戦国時代 晋陽の戦い

本編では『資治通鑑』を中心に晋陽の戦いを紹介しました。
 
『戦国策・趙策一』にも詳しい記述があります。『資治通鑑』と重複する場所もありますが、以下紹介します。
晋陽の包囲が三年続きました。城中の人々は巣居(鳥が巣を作るように高い所に家を建てて住むこと)し、釜が水に浸らないように高く掲げて炊事しました。財・食ともに尽き、士卒が病にかかって衰弱します。
襄子が張孟談に言いました「粮食が乏しく城の力も尽き、士大夫は病にかかっている。これ以上守ることはできない。城を率いて投降しようと思うがどうだろう。」
張孟談が言いました「国を亡ぼして存続させることができず、危難に遭って安定させることができないようでは、知士を貴んでも意味がないといいます。主公はその考えを棄ててください。臣が韓、魏の君に会いに行きます。」
襄子は同意しました。
 
韓非子・初見秦』にも記述がありますが、『戦国策』と少し異なります。
晋陽城が陥落の危機に陥ったため、趙襄主(襄子)が亀筮で吉凶利害を占い、どの国に降るべきかを決めました。家臣の張孟談が使者になります。
張孟談は秘かに城を出てから知伯に背反する約束をし、二国の兵を得て知伯を攻め、知伯を捕えました。襄子は以前の勢力を恢復できました。
 
『戦国策・趙策一』に戻ります。
張孟談が韓・魏の君に会って言いました「唇が亡んだら歯が寒くなるといいます。今回、智伯は韓・魏を率いて趙を攻めていますが、趙が亡んだら次は韓・魏の番です。」
二子が言いました「我々もそれは知っている。しかし知伯は粗暴で人と親しもうとしない(凶暴な性格だ)。謀を行う前に知られたら必ず禍が訪れる。」
張孟談が言いました「謀は二主の口から出て臣一人の耳に入るだけです。他の者が知ることはありません。」
二子は張孟談と決行の期日を約束しました。
夜、二子が張孟談を晋陽に送って趙襄子に報告させました。趙襄子は張孟談を再拝しました。
 
張孟談は知伯に疑いを持たせないため、城を出て知伯に朝見しました。
張孟談が轅門(陣門)の外で知過(智過)に会いました(『国語』では、知過は知氏から輔氏に改めています。東周元王四年・前472年参照)
知過が知伯に会って言いました「二主は変事を起こすつもりです。」
知伯がその理由を問うと、知過が言いました「臣は轅門の外で張孟談に会いました。彼は堂々としており、歩く時の足も高く上がっていました。」
知伯が言いました「わしは二主と固く約束をした。趙を破ったらその地を三分することになっている。これは寡人が自ら告げたのだ。裏切るはずがない。子()はそのような考えを棄てよ。二度と口にするな。」
知過は退出してから二主に会いに行き、再び知伯に会って言いました「二主は顔色が変わり、意思にも変化が現れています。必ず主公に背きます。二主を殺すべきです。」
知伯が言いました「兵が晋陽を囲んで三年になる。旦暮(朝夕)には攻略して利を得ることができるのに、なぜ異心を持つのだ。子は言葉を慎め。」
知過が言いました「殺さないのなら親しくするべきです。」
知伯が「どのように親しくせよというのだ」と問うと、知過が答えました「魏宣子(宣子は諡号なので生前に使うことはないはずですが、原文のまま訳します)の謀臣を趙葭といい、韓康子(康子も諡号です)の謀臣を段規といいます。二人とも自分の主の計(考え。異心)を変えることができます。主公は趙を破ってから二子(趙葭と段規)をそれぞれ万家の県に封じることを二君(魏氏と韓氏。または趙葭と段規)と約束してください。そうすれば二主(魏氏と韓氏)は異心を抱かず、主公は志を得ることができます。」
しかし知伯はこう言いました「趙を破ったらその地を三分すると決めてある。そのうえ二子(趙葭と段規)を万戸の県に封じたら、わしが得る地が少なくなってしまう。二子との約束はできない。」
知過は知伯が諫言を聞かないと知り、姓を輔氏に改めて去りました。
 
これを聞いた張孟談が城に帰って趙襄子に言いました「臣は轅門の外で知過に会いました。彼の視線は臣を疑うものでした。彼は知伯に会ってから姓を改めて出て行きました。(魏と韓の謀反を知伯に伝えたはずなので)今晩にでも攻撃しなければ、手遅れになります。」
襄子は「わかった(諾)」と答えると、張孟談を派遣して韓・魏の君にこう伝えました「今晩、堤防を守る官吏を殺して決壊させ、知伯軍を水没させます。」
その夜、水攻めに遭った知伯の軍は洪水から逃れようとして混乱に陥りました。そこを韓・魏両軍が挟撃し、趙襄子も兵を率いて正面から攻撃します。知伯軍は大敗し、知伯は捕まって殺され、国が亡んで地が分割され、天下の笑い者になりました。貪婪に限りがなく、知過の諫言を聞かなかったために招いた滅亡です。
こうして知氏は亡びましたが輔氏だけは存続できました。