戦国時代25 東周安王(一) 刺客・聶政 前401~396年

今回から東周安王の時代です。在位年数は二十六年にわたりますが、あまり記述がありません。
 
安王
威烈王が死に、子の安王・驕が立ちました。
 
安王元年
401年 庚辰
 
[] 秦が魏を攻めて陽孤(または「陽狐」)に至りました。
 
資治通鑑』胡三省注が秦国について注釈しています(胡三省注は各国が『資治通鑑』に最初に登場する時に簡単な紹介を載せています)。秦は西周孝王が非子に邑を与えたことから始まります。その後、秦襄公が周の故地を取り、秦穆公が西戎で覇を称えて強大になりました。
この年は秦簡公十四年にあたり、非子から簡公は二十八世になります。
 
 
 
翌年は東周安王二年です。紀元前四世紀最初の年です。
紀元前四世紀は、商鞅の変法改革を実行した秦が飛躍的に成長し、次世紀における天下統一の基礎を築いていきます。
 
安王二年
400年(辛巳)
 
[] 魏、韓、趙が楚を攻めて桑丘に至りました。
 
[] 鄭が韓の陽翟を包囲しました。
 
資治通鑑』胡三省注が鄭について注釈しています。西周宣王が弟の友を鄭に封じました。その後、幽王が無道だったため、友は国人を率いて虢と鄶の地に遷りました。
この年は鄭繻公の二十三年で、桓公から繻公までは二十二世になります。
 
[] 韓景侯が在位九年で死に、子の烈侯・取が立ちました。
 
[] 趙烈侯が在位九年で死に、国人は弟の武侯を立てました。武侯の名は残されていません。
これは『史記・趙世家』『資治通鑑』の記述です。『竹書紀年』には趙武侯が存在しません(年表参照)
 
[] 秦簡公が在位十五年で死に、子の恵公が立ちました。恵公の名は残されていません。翌年再述します。
 
[] 『史記・魏世家』によると、この年、子擊(文侯の太子)が子罃(後の恵王)を産みました。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、この年(斉康公五年)、田侯・午(田午。田斉太公・和の子。後の田斉桓公が生まれました。
 
 
 
翌年は東周安王三年です。
 
周安王三年
399年 壬午
 
[] 周の王子・定が晋に奔りました。
これは『史記・六国年表』と『資治通鑑』の記述です。具体的に何が起きたのかはわかりません。
晋というのは恐らく魏国を指します。
 
[] 虢山が崩れ、黄河が塞がりました。
 
[] 『史記・六国年表』によると、この年、楚が楡関を鄭に返しました。
 
[] 『史記・秦本紀』によると、秦簡公が在位十六年で死に、子の恵公が立ちました。
しかし『史記・六国年表』は簡公の在位年数を十五年としており、『資治通鑑』もそれに従っています(前年参照)
また、『古本竹書紀年』は「(秦)簡公が九年で死に(東周威烈王二十年・前406年)、その後は敬公が立ち、敬公が在位十二年で死んでから恵公が立った(東周安王八年・前394年)」としており、『史記』と大きく異なります。
 
 
 
翌年は東周安王四年です。
 
安王四年
398年 癸未
 
[] 楚が鄭を包囲しました。
鄭人がその相・駟子陽を殺しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記・鄭世家』は「鄭君がその相・子陽を殺した」としており、『史記・楚世家』は「楚が周を討った。鄭が子陽を殺した」と書いています。『楚世家』の「周」は「鄭」の誤りかもしれません。
 
淮南子・汜論訓』に駟子陽に関する記述があります。
鄭の子陽は剛毅で刑罰を好み、人を捕えたら決して赦しませんでした。ある日、舎人(門客)の一人が弓を折ってしまいました。舎人はその罪のよって誅殺されることを恐れます。そこで猘犬(狂犬)が騒ぎを起こした隙に子陽を殺してしまいました。
 
淮南子』の内容を見ると、駟子陽は鄭君ではなく鄭人に殺されたようですが、東周安王六年396年)には駟子陽の党が鄭君(繻公)を殺害します。
楚の攻撃と関係があるかどうかははっきりしません。
 
資治通鑑』胡三省注に駟子陽について書かれています。かつて鄭穆公の子が名を騑、字を子駟といいました。その子孫が駟氏を名乗ります。子陽は子駟の子孫にあたります。
 
 
 
翌年は東周安王五年です。
 
安王五年
397年 甲申
 
[] 日食がありました。
 
[] 三月、韓の相・俠累が盗(賊)に殺されました。
俠累は濮陽の厳仲子と対立していました。厳仲子は軹人(軹は邑の名。春秋時代は原邑とよばれていました)・聶政の武勇を聞き、黄金百溢を聶政の母に贈って長寿を祝います。聶政を使って怨みに報いることが目的です。
聶政は辞退してこう言いました「老母がいるので、政(私)の身を人に与えるわけにはいきません。」
しかし後に母が死んだため、厳仲子は聶政を使って俠累を刺殺させることにました。
 
その日、俠累は官府に座っていました。たくさんの兵が警護しています。
聶政は官府に入って階段を直進すると、俠累を刺し殺しました。その後、自分の顔の皮を剥ぎ、目をえぐり出し、腹を割いて息絶えます。
韓人はその死体を市に晒して身元を調べました。しかし知っている者が現れません。
噂を聞いた聶政の姉が市で泣いて言いました「これは軹の深井里に住んでいた聶政です。妾(私)がいるので、自ら刑を行って(顔の皮を剥いだり目をえぐって)誰にもわからないようにしたのです。妾には誅殺を恐れて賢弟の名を埋没させるようなことはできません!」
姉は聶政の横で自殺しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記・刺客列伝』と『戦国策・韓策二』は更に詳しく書いています。『刺客列伝』を中心に別の場所で紹介します。

資治通鑑』は東周烈王五年(前371年)にこの事件の続きを記述しています。『史記』『戦国策』と異なる解釈になっています(再述します)
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に魏文侯が死に、武侯が立ったとしています。魏武侯元年が趙烈侯十四年(翌年。東周安王六年・前396年)にあたるという記述があります。
魏文侯の死に関しては東周安王十五年(前387年)に再述します。
 
 
翌年は東周安恩六年です。
 
安王六年
396年 乙酉
 
[] 鄭の駟子陽(東周安王四年・398年参照)の党が繻公(または「繚公」)を殺しました。『史記・鄭世家』によると、繻公の在位年数は二十七年です。
繻公の弟の乙が立てられました。これを康公といいます。康公は鄭国最後の国君となります。
 
[] 宋悼公が死に、子の休公・田が立ちました。『史記・宋微子世家』によると、悼公の在位年数は八年です。
 
資治通鑑』胡三省注が宋国について解説しています。西周武王が微子・啓(商朝最後の王・紂の兄)を宋に封じました。微子から二十七世で悼公に至りました。
 
 
 
次回に続きます。