戦国時代 魏文侯

資治通鑑外紀』が『呂氏春秋』等から魏文侯に関する故事を紹介しています。
本編では書かなかったので、ここでまとめて列記します。
 
まずは『呂氏春秋・開春論・期賢』からです。
魏文侯が段干木の閭(小巷)の前を通った時、軾礼(車上の礼)を行いました。
御者が「主公はなぜ軾を行うのですか?」と聞いたため、文侯が言いました「ここは段干木の閭であろう。段干木は賢者だ。軾を行うのは当然ではないか。それに、段干木は徳を重視しており、たとえ寡人の地位と換わることができたとしても(国君になれたとしても)、徳を棄てることはないと聞いた。そのような人物に対して驕慢であってはならない。段干木の光(栄光)は徳にあるが、寡人の光は地(領地。国君の地位)にあるに過ぎない。段干木の富は義にあるが、寡人の富は財にあるだけだ。」
御者が言いました「それなら国相として招くべきではありませんか。」
文侯は同意して段干木を国相として招こうとしました。しかし段干木は辞退します。文侯は百万銭の禄を準備して頻繁に段干木の家を尋ねるようになりました。
これを聞いた国人が喜んでこう歌いました「我が君は正を愛し、段干木が敬われた。我が君は忠を愛し、段干木が栄誉をうけた(吾君好正,段干木之敬。吾君好忠,段干木之隆)。」
暫くして秦が魏を攻撃しようとしましたが、司馬唐(恐らく司馬は官名)が秦君を諫めて言いました「段干木は賢者です。魏はそれを礼遇しており、天下で知らない者はいません。兵を加えるべきではありません。」
秦君は納得して出兵を中止しました。
 
資治通鑑外紀』によると、段干木は子夏の弟子です。
 
呂氏春秋・慎大覧・下賢』にも段干木の話があります。
魏文侯が段干木に会った時は、立ち続けて疲れても休むことがなく、姿勢も崩しませんでした。
しかし朝廷に帰って翟黄に会うと、あぐらをかいて話をしました。翟黄は不快になります。
すると文侯がこう言いました「段干木は官を与えても辞退し、禄を与えても受け取らなかった。しかし汝は官を欲して相の位に就き、禄を欲して上卿となった。わしから実(官爵・俸禄)を得ていながら、わしに礼を求めるのは、無理なことだと思わないか。」
 
 
『説苑・君道(巻一)』からです。
ある時、師経(楽師。経は名)が琴を弾くと、魏文侯が立ち上がって舞いを始め、曲に合わせてこう言いました「わしの言に逆らう者がいてはならない(使我言而無見違)。」
すると師経は琴を抱えて立ち上がり、文侯に体当たりしようとしました。しかし楽師は盲目なため、文侯にはぶつからず、文侯の旒(冠の装飾)を壊します。
文侯が左右の近臣に問いました「人臣でありながら敢えてその君にぶつかろうとするとは、どのような罪に値するか。」
左右の者が言いました「その罪は烹(煮殺す刑)に値します。」
近臣が師経を連れて堂を降りようとすると、師経が言いました「一言残してから死ぬことをお許しください。」
文侯は「よろしい(可)」と言います。
そこで師経が言いました「昔、堯・舜が人の君となった時は、自分の言葉に反対する意見が出ないことを恐れたものです。逆に桀・紂が人の君となった時は、自分の言葉に反対する意見が出ることを恐れたものです。臣は桀・紂にぶつかろうとしたのです。我が君にぶつかろうとしたのではありません。」
文侯が言いました「彼を放せ。寡人の過ちだ。その琴を城門に掲げて寡人の過ちの符(証拠)とせよ。旒は直さず寡人の戒めとしよう。」
 
 
次は『新序・雑事五』から李克の故事です。
魏文侯が李克に問いました「呉が亡んだのは何故だ?」
李克が言いました「何回も戦って全てに勝ったからです(数戦数勝)。」
文侯が問いました「何回戦っても全て勝つのは国の福だ。それなのに亡んだのは何故だ?」
李克が言いました「何回も戦ったら民が疲弊し、全勝したら国君が驕ります。驕った国君が疲弊した民を治めるのですから、亡びないはずがありません。」
 
淮南子・道応訓』にも似た話が載っています。前半は同じですが、後半の李克の言葉が少し詳しくなっています。
李克が言いました「何回も戦ったら民が疲弊し、全勝したら国君が驕ります。驕った国君が疲弊した民を治めているのに国が亡びなかったというのは、天下でも滅多に見られない珍しいことです。驕ったら恣(放縦)になり、恣は物欲を極めさせます。疲弊したら怨みが生まれ、怨みは慮(苦しみから逃れるための策謀)を極めさせます。上下とも極まったのですから、呉の滅亡は遅すぎたくらいです。だから夫差は干遂(恐らく地名)自刎することになったのです。」
 
 
『韓詩外伝・巻八』から李克の故事です。
魏文侯が李克に問いました「人から憎まれるものはあるか?」
李克が言いました「あります。貴者は賎者に嫌われ、富者は貧者に嫌われ、智者は愚者に嫌われるものです。」
文侯が問いました「その三者(貴・富・智)をもっていて、しかも人から憎まれないということができるか?」
李克が言いました「できます。貴者でありながら賎者にへりくだれば、衆人から憎まれることがありません。富を得ても貧者に分け与えれば、窮士に憎まれることがありません。智慧があったら愚者に教えれば、童蒙(愚昧)の者に憎まれることがありません。」
文侯が言いました「素晴らしい言葉だ。堯舜のような聖人でも欠点はあった。寡人は聡明ではないから、なおさらこの言葉を守ることにしよう。」
 
 
淮南子・人間訓』から田子方の故事です。
田子方が道を歩いていると、老馬を見つけました。田子方が嘆息して馬の御者に問いました「これは何の馬だ?」
御者が言いました「これは以前、公家で飼われていた馬です。既に年をとり、疲弊したので役に立ちません。だから売りに出すのです。」
田子方は「若い時はその力を貪り取り、年老いたらその身を棄てるとは、仁者がすることではない」と言うと、束帛を御者に渡して馬を買い取りました。
これを聞いた疲武(罷武。老齢の士)が田子方に帰心しました。
 
資治通鑑外紀』によると、田子方は子夏の弟子です。
 
『説苑・復恩(巻六)』からです。
魏文侯と田子方が話をした時、二人の僮子童子が文侯に従っていました。一人は青い服、一人は白い服を着ています。
田子方が「この二人は主公の寵子(息子)ですか」と問うと、文侯が言いました「違う。彼等の父は戦で死んだ。幼孤(孤児)になったから寡人が養っているのだ。」
田子方が言いました「臣は主公の賊心(人を害する心)が既に充分満足できたと思っていましたが、更に酷くなっていると知りました。主公はこの二人の子を寵愛していますが、二人が成長してから誰の父を殺させるつもりですか。」
文侯は二人の孤児を憐れみ、「寡人は教えを受け取った」と言って反省しました。この後、兵を用いることがなくなったといいます。
 
 
『新序・雑事二』からです。
魏文侯が外遊した時、道で会った男が裘(毛皮)を裏に着て芻(芝草。動物の餌にする草)を背負っていました。
文侯が「なぜ裘を裏に着て芻を背負っているのだ」と聞くと、男は「臣はこの毛が好きなのです」と答えました。毛を失わないために裏表を逆に着ているため、本来内側になる皮の部分が芻にあたって擦れています。
文侯が言いました「皮も摩耗したらなくなるということを知らなかったら、毛があるべき場所もなくなってしまうではないか。」
 
翌年、東陽という邑が例年の十倍に値する銭布を納めました。大夫が祝賀すると、文侯が言いました「これは祝賀することではない。以前、路で会った者が裘を裏に着て芻を背負っていた(反裘負芻)のと同じだ。その毛を愛していても、皮がなくなることを理解していなければ、結局毛を残すこともできなくなる。わしの田(土地)が広くなったわけではない。士民が増えたわけでもない。それなのに銭が十倍になったのは、士大夫(士民の誤り?)から徴収したからだ。下が安定しなければ上が居続けることはできないという。だから祝賀するべきではないのだ。」
 
淮南子・人間訓』に同じような話があります。
解扁が東封(東部)の統治をまかされました。その年の収入が三倍になります。
有司(官員)が解扁を褒賞するように進言すると、文侯が問いました「我が領土が広くなったわけでもなく、民が増えたわけでもないのに、なぜ収入が三倍になったのだ?」
官員が言いました「民に命じて冬の間に樹木を伐って蓄えさせ、春になったら黄河に浮かべて売り出しているのです。」
文侯が言いました「民の行事というのは、春は耕、夏は耘(草を除いて農地を整えること)、秋は収斂(収穫)と決まっており、冬だけは何もしないものだ。それなのに林を伐採して樹木を蓄え、それを運んで黄河に浮かべさせたら、休む時がないではないか。民を疲労させるようなら三倍の収入があったとしても役に立たない。」