戦国時代17 東周威烈王(一) 晋幽公の死 前425~420年
今回から東周威烈王の時代です。
威烈王
考王が死んで子の威烈王・午が立ちました。
威烈王元年
前425年 丙辰
[一] 秦の庶長・鼂と大臣が秦懐公を包囲したため、懐公が自殺しました。懐公の在位年数は四年です。
懐公には昭子という太子がいましたが早逝しました。大臣達は昭子の子を擁立します。これを霊公といいます。
趙襄子は空同氏の女性を妻とし、五子ができましたが、襄子の兄・伯魯が趙氏を継がなかったため、自分の子ではなく、伯魯の子である代成君・周に趙氏を継がせたいと思っていました。
しかし成君は襄子よりも先に死んでしまったため、成君の子・浣(または「晩」。伯魯の孫)を太子に立てました。
襄子の死後、趙浣が立ちました。これを献子といいます(趙が封侯されてから「献侯」に追尊します。東周威烈王二十三年・前403年参照)。
献侯は即位早々位を失います。
『史記・趙世家』では、献侯がまだ若かったため、襄子の弟・桓子が献侯を駆逐して自ら趙氏の主になったとしています。
『世本(秦嘉謨輯補本)』を見ると襄子が献侯・浣と桓子・嘉を生んだと書かれています。
韓では康子の子・啓章が立ちました。これを韓武子といいます。
魏では魏桓子(魏駒)の孫または子の魏斯(または「魏都」)が立ちました。これを魏文侯といいます(この時はまだ諸侯に封じられていませんが、便宜上、「文侯」と書きます)。
但し、魏文侯が魏氏を継いだ年は諸説があります(東周考王七年・前434年参照)。
翌年は東周威烈王二年です。
威烈王二年
前424年 丁巳
[一] 『史記・趙世家』からです。
昨年、献侯(献子)を放逐して趙氏の主となった桓子が死にました。
国人(趙都の人々)は趙襄子の意志を受け継ぎ、桓子の子を殺して献侯を迎え入れました。翌年が献侯元年になります。
[二] 鄭共公が在位三十一年で死に、子の幽公・已が立ちました。
『資治通鑑前編』はこれを前年に書いていますが、恐らく誤りです。
翌年は東周威烈王三年です。
威烈王三年
前423年 戊午
[一] 『史記・鄭世家』からです。
この年(鄭幽公元年)、晋の韓武子(啓章)が鄭を攻撃して幽公を殺しました。
鄭人は幽公の弟・駘を立てました。これを繻公(または「繚公」)といいます。
『史記・六国年表』は駘を幽公の子としています。
[二] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、晋を大旱が襲い、地から塩が生まれました。
翌年は東周威烈王四年です。
威烈王四年
前422年 己未
[一] 『資治通鑑外紀』によると、この年の夏四月に晋で大雪が降りました。
[二] 『史記・六国年表』によると、秦が上下畤を造りました。「畤」とは祭祀を行う場所です。
『史記・封禅書』に上下畤に関する記述があります。
翌年は東周威烈王五年です。
威烈王五年
前421年 庚申
[一] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、晋で丹水が溢れて逆に流れました(原文「丹水出,反撃」)。
『資治通鑑外紀』は東周考王九年(前432年)に「丹沁水出相撃」と書いています。「丹水」と「沁水」という二つの川が溢れてぶつかり合ったようです。
[二] 『資治通鑑外紀』によると、晋の韓武子(韓啓章)が平陽を都にしました。
また、趙献侯(趙浣)が泫氏に城を築きました。
東周威烈王七年(前419年)に再述します。
翌年は東周威烈王六年です。
威烈王六年
前420年 辛酉
[一] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋の大夫・秦嬴が幽公を高寝の上で賊(害)しました。
魏文侯(魏斯)が幽公の子・止を擁立しました。
『古本』は「大夫・秦嬴」ではなく「夫人・秦嬴」としています。また、『古本竹書紀年輯校訂補』は幽公の死を東周威烈王十年(前416年)に書いています。
『史記・晋世家』にもこの事件が書かれていますが、少し異なります。
晋幽公十八年、幽公が婦人と淫事を行い、夜の間にこっそり都邑を出ました。その時、盗賊に殺されました。
魏文侯は兵を率いて晋の乱を収め、幽公の子・止を立てました。これを烈公といいます。
また、『世本』は「烈公」を「烈成公」としています。
『資治通鑑外紀』はこの出来事を二年前の東周威烈王四年(前422年)の事とし、二つの説を併記しています「晋幽公の夫人・秦嬴が高寝で公を害した。または、幽公が淫し、夜、秘かに外出したところを盗(賊)に殺された。魏文侯が兵を率いて晋の乱を誅し、幽公の子・止を立てた。これを烈公という。」
次回に続きます。