戦国時代29 東周安王(五) 姜斉と晋の滅亡 前379~376年

今回で東周安王の時代が終わります。
 
安王二十三年
379年 壬寅
 
[] 趙が衛を攻撃しましたが、勝てませんでした。
これは『資治通鑑』『史記・六国年表』に記述があります。『史記・田敬仲完世家』には「(田斉が)衛を救う」とあります。
しかし『史記・趙世家』はこの戦いに触れず、魏の黄城を攻略したと書いています。
 
資治通鑑』胡三省注が衛について解説しています。
西周成王が康叔を衛に封じました。黄河と淇水の間で、殷墟(殷の故地)です。懿公の代になって狄に滅ぼされたため、黄河を東に渡りました。その後、文公が楚丘に住み、更に濮陽(帝丘)に遷りました。この年は衛慎公・の三十五年にあたり、康叔から慎公は三十二世になります。
 
[] 斉康公は田氏によって海上に遷されていました。
この年、康公が在位二十六年で死にました。子がいなかったため、太公・呂尚から始まった姜氏の斉(姜斉)は完全に滅び、田氏が斉全土を支配することになりました。
 
この年、斉桓公も在位六年で死に、子の威王・因斉が立ちました。後に王を称すため「威王」としていますが、この時はまだ斉侯です(威王が即位した年も諸説があります。年表参照)
 
[] 秦が初めて蒲、藍田、善明氏を県にしました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年、於越(越)が呉に遷りました。越王・翳三十三年にあたります。
 
 
 
翌年は東周安王二十四年です。
 
安王二十四年
378年 癸卯
 
[] 狄(翟)が澮で魏軍を破りました。
 
[] 魏、韓、趙が斉を攻めて霊丘に至りました。
史記・魏世家』には呉起に斉を討伐させて霊丘に至るとありますが、当時、呉起は既に死んでいるはずです。
 
『田敬仲完世家』には三晋が斉の喪に乗じて霊丘を攻めたとあります。
『趙世家』には趙が斉を攻めた後、斉が燕を攻めたため、趙が燕を救ったと書かれています。
 
[] 晋孝公が死にました。『史記・晋世家』によると在位年数は十七年ですが、『六国年表』では十五年になります。
子の靖公・俱酒(または「倶」)が立ちました。
新君の諡号は、『資治通鑑』では靖公ですが、『晋世家』では静公と書かれています。晋国最後の国君となります。
 
 
 
翌年は東周安王二十五年です。
 
安王二十五年
377年 甲辰
 
[] 蜀が楚を攻めて茲方を取りました。
史記・楚世家』によると、楚は扞関を修築して蜀に対する備えにしました。
 
[] 『資治通鑑』が衛慎公と孔伋に関する故事を書いています。
子思(孔伋)が衛侯(慎公)に苟変という人物を推薦して言いました「彼の才は五百乗の軍を率いることができます。」
古代は兵車一乗に甲士三人と歩卒七十二人がついたので、五百乗で兵三万七千五百人になります。
衛公が言いました「わしも彼が将になれると知っている。しかし変(苟変)はかつて官吏を勤めて民の賦税を徴収した時、民の鶏子(卵)を二つ取って食べたことがあった。だから用いないのだ。」
子思が言いました「聖人が人を選んで官を任命するのは、工匠が木を使うようなものです。その長所をとって短所を棄てなければなりません。だから抱きかかえるほど立派な杞梓(木材)に数尺の朽(腐った所)があったとしても、良工はその杞梓を棄てないのです。今、君(国君。あなた)は戦国の世に居り、爪牙の士が必要です。それなのに二つの卵によって干城(守城)の将を棄てています。このような事を隣国に知られてはなりません。」
衛公は再拝して「謹んで教えを受け入れます」と言いました。
 
ある時、衛侯が誤った計を発表しました。しかし群臣は誤りと知りながら口をそろえて賛同します。
子思が言いました「私が見たところ、衛は『国君は国君らしくなく、臣下は臣下らしくない(君不君,臣不臣)』という状況だ。」
公丘懿子(公丘が姓。懿子は諡号が「それはなぜですか?」と問うと、子思はこう言いました「人主が自分で自分を善だと思っていたら、衆謀(大勢の意見)を進めることができなくなる。たとえ正しい行いをした時でも、自分を過信して衆謀を受け付けないのは間違いなのに、今は誤った事をしながらその悪を助長させている。これでいいはずがない。事の是非を考えずに人からの称賛を喜ぶのは闇(暗昏)の最も甚だしい状態だ。理(道理)があるかどうかを考えることなく阿諛追従するのは諂(媚び)の最も甚だしい状態だ。国君が闇で臣下が諂であれば、たとえ百姓の上にいても民が支持することはない。これを改めなかったら国が国の態を成さなくなる。」
 
子思が衛侯に言いました「君(国君。あなた)の国は日々劣っています。」
衛公がその理由を聞くと、子思が言いました「君は自分が発する言葉を正しいと信じており、卿大夫はその非を正そうとしません。また、卿大夫も自分が発する言葉を正しいと信じており、士や庶人がその非を正そうとしません。君臣ともに自分を賢才だと信じており、群下も声をそろえて賢才を称えています。上の者を賢才と称えてその言葉に順じる者には福があり、上の者の非を正して逆らう者には禍があります。このような状況でどうして善安が生まれるでしょう。『詩(小雅・正月)』にはこうあります『皆が自分を聖人と呼ぶが、誰も烏の雄雌すらわからない(具曰予聖,誰知烏之雌雄)。』これは君(あなた)の君臣の様子ではありませんか。」
 
[] 魯穆公が死に、子の共公・奮が立ちました。
史記・魯周公世家』によると、穆公の在位年数は三十三年です。『史記・六国年表』では三十一年になります。
 
[] 韓文侯が在位十年で死に、子の哀侯が立ちました。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が房子で中山と戦いました。
中山は魏に滅ぼされましたが(東周威烈王十八年・前408)、この頃までに復国したようです。
 
 
翌年は東周安王二十六年です。
 
安王二十六年
376年 乙巳
 
[] 東周安王が死に、子の烈王・喜が立ちました。
『今本竹書紀年』は安王の在位年数を「三十六年」としていますが、「二十六年」の誤りです。
 
[] 魏、韓、趙が共に晋靖公を廃して家人(庶人)とし、晋の公族が領有していた地を分割しました。
靖公の在位年数は二年になります。唐叔・虞から始まった晋の祭祀が途絶えて滅亡しました。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が中山を攻めて中人(地名)で戦いました。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に「魏が洛陽、安邑、王垣に築城した」と書いていますが、『史記・魏世家』は東周安王十七年(前385年)、『古本竹書紀年』は東周安王十六年(前386年)の事としています。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、この年(魏武侯二十一年)、韓が鄭を滅ぼして韓哀侯が鄭に入りました。
史記』『資治通鑑』は鄭滅亡を翌年の事としています。
また、『史記』『資治通鑑』および『今本竹書紀年』では、本年は魏武侯十一年になります。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)から越の内乱です。
七月、於越(越。の太子・諸咎が越王・翳(於子・翳)を弑殺しました。翳の在位年数は三十六年です。
十月、越人が諸咎越滑を殺し、呉の人々が孚錯枝を国君に立てました。
この部分の原文は「粤殺諸咎粤滑呉人立孚錯枝為君」です。「粤殺諸咎粤滑」で区切ると諸咎粤滑が人名(恐らく四字で名と字)になりますが、「粤殺諸咎」で区切ると「粤が諸咎を殺した。粤・滑・呉の人は孚錯枝を国君に立てた」と読めます。
 
 
 
次回から東周烈王の時代です。