戦国時代 子貢 原憲 曾参

資治通鑑外紀』が『史記』等を元に子貢、原憲、曾参(三人とも孔子の弟子)について書いています。
ここで紹介します。
 
まずは『史記・仲尼弟子列伝(巻六十七)』から子貢です。
端木賜は衛人で字を子貢といいます。孔子より三十一歳年下でした。
子貢は弁舌が達者でしたが、孔子はしばしばその言を否定し、退けていました。
ある日、孔子が子貢に問いました「汝と回顔回ではどちらが優れていると思うか?」
子貢が言いました「賜(私)は回と較べようとは思いません。回は一を聞いたら十を知ることができますが、賜は一を聞いて二を知ることができるだけです。」
 
子貢が孔子に学問を習ってから、孔子にこう問いました「賜(私)はどのような人物でしょうか?」
孔子が言いました「汝は器(器物)のようなものだ。」
子貢が「何の器でしょうか」と問うと、孔子は「瑚璉だ」と答えました。
瑚璉は宗廟の祭祀で使う穀物を置く器です。夏代には瑚、殷代には璉、周代には簠簋といいました。国にとって大切な人材が「瑚璉」に喩えられます。
 
陳子禽が子貢に問いました「仲尼孔子はどうやって学んだのですか?」
子貢が言いました「文王と武王の道はまだ果てておらず、人の世に伝わっています。賢者はその大きな道理を知り、不賢の者も小さい道理を知っているので、文王と武王の道はどこにでも存在しています。だから夫子(先生)が学べないはずはなく、常師(特定の師)を必要とすることもないのです。」
陳子禽が問いました「孔子がどこかの国に行ったら、必ずその国の政治を把握できています(その国の政事に関与しています)。これは自ら教えを求めるからですか?それとも人々が自然に教えるからですか?」
子貢が言いました「夫子は温(温厚)・良(善良)・恭(恭敬)・倹(倹朴)・讓(謙譲)によって得ているのです。夫子の求め方は他の人の求め方と異なるかもしれません孔子には五徳があるので、教えを求めなくても自然に人から与えられるのです)。」
 
ある時、子貢が孔子に問いました「富貴を得ても驕らず、貧しくてもおもねらない(富而無驕,貧而無諂)、このような態度は如何でしょうか?」
孔子が言いました「それも好い(可也)。しかし貧しくても道を守ることを楽しみ、富貴になっても礼を大切にして恭敬である方がいい(貧而楽道,富而好礼)。」
 
子貢は魯を救うために諸侯を遊説したことがありました。既に紹介したので省略します。
 
子貢は時に応じて物の売買をする能力に長けていました。
また、人の美点を宣揚することを好みましたが、人の欠点を隠すこともしませんでした。
魯と衛で相を勤めたことがあり、家財は千金に及びました。
最後は斉で生涯を終えました。
 
次は『史記・貨殖列伝(巻百二十九)』から子貢に関する記述です。
子贛(子貢)は仲尼に学んでから衛で仕官し、曹と魯の間で商業を行いました。孔子の七十子(七十余人の弟子)の中で、端木賜がもっとも豊かでした。
孔子の別の弟子である原憲は貧しかったため糟糠(粗末な食物)も満足に食べることができず、窮巷(貧しい小巷)にひっそりと住んでいました。
これに対して子貢は四頭の馬を連ねた馬車に乗り、束帛の幣礼をもって諸侯を訪問する身分です。子貢が至った国では、どの国君も平等な礼を用いて遇するほどでした。
孔子の名声が天下に知れ渡ったのは、子貢による宣伝の力が大きかったといえます。
 
 
原憲について『史記・仲尼弟子列伝』の記述です。
原憲の字は子思といいます。魯人とも宋人ともいわれています。孔子より三十六歳年下でした。
ある時、子思が孔子に「何を耻とするべきですか?」と問いました。
孔子が言いました「国に道があれば穀(俸禄)を得るべきだが、国が無道でも穀を受けるのは耻とするべきだ。」
子思が問いました「克(勝ちを好むこと)・伐(自分を誇ること)・怨(人を怨むこと)・欲(欲望を持つこと)を行わなかったら仁といえますか?」
孔子が言いました「それは難(実行が困難な事)とはいえるが、仁というかどうかは分からない(四者を行うのは難しいが、仁というには足りないだろう)。」
 
孔子が死んでから、原憲は衛の草沢(低地で水が溜まっていて草が茂った場所)に隠居しました。
当時、子貢が衛で相を勤めていました。
子貢が四頭の馬を連ねた馬車で藜藿(野草・雑草)の中を進み、窮閻(閻は里巷の門)に来て原憲に挨拶をしました。
原憲が古くて痛んだ衣冠を身につけて子貢に会ったため、子貢は原憲に代わって恥じ入り、「子は病なのですか?」と問いました。
すると原憲はこう答えました「財がないことを貧といい、道を学びながら行えないことを病というのです。憲は貧であり、病ではありません。」
子貢は自分の発言を後悔して去り、終生この時の失言を恥としました。
 
『韓詩外伝巻第一』にもこの話が書かれています。但し、舞台は衛ではなく魯です。
原憲は魯に住んでいました。環堵の室(四方を土壁で囲まれた狭い部屋)、蒿萊(藁や雑草)の屋根、蓬戸(蓬の草を編んで作った戸)、甕牗(壊れた甕で作った窓)、桑木の柔らかい枝で作った枢(門の軸)という粗末な家で、上からは水が漏れ、下はいつも湿っています。
しかし原憲は姿勢を正して座り、琴を弾いて歌を歌いました。
そこに子貢が肥馬の牽く車に乗って現れます。軽裘(軽い毛皮)を被っていました。内側は紺色、表面は純白です。軒車(馬車)が小巷に入れないため、歩いて原憲に会いに行きました。
原憲は楮冠(楮は紙の原料となる木。楮冠は楮の皮で作った冠)を被り、黎杖(黎は藜と同じで木の名。藜の杖)を持って門まで迎えに行きました。冠の位置を正せば纓(冠の紐)がはずれ、襟を締めれば肘が見え、履(靴)を履けば踵が破れてしまいます。
子貢が不思議に思って問いました「先生は何かの病ですか?」
すると原憲が顔を上げて言いました「財がないことを貧といい、学んだのに実行できないことを病といいます。憲は貧であり、病ではありません。世俗に順応して生き、徒党を組んで友となし、名声を得るために人から学び、利益を得るために人に教え、仁義を隠し、車馬を飾り、衣裘を美しくするようなことは、憲にはできません。」
子貢は返す言葉がなく、後悔の色を浮かべ、別れを告げずに去りました。
原憲は杖を持ってゆっくり歩き、『商頌(『詩経』)』を歌いながら家に帰りました。その声は天地に響き、金石(鐘や磬等の楽器)を演奏しているようでした。
 
 
資治通鑑外紀』は『説苑・敬慎(巻十)』から曾参の故事も紹介しています。
曾子(曾参)が病に倒れました。曾元と曾華(二人とも曾参の子)が傍に控えています。
曾子が言いました「私には顔氏顔回のような才がない。汝等に何を教えればいいだろう。私は無能だが、君子は益に務めるものだ(君子は周りの人のためになるように努力しなければならない)。華(花)が多ければ逆に実が少なくなる。これは天(自然の道理)だ。言が多い者ほど往々にして行いは少ない。これが人(通常の人の態度、様子)である。飛ぶ鳥は山を低いと感じており、山頂に巣を作る。魚鱉(すっぽん)は淵を浅いと感じており、淵の底に穴を掘る。しかし(空を高く飛ぶ鳥や淵の奥深くに住む魚鱉でも)捕まってしまうのは、餌を貪ろうとするからだ。君子が利を貪らず、身を害すことがなければ、辱めを招く恐れもない。官員が功績を誇って怠惰になり(官怠于宦成)、病が少し良くなっただけで安心し(病加于少愈)、怠け惰ることで禍を産み(禍生于懈惰)、妻子のために孝心を失う(孝衰于妻子)、この四者に対してよく注意をはらい、いつも初心を忘れず慎重でいなければならない。『詩(大雅・蕩)』には『誰もが善い始めを持っているが、最後までそれを保つのは難しい(靡不有初,鮮克有終)』とある(これを忘れてはならない)。」
 
最後は『史記・仲尼弟子列伝』から曾参に関する記述です。
曾参は南武城の人です。南北の武城は魯に属します。字を子輿といい、孔子より四十六歳年下でした。
孔子は曾参が孝道に通じていると判断して学業を授けました。
曾参は『孝経』を残し、魯で死にました。