずがありません。」
桓公が言いました「先君は姑棼で狩りをして大豕を見たが、まだ昼のことだった。汝はすぐ仲父を呼べ。」
豎貂が言いました「仲父は聖人ではありません。鬼神の事まで分かるはずがありません。」
桓公が言いました「仲父は『兪児』を知っていた。なぜ聖ではないのだ。」
豎貂が言いました「前回は主公が先に兪児の姿を語ったので、仲父が主公の意にあわせて言葉を飾り、主公に行軍を勧めたのです。今回、主公は鬼を見たと言っただけで、その姿を漏らしていません。もし仲父の言葉が主公の見た物と同じなら、仲父の信聖は嘘ではありません。」
桓公は「わかった(諾)」と言うと急いで還りました。不安と恐れのため、その夜には瘧(おこり)のような大病を患います。
 
翌日、管仲と諸大夫が容体を伺いに来ました。桓公管仲を招いて鬼を見たと言い、こう続けました「寡人は心中で恐れ嫌っているので、口に出すことができない。仲父が試しにその姿を述べてみよ。」
しかし管仲は答えられないため、「臣に調べさせてください」と言いました。
豎貂が傍で笑って言いました「臣は仲父が答えられないと知っていました。」
 
桓公の病がますます悪化したため、管仲は心配して門に書を掲げました。そこにはこう書かれています「国君が見た鬼の姿を言い当てることができたら、管仲の)封邑の三分の一を贈る。」
すると一人の男が管仲に謁見を要求しました。荷笠懸鶉(荷笠は蓮の葉で作った傘。懸鶉は粗末な服)というみすぼらしい姿です。管仲が揖礼して迎え入れると、男が問いました「国君に恙(病)があるのですか?」
管仲が「そうです(然)」と答えました。
男がまた問いました「国君の病は鬼を見たからですか?」
管仲がまた「そうです(然)」と答えます。
男が更に問いました「国君は大沢の中で鬼を見たのですか?」
管仲が言いました「子(汝)は鬼の姿を言えるのですか?私は子と家を共にしましょう(「吾当与子共家」。封地を分け与えるという意味です)。」
男が言いました「国君に会って話をさせてください。」
管仲は男を桓公に会せることにしました。
 
管仲桓公の寝室に行くと、桓公は疲れていたため茵(座布団)を重ねて座っていました。二人の婦人に背をさすらせ、二人の婦人に足を叩かせています。豎貂が桓公に飲ませる湯を持って傍に立っていました。
管仲が言いました「主公の病を言える者がいたので、臣と共に来ました。主公は彼をお招きください。」
桓公は男に入るように命じましたが、荷笠懸鶉という姿を見て不快になりました。
桓公がすぐ問いました「仲父が鬼を知る者がいると言ったが、汝のことか?」
男が言いました「主公は自ら傷ついたのです。鬼が主公を傷つけることはありません。」
桓公が問いました「それでは鬼はいるのか?」
男が答えました「います。水には『罔象』がおり、丘には『』がおり、山には『夔』がおり、野には『彷徨』がおり、沢には『委蛇』がいます。」
桓公が言いました「試しに『委蛇』の様子を述べてみよ。」
男が言いました「『委蛇』というのは轂(車輪の中心。車軸を挿す部分)ほどの大きさで、轅(車と牛馬をつなぐ二本の柱)ほどの長さがあり、紫衣朱冠という身なりです。その物は轟車の音を嫌い、音をきいたら首を持ち挙げて立ちます。簡単に見える物ではなく、見た者は必ず天下の霸者となります。」
桓公は喜んで笑いだし、いつの間にか立ち上がって言いました「まさに寡人が見た物と同じだ!」
桓公は一瞬にして気持ちが晴れ、病が消えてなくなります。
桓公が問いました「子は何という名だ?」
男が言いました「臣の名は皇子といいます。斉の西鄙(西境)の農夫です。」
桓公は皇子を大夫に任命したいと思い、「子は留まって寡人に仕えよ」と言いました。
しかし皇子は固辞して言いました「主公が王室を尊び、四夷を攘い(除き)、中国(中原)を安定させ、百姓を慰撫し、臣を常に治世(安泰の世)の民にさせて農務に影響がでなければ、それで充分満足です。官に就くつもりはありません。」
桓公は「高士だ」と言って粟帛を下賜し、有司(官員)に命じて家に送らせました。
また管仲にも重賞を与えました。豎貂が「仲父は言い当てることができず、皇子が言ったのです。なぜ仲父も賞を受けるのですか?」と問うと、桓公はこう言いました「『独りに任せる者は暗、衆に任せる者は明(任独者暗,任衆者明)』という。仲父がいなかったら寡人は皇子の言を聞くことができなかった。」
豎貂は服しました。
 
 
この年は周恵王十七年です。
狄人が邢国を侵し、兵を衛に移動させました。衛懿公は斉に使者を送って急を告げます。
斉の諸大夫が援軍の派遣を願うと、桓公はこう言いました「戎討伐の瘡痍(傷)がまだ癒えていない。来春を待って諸侯と合流し、衛を援けに行けばいい。」
ところがその冬、衛の大夫・寧速が斉に来てこう報告しました「狄が既に衛を破り、衛懿公が殺されました。公子・燬を国君に迎え入れたいと思います。」
斉侯が驚いて言いました「早く衛を救わなかったからこうなってしまった。孤の罪は言い逃れができない。」
 
狄はどうやって衛を破ったのか。続きは次回です。