戦国時代19 東周威烈王(三) 李悝の平糴法 前413~411年

今回は東周威烈王十三年から十五年です。
 
威烈王十三年
413年 戊辰
 
[] 『史記・六国年表』によると、秦が晋(恐らく魏)と戦い、鄭下(鄭の城下。鄭国ではなく、鄭という地名だと思われます)で敗れました。
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉宣公四十三年(本年)、斉が晋(恐らく魏)を攻めて黄城を破壊し、陽狐を包囲しました。
 
[] 『資治通鑑外紀』は晋の天災を書いています。
晋で黄河の岸が崩れ、龍門黄河の川幅が狭くなった場所の地名)から底柱(山名)まで塞がりました。
 
 
 
翌年は東周威烈王十四年です。
 
威烈王十四年
412年 己巳
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、東周威烈王十三年(前年)十月から本年春正月まで大雪が降りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年(越王・朱句三十七年)、於越子・朱句が死に、子の翳(王翳)が立ちました。
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、この年、斉が魯の葛と安陵を攻めました。『六国年表』では「魯の莒と安陽を攻めた」としています。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、斉の田肦と趙が平邑で戦い、斉が趙将・韓挙を捕らえて平邑を取りました(東周威烈王十六年・前410年および東周顕王四十四年・前325年に再述します)
 
[] 『史記・魏世家』によると、魏文侯が公子撃(文侯の子)に繁龐を包囲させ、その民を遷しました(民を駆逐して土地を奪いました)
 
資治通鑑外紀』はここで魏の李悝(または「李克」。但し、「李悝」と「李克」は別人という説もありますによる「尽地力の教」を紹介しています。『漢書・食貨志上(巻二十四上)』に詳しく書かれています。
周王室が衰退して戦国時代になると、詐力(詐術や武力)が尊重されて仁誼(仁義)が軽視され、富有が優先されて礼讓は後回しにされました。
そのような状況下で、李悝が魏文侯のために「地力を尽くす教え(尽地力之教)」を作りました。
李悝の考えはこうです「百平方里の土地があれば提封(国土。領地)は九万頃となります。そのうち、山沢や邑居(人が住む場所)が三分の一を占めるとしても、六百万畝の田が残ります。農耕に励んで勤勉に働けば一畝の生産量は三升(三斗)増えますが、勤勉に働かなければ三升減ります。よって百平方里における収穫の増減は粟穀物百八十万石に及びます。
また、もしも糴穀物が高すぎれば民(士工商)を苦しめ、安すぎれば農(農民)を苦しめることになります。民が苦しめば離散し、農が苦しめば国が貧しくなります。高すぎても安すぎてもどちらかを苦しめることになります。国を善く治める者は、民を苦しめることなく、しかも農に勤労を勧められるものです。
今、一夫(一人の成人男性)が五人で生活しており、百畆の地を管理しているとします。一畝あたりの歳收(一年の収穫)が一石半なら、百畆で粟(食糧)百五十石になります。十一の税(十分の一の税)である十五石を除いたら百三十五石が余ります。一人が毎月一石半を食べるとしたら、五人が一年で必要とする量は粟九十石なので、四十五石が残ります。石三十が銭千三百五十に換算されるとして、社閭(地域)で行う嘗新・春秋の祠(祭祀)で銭三百が必要なので、千五十しか残りません。衣服のために一人あたり銭三百が必要になるとしたら、五人で年間千五百を費やすので、銭四百五十穀物十石分)が不足します。不幸にも疾病や死喪に遭った時の費用や賦斂(賦税)の額は含んでいません。これが農夫が常に困窮し、農耕に励む心を失わせている原因であり、その結果、糴の値をつりあげることになっています。
糴の値を安定させることができる者は、一年の上中下孰(三段階の収穫の様子)をよく観察しているものです。上孰の時は収穫が通常の四倍(通常は百五十石。四倍は六百石)になるので、(二百石を使ったとしても)四百石が残ります。中孰なら収穫が三倍(四百五十石)になり、(百五十石を使ったとしても)三百石が残ります。下孰なら二倍なので(二百石を使っても)百石が残ります。逆に小飢なら収穫は百石(通常の三分の二)に、中飢なら七十石(通常の約半分)に、大飢なら三十石(通常の五分の一)になります。
そこで、大孰なら残った糴の三を納めさせて一を留めます(四百石のうち三百石を国に納めさせ、百石は農民のものとします)。中孰なら二を納めさせて一を留めます(国に納めるのは二百石です)。下孰なら半分(五十石)を納めさせます。こうすれば民を満足させ、価格を安定させることができます。小飢になったら小孰で集めた糴を出し、中飢なら中孰で集めた糴を出し、大飢なら大孰で集めた糴を出します。こうすれば飢饉や水害、旱害に遭っても糴の値が高くならず、民が離散することもありません。余りを取って不足を補うのです。」
文侯は李悝の進言を実行しました。
政府が余剰食糧を蓄えて収穫の多寡にかかわらず市場を安定させるこの方法を「平糴法」といいます。
平糴法の実施によって、貧困に苦しむ農民の生活が向上し、生産量も増加しました。
魏国は戦国時代初期に最も大きな発展を遂げます。
 
韓非子・内儲説上』に李悝の故事があります。
李悝は魏文侯に仕え、上地の守(郡の長官)を勤めました。李悝は民の射術の腕を上げさせるため、こう宣言しました「今後、狐疑(疑惑。疑問)を訴訟する者がいたら、矢を射るように命じる。的に中ったら勝訴とし、外れたら敗訴とする。」
人々はすぐに射術の練習を始め、日夜休みませんでした。
後に上地の人は秦人と戦って大勝しました。
 
 
 
翌年は東周威烈王十五年です。
 
威烈王十五年
411年 庚午
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、この年、斉が魯の一城を取りました。『六国年表』は「魯を攻めて都(邑)を取る」と書いています。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が平邑に築城しました(東周威烈王八年・前418年参照)
資治通鑑外紀』は「趙が平邑を取って築城した」と書いています。『資治通鑑外紀』では前年に斉が趙から平邑を奪ったとしているので、斉から奪い返して築城したことになります。
 
 
 
翌年に続きます。