戦国時代30 東周烈王(一) 范台の宴 前375~374年

今回から東周烈王の時代です。
 
烈王
安王の子で名は喜です。
 
烈王元年
375年 丙午
 
[] 日食がありました。
 
[二] 韓が鄭を滅ぼしました(『古本竹書紀年』は前年、『今本竹書紀年』は東周安王二十一年・前381年に書いています)
史記・鄭世家』によると、鄭康公の在位年数は二十一年です。
 
かつて韓の都は平陽にありましたが、陽翟に遷りました。今回、鄭を滅ぼした韓は新鄭を都としました。
鄭の初代君主・桓公は鄭に封じられましたが、虢と鄶を滅ぼして溱水と洧水の間に国を移したため、その地を新鄭と名付けました。その新鄭が韓都になったため、後に王を名乗った韓の国君は鄭王とよばれることもあります。
 
[三] 趙敬侯が在位十二年で死に、子の成侯・種が立ちました。
 
[四] 前年、越で内乱が発生しました。続きを『竹書紀年』(今本・古本)からです。
於越(越。粤)の大夫・寺区が越の乱を平定し、初無余を立てました。これを莽安といいます。
『今本』では「初無余」ですが、『古本』では「無余之」と書かれています。
史記・越世家』には「越王・翳が死に、子の王之侯が立つ」とあります。「王之侯」が「初無余」にあたります。
 
[五] 『今本竹書紀年』は本年に「魏の公子・緩が邯鄲に入って難を成す(謀反する)」と書いています。これに関しては東周烈王七年(前369年)に述べます。『今本竹書紀年』がなぜ本年にこの出来事を書いたのかはわかりません。
 
[六] 『古本竹書紀年』は本年に韓哀公が殺されたとしています。『今本竹書紀年』は翌年です。
史記』『資治通鑑』は東周烈侯五年(前371年)に書いているので、そこで再述します。
 
[七] 『古本竹書紀年』にはこの年(田斉の田侯・剡十年)、斉の田午がその君(田侯・剡。剡に関しては東周安王十七年・前385年参照)と孺子・喜を殺して公になった(即位した)とあります。
即位した田午は桓公といいます。
但し、『史記』『資治通鑑』では東周安王十七年(前385年)に田斉の太公(田和)が死に、子の桓公・午が即位したとしており、『古本竹書紀年』の記述と異なります。
 
 
 
翌年は東周烈王二年です。
 
烈王二年
374年 丁未
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙の公子・勝(趙武侯の子。東周安王十六年・前386年参照)が前年即位した成侯と国君の位を争いました。
 
[] 『史記・魏世家』によると、秦献公が櫟陽に県を置きました。
 
[] 『史記・周本紀』によると、この年、周の太史・儋(一説では太史・儋は老子と同一人物ともいわれています)が秦献公に会って言いました「かつて周と秦国は合していましたが後に別れました。別れて五百載(五百年)で再び合します。合して十七歳で覇王となる者が現れます。」
『秦本紀』を見ると、太史・儋の言葉はこうなっています「周はかつて秦国と合していましたが別れました。別れて五百歳で再び合し、合して七十七歳で霸王が生まれます。」
『秦本紀』の「七十七歳」というのは恐らく「十七歳」の誤りです。
 
この予言にはいくつかの解釈があります。以下、『史記・周本紀』の注釈から紹介します(予言の類は後世に作られたものが多く、どのような解釈もできるので、詳しい検証はせず諸説を列記します)
まずは「秦と周が別れて再び一つになる」という内容に対する解釈です。
『集解』応劭の説「西周孝王が伯翳の子孫を侯伯に封じてから秦と周は別れた(秦が附庸国から諸侯になりました)。そこから五百載(五百年)が経ち、秦昭王の時代に西周(東周時代の西周国です)の君臣が秦に帰順してその邑三十六城を献上した。こうして秦と周が再び合した。」
韋昭の説「周が始めて秦を別国(諸侯)として封じ、秦仲と呼んだ。それから五百歳が経ち、秦仲から秦孝公の代になって秦は強大になった。東周顕王が秦孝公を伯に任命したため、秦と周が親合した。」
『索隠』の説「周が非子を附庸に封じた。この時、秦を邑としたので、秦嬴と号した。これが秦と周の一度目の『合』である(秦は周の附庸国になりました)。その後、秦襄公が諸侯に列して周と別れた。秦が諸侯になってから、秦昭王五十二年に西周の君臣がその邑三十六城を秦に献上するまで、五百十六年が経過した。これが二度目の『合』である。『五百』というのはおおよその数である。」
 
次は「秦と周が一つになってから十七年後に覇王が現れる」という内容に対する解釈です。
『集解』徐広の説「秦と周が再び合してから(いつの時点を『合』としているかはわかりません)十七年後に秦昭王が即位した。」
韋昭の説「武王、昭王とも伯(覇者)となり、始皇始皇帝によって天下の王となった始皇帝が天下を統一した)。」
『索隠』の説「霸王とは始皇始皇帝のことである。周がその邑を秦に献上した後、始皇が即位したが、政治は太后と嫪によって行われた。始皇が即位して九年後に嫪は誅殺された。(嫪が殺されて始皇帝が政治を行うようになった年は、周が秦に帰順してから)ちょうど十七年にあたる。」
 
最後は『正義』から予言全体の解釈です。「かつて周が秦国と合していたというのは、周と秦はどちらも黄帝の子孫であり、非子に至るまで封侯されていなかったことを指す。別れたというのは、非子の末年に周が非子を附庸に封じ、秦を邑とさせたことだ。その後二十九君で秦孝公に至る。孝公二年が五百載にあたり、東周顕王が文王と武王の胙(祭肉)を秦孝公に下賜した。これによって秦と周は親和したので、『再び合す』という。『合して十七歳で霸王となる者が出る』いうのは、秦孝公三年から十九年までの十七年を指し、周顕王が胙を下賜して秦孝公が霸者になった。また、孝公の子・恵王が王を称したので、これが『王者の出現』にあたる。五百載というのは、非子が秦侯を産んでから二十八君を経て孝公二年に至るまでに合計四百八十六年あり、そこに非子が秦を邑にしてからの十四年(非子が秦を邑にしてから秦侯を生むまでの十四年)を加えた年数で、ちょうど五百年になる。」
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年、秦の胡蘇が韓を攻めました。しかし韓の将・韓襄が胡蘇を酸水で破りました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、魏が范台で宴を開いて諸侯をもてなしました。
『戦国策・魏策二』に范台の宴について書かれていますが、宴を開いたのは「梁主・魏嬰(魏罃。恵王)となっています(本年はまだ魏武侯の時代です)
時代が異なりますが、『戦国策』の故事を紹介します。
梁王(魏王)・魏嬰が范台に諸侯を集めて宴を開きました。
酒がまわってから、魏嬰が觴(杯)を持って魯の国君に酒を進めました。
すると魯君は立ち上がって席を離れ、顔色を厳しくしてこう言いました「昔、帝(帝舜。もしくは夏王・禹)の娘が儀狄に酒を作らせ(原文「帝女令儀狄作酒」。「帝女儀狄作酒」とすることもありその場合は「帝の娘・儀狄が酒を作った」となります。「帝」が誰を指すのかははっきりしません)、その酒が美味だったため、禹に献上しました。酒を飲んだ禹も甘(美味)だと思いましたが、儀狄を遠ざけ、酒を絶ち、こう言いました『後世、必ず酒によって国を亡ぼす者が現れるだろう。』
桓公がある晩、空腹で眠れなかったため、易牙が煎敖燔炙(肉や魚を焼いた料理)を準備し、五味を調えて献上しました。満腹になった桓公は熟睡して朝になっても目が覚めませんでした。しかし桓公はこう言いました『後世、必ず味(美味)によって国を亡ぼす者が現れるだろう。』
晋文公は南之威(美女)を得たため、三日の間、朝政を聴きませんでした。しかし後に南之威を遠ざけてこう言いました『後世、必ず色(女色)によって国を亡ぼす者が現れるだろう。』
楚王(誰かは不明です)が強台に登って崩山を眺めました。左には江(長江)、右には湖(大きな湖泊)があり、山水に臨んで徘徊し、楽しむ様子は死も忘れるほどでした。しかし後に二度と強台に登らないことを誓い、こう言いました『後世、必ず高台や陂池(山水)によって国を亡ぼす者が現れるだろう。』
今、主君(魏君)の尊(杯)は儀狄の酒で満たされており、主君の味は易牙の調(料理)で満たされており、左に侍る白台と右に侍る閭須(どちらも美女の名)には南威(南之威)の美があり、前に夾林、後ろに藍台がある范台は強台の楽(楽しみ)に匹敵します。このうち一つでもあれば充分国を亡ぼすことができるのに、今、主君は四者とも兼ね備えています。戒めなければなりません。」
梁王は魯君の諫言を褒め称え続けました。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に韓哀公が殺されたとしています。『古本竹書紀年』は前年に書いています。
史記』『資治通鑑』は東周烈侯五年(前371年)に書いているので、そこで再述します。
 
 
 
次回に続きます。