戦国時代 子貢 原憲 曾参
ここで紹介します。
端木賜は衛人で字を子貢といいます。孔子より三十一歳年下でした。
子貢は弁舌が達者でしたが、孔子はしばしばその言を否定し、退けていました。
子貢が言いました「賜(私)は回と較べようとは思いません。回は一を聞いたら十を知ることができますが、賜は一を聞いて二を知ることができるだけです。」
子貢が「何の器でしょうか」と問うと、孔子は「瑚璉だ」と答えました。
瑚璉は宗廟の祭祀で使う穀物を置く器です。夏代には瑚、殷代には璉、周代には簠簋といいました。国にとって大切な人材が「瑚璉」に喩えられます。
子貢が言いました「文王と武王の道はまだ果てておらず、人の世に伝わっています。賢者はその大きな道理を知り、不賢の者も小さい道理を知っているので、文王と武王の道はどこにでも存在しています。だから夫子(先生)が学べないはずはなく、常師(特定の師)を必要とすることもないのです。」
子貢が言いました「夫子は温(温厚)・良(善良)・恭(恭敬)・倹(倹朴)・讓(謙譲)によって得ているのです。夫子の求め方は他の人の求め方と異なるかもしれません(孔子には五徳があるので、教えを求めなくても自然に人から与えられるのです)。」
子貢は魯を救うために諸侯を遊説したことがありました。既に紹介したので省略します。
子貢は時に応じて物の売買をする能力に長けていました。
また、人の美点を宣揚することを好みましたが、人の欠点を隠すこともしませんでした。
魯と衛で相を勤めたことがあり、家財は千金に及びました。
最後は斉で生涯を終えました。
これに対して子貢は四頭の馬を連ねた馬車に乗り、束帛の幣礼をもって諸侯を訪問する身分です。子貢が至った国では、どの国君も平等な礼を用いて遇するほどでした。
孔子の名声が天下に知れ渡ったのは、子貢による宣伝の力が大きかったといえます。
原憲について『史記・仲尼弟子列伝』の記述です。
原憲の字は子思といいます。魯人とも宋人ともいわれています。孔子より三十六歳年下でした。
ある時、子思が孔子に「何を耻とするべきですか?」と問いました。
子思が問いました「克(勝ちを好むこと)・伐(自分を誇ること)・怨(人を怨むこと)・欲(欲望を持つこと)を行わなかったら仁といえますか?」
当時、子貢が衛で相を勤めていました。
子貢が四頭の馬を連ねた馬車で藜藿(野草・雑草)の中を進み、窮閻(閻は里巷の門)に来て原憲に挨拶をしました。
原憲が古くて痛んだ衣冠を身につけて子貢に会ったため、子貢は原憲に代わって恥じ入り、「子は病なのですか?」と問いました。
すると原憲はこう答えました「財がないことを貧といい、道を学びながら行えないことを病というのです。憲は貧であり、病ではありません。」
子貢は自分の発言を後悔して去り、終生この時の失言を恥としました。
『韓詩外伝巻第一』にもこの話が書かれています。但し、舞台は衛ではなく魯です。
原憲は魯に住んでいました。環堵の室(四方を土壁で囲まれた狭い部屋)、蒿萊(藁や雑草)の屋根、蓬戸(蓬の草を編んで作った戸)、甕牗(壊れた甕で作った窓)、桑木の柔らかい枝で作った枢(門の軸)という粗末な家で、上からは水が漏れ、下はいつも湿っています。
しかし原憲は姿勢を正して座り、琴を弾いて歌を歌いました。
そこに子貢が肥馬の牽く車に乗って現れます。軽裘(軽い毛皮)を被っていました。内側は紺色、表面は純白です。軒車(馬車)が小巷に入れないため、歩いて原憲に会いに行きました。
原憲は楮冠(楮は紙の原料となる木。楮冠は楮の皮で作った冠)を被り、黎杖(黎は藜と同じで木の名。藜の杖)を持って門まで迎えに行きました。冠の位置を正せば纓(冠の紐)がはずれ、襟を締めれば肘が見え、履(靴)を履けば踵が破れてしまいます。
子貢が不思議に思って問いました「先生は何かの病ですか?」
すると原憲が顔を上げて言いました「財がないことを貧といい、学んだのに実行できないことを病といいます。憲は貧であり、病ではありません。世俗に順応して生き、徒党を組んで友となし、名声を得るために人から学び、利益を得るために人に教え、仁義を隠し、車馬を飾り、衣裘を美しくするようなことは、憲にはできません。」
子貢は返す言葉がなく、後悔の色を浮かべ、別れを告げずに去りました。
曾子が言いました「私には顔氏(顔回)のような才がない。汝等に何を教えればいいだろう。私は無能だが、君子は益に務めるものだ(君子は周りの人のためになるように努力しなければならない)。華(花)が多ければ逆に実が少なくなる。これは天(自然の道理)だ。言が多い者ほど往々にして行いは少ない。これが人(通常の人の態度、様子)である。飛ぶ鳥は山を低いと感じており、山頂に巣を作る。魚鱉(すっぽん)は淵を浅いと感じており、淵の底に穴を掘る。しかし(空を高く飛ぶ鳥や淵の奥深くに住む魚鱉でも)捕まってしまうのは、餌を貪ろうとするからだ。君子が利を貪らず、身を害すことがなければ、辱めを招く恐れもない。官員が功績を誇って怠惰になり(官怠于宦成)、病が少し良くなっただけで安心し(病加于少愈)、怠け惰ることで禍を産み(禍生于懈惰)、妻子のために孝心を失う(孝衰于妻子)、この四者に対してよく注意をはらい、いつも初心を忘れず慎重でいなければならない。『詩(大雅・蕩)』には『誰もが善い始めを持っているが、最後までそれを保つのは難しい(靡不有初,鮮克有終)』とある(これを忘れてはならない)。」
最後は『史記・仲尼弟子列伝』から曾参に関する記述です。
曾参は南武城の人です。南北の武城は魯に属します。字を子輿といい、孔子より四十六歳年下でした。
孔子は曾参が孝道に通じていると判断して学業を授けました。
曾参は『孝経』を残し、魯で死にました。