戦国時代13 東周貞定王(八) 晋出公 衛悼公 宋景公 前452~449年

今回は東周貞定王十七年から二十年です。
 
貞定王十七年
452年 己丑
 
[] 『史記・秦本紀』によると、晋の智開(智瑤の子)と邑人(従属)が秦に出奔してきました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋出公が在位二十三年で死にました。
『古本竹書紀年』は出公二十三(本年。東周貞定王十七年)に出公が楚に出奔したと書いています。
晋は昭公の孫を立てました。敬公といいます。
『竹書紀年』(今本・古本)では出公の在位年数が二十三年になりますが、諸説があります(東周貞定王十一年・前458年にも書きました)
 
史記・六国年表』では東周定王(貞定王)十二年(前457年)に出公が死んでおり、在位年数は十八年になります。『史記・晋世家』では在位十七年(貞定王十三年)で斉に出奔し、道中で死んだとあります。
また、『竹書紀年』(今本・古本)は出公の後を敬公が継いだとしていますが、『史記・晋世家』では哀公・驕、『史記・六国年表』では哀公・忌、『史記・趙世家』では懿公・驕が継いだとしています。『史記』に敬公の名はありません(『竹書紀年』は出公→敬公→幽公としており、『史記』は出公→哀公→幽公、または出公→懿公→幽公としています)
一説では哀公と懿公は同一人物(驕)諡号で、「哀懿公」が正しいともいいます(銭穆『先秦諸子系年考辨・晋出公以下世系年数考(三十六)』参考)
しかし『竹書紀年』は晋人(戦国時代・魏の人)によって編纂された史書なので、『竹書紀年』の記述(敬公)に信憑性があるとも考えられます。
 
 
 
翌年は東周貞定王十八年です。
 
貞定王十八年
451年 庚寅
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年に衛悼公が死んだとしています。悼公の後は敬公が継ぎました。
悼公が死んだ年には諸説がありますが、既に述べたので再述は避けます(東周元王七年・前469年および貞定王四年・前465年参照)
 
宋代に編纂された『子思子』という書に衛君と子思の故事が紹介されています。子思は孔子の孫です。『子思子』はこの衛君が誰か明記していませんが、『資治通鑑外紀』はここで『子思子』を引用しているので、衛君は敬公に当たります。
以下、『子思子・外篇任賢(第八)』からです。
衛君が子思に問いました「道は大きすぎて明らかにするのが難しいから、私には実行できない。そこで術(策略。方法)を学びたいと思うがどうだ?」
道というのは万物の法則・道理を指し、術は実用的な方法・策略を意味します。
子思が言いました「それは違います。道を体得した者は安逸となり窮することがありませんが、術に任せる者は労しても功を立てることができません(体道者逸而不窮。任術者労而無功)。古の道を篤くした君子は、生(生きること。長寿)すら喜びとしなかったので、利によって動かされることがありませんでした。また、死すら禁(禁忌すること。嫌うこと)としなかったので、害を恐れることがありませんでした。死生の分(道理)が明らかで、利害の変(変化)に通じていたので、天下を脛の毛と交換できるといわれても、(道を体得した君子は)(心)を動かすことがありませんでした。聖人と共にいれば、窮士にも貧賎を忘れさせ、王公にも富貴を削らせることができます。(道を学ばず術を学ぼうというのは)誤りです。」
衛君は納得して「善し」と言いました。
 
[] この年、蔡元侯が在位六年で死に、子の斉が立ちました。
斉の時代に蔡が亡ぼされるため、諡号がなく「蔡侯・斉」とよばれます。
 
[] 『史記・六国年表』によると、秦の左庶長が南鄭に城を築きました(楚から南鄭を奪ったようです。東周貞定王二十八年・441年参照)
 
[] 『史記・六国年表』はこの年に宋景公が死んだとしています。在位年数は六十六年になります。
しかし『春秋左氏伝(哀公二十六年)』は宋景公の死を東周元王七年(前469年)に書いており、その場合、景公の在位年数は四十八年になります。
史記・宋微子世家』と『十二諸侯年表』には、景公の在位年数が六十四年と書かれています。東周貞定王十六年(前453年)あたるので、やはり『年表』とは合いません(本年は貞定王十八年・前451年です)
また、『宋微子世家』には「宋公子・特(徳)が景公の太子を殺して自立した。これを昭公という」とあります。しかし『春秋左氏伝』には景公には子がいなかったと書かれています(東周元王七年・前469年参照)
 
『宋微子世家』は昭公について少し詳しく書いています。
昭公は元公の曾庶孫です。昭公の父は公孫糾といい、糾の父は公子・褍秦といいました。褍秦は元公の少子です。景公が昭公の父・糾を殺したため、昭公はそれを怨んで景公の太子を殺し、自立しました。
史記』の注(索隠)は昭公の父・糾が『春秋左氏伝』の公孫周に当たるとしています。
 
 
 
翌年は東周貞定王十九年です。
 
貞定王十九年
450年 辛卯
 
[] 燕孝公が在位年数十五年で死に、成公が立ちました。『史記・燕召公世家』の注(索隠)によると、成公の名は載といいます。
 
 
 
翌年は東周貞定王二十年です。
 
貞定王二十年
449年 壬辰
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、於越子(越子。越王)・不寿が在位十年で殺されました。不寿は盲姑ともいいます。朱句が即位しました。
史記・越王句践世家』には不寿の在位年数も殺害されたという事件も書かれていません。「王不寿が死に、子の王翁が立つ」とあるだけです。『史記』の王翁が『竹書紀年』の朱句に当たるようです。
 
史記・六国年表』によると、越が秦女を迎えに行きました。
資治通鑑前編』は越で新君が即位したため、秦と婚姻関係を結んだと解説しています。但し、その場合は喪中の婚姻になります。
 
[] 杞出公が在位十二年で死に、子の簡公・春が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。