第二十四回 召陵で楚大夫を礼款し、葵邱で周天子を奉戴する(二)

*今回は『東周列国志』第二十四回その二です。
 
翌年春、桓公が先に陳敬仲を首止に派遣し、行宮(臨時の宮殿)を築いて世子の到着を待ちました。
夏五月、斉、宋、魯、陳、衛、鄭、許、曹八国の諸侯が首止に集まります。世子・鄭も行宮に入りました。
桓公が諸侯を率いて起居(帝王に対して様子を伺うこと)に行くと、子鄭は再三辞退して賓主の礼(通常の賓客と主人の礼)を用いるように求めます。桓公が言いました「小白等は藩室(藩屏の諸侯の立場)にいるので、世子に会うのは王に会うのと同じです。稽首しないわけにはいきません。」
子鄭は感謝して「諸国君はとりあえず休憩してください」と言いました。
その夜、子鄭が人を送って桓公を行宮に招きました。太叔・帯が位を狙っている事を訴えるためです。
桓公が言いました「小白が諸臣と共に盟を立て、共に世子を奉戴します。世子が憂いることはありません。」
子鄭の感謝は尽きず、行宮に滞在して盟の日を待ちました。
諸侯にも帰国する者はなく、それぞれの館舍に泊まり、順番に酒食を献上しました。輿従(御者や従者)も労われます。
子鄭は久しく諸国を煩わせることを心配し、別れを告げて京師に帰ることにしました。
すると桓公が言いました「世子とここに留まりたいと願うのは、天王に我々が世子を愛戴していることを知ってほしいからです。互いに離れようとしないのは、邪謀を塞ぐためです。今は夏月大暑の時なので、少し待って秋の涼しい季節になってから駕を朝廷にお送りします。」
桓公は秋八月吉日に盟を結ぶ約束をしました。
 
周恵王は世子・鄭が久しく戻らないため、斉侯が推戴していると気づき、心中不快になりました。しかも恵后(王后)と叔帯が朝から夜まで恵王の傍におり、恵王に廃立を促しています。
太宰の周公・孔が恵王に謁見した時、恵王が言いました「斉侯は楚を討伐したという名分があるが、実際には楚に兵を加えることができない。今、楚人は貢献して順に従い、昔とは大きく変わった。楚が斉より劣るとも限らない。斉が諸侯を率いて世子を留めているのも何を意図しているのか分からず、朕をないがしろにしている。太宰には一通の密信を鄭伯に届けてほしい。鄭伯に斉を棄てて楚に従わせることで、孤の意思を楚君に伝え、周に仕えて力を尽くさせ、朕の意思に背かせないのが目的だ。」
宰孔(周公・孔)が言いました「楚が順に従うようになったのは斉の功績です。王はなぜ久しく親密だった伯舅を棄てて最近帰附したばかりの蛮夷に近づくのですか?」
恵王が言いました「鄭伯(あるいは「子鄭」の誤り)が離れず諸侯も解散しないのに、斉に異謀(二心)がないと保証できるか?朕の意志は決まった。太宰は辞退するな。」
宰孔は逆らえなくなりました。
恵王は璽書(印璽で封をした書)を一通準備し、固く封をして宰孔に渡しました。宰孔は中に何が書かれているか知らないまま、やむなく使者を昼夜兼行させて鄭伯に届けます。
 
首止に滞在中の鄭文公が開いて読むと、こう書かれていました「子鄭は父命に逆らって私党を作っているので、後嗣の重責に堪えることはできない。朕の意志は次子・帯にある。叔父が斉を棄てて楚に従い、共に少子を補佐できるのなら、朕は国政を委ねるつもりだ。」
鄭伯が喜んで言いました「我が先公の武公と荘公は代々王の卿士として諸侯の領袖となった。しかし計らずも途中で断絶し、小国になり下がってしまった。厲公にも王を国に入れた功労があったのに、朝廷に召されてはいない。今、王命がわしだけに臨んだのは、政事がわしに帰すからだ。諸大夫はわしを祝賀するべきだ。」
大夫・孔叔が諫めて言いました「斉は我が国のために楚に対して兵を用いました。今、逆に斉に背いて楚に仕えたら、徳に逆らうことになります。そもそも世子を翼戴(補佐・奉戴)するのは天下の大義です。主公だけが異なることをしてはなりません。」
鄭伯が言いました「霸者に従うことが王に従うことに勝るのか?しかも王の意志が世子にはないのに、孤が如何してそれを愛せるのだ。」
孔叔が言いました「周の主祀(祭祀を主宰する者)は嫡と長しかいません。幽王が伯服を愛し、桓王が子克を愛し、荘王が子頽を愛したのは、全て主公も御存知の事です。人心が帰附していなければ、たとえ身を滅ぼしても成功できません。主公は大義に従わず、五大夫の覆轍を踏もうとしていますが、必ず後悔します。」
大夫・申侯が孔叔に反対して言いました「天子が命じたことに逆らえる者はいません。斉の盟に従ったら王命を棄てることになります。我が国がここから去ったら諸侯が(世子の地位に対して)懐疑し、懐疑したら必ず分散します。そうなったら盟が成り立つとは限りません。また、世子には外党(諸侯の支持)がいますが、太叔にも内党がいます。二子の成敗は予測できません。今は先に帰国し、変化を見守るべきです。」
鄭文公は申侯の言に従い、国内の有事を理由に別れを告げず帰国しました。
 
桓公は鄭伯が逃げ帰ったと知って激怒し、世子を奉じて鄭を討伐しようとしました。しかし管仲が言いました「鄭と周は接しているので、恐らく周の誰かが誘ったのです。一人の去留が大計を妨害することはありません。それに盟の期日が迫っています。盟が成立してから考えるべきです。」
桓公は同意し、首止の旧壇で歃血して盟を結びました。斉、宋、魯、陳、衛、許、曹の七国です。世子鄭も盟に臨みましたが、歃血はしませんでした。諸侯が世子と同等ではないことを示すためです。
盟詞が宣言されました「我が同盟に参加した国は、王儲(王の後継者)を共翼し(共に補佐し)、王室を匡靖する(正して安定させる)。盟に背く者は、神明の殛(処刑)を受ける。」
儀式が終わってから、世子・鄭が階段を降り、揖謝して言いました「諸国君は先王の霊(福)のおかげで周室を忘れず、寡人と親しんだ。文武二王以下、皆、諸国君を嘉頼(称賛し頼りにすること)している。寡人が諸国君の賜(恩恵)を忘れることはない。」
諸侯も階段を降りて稽首しました。
翌日、世子・鄭が周に帰ろうとしました。各国がそれぞれ車徒を出して護衛します。斉桓公は衛侯と共に自ら衛境まで見送りました。世子・鄭は涙を流して別れを惜しみました。
 
 
鄭文公は諸侯が会盟して鄭を討伐しようとしていると聞き、結局、楚に従いませんでした。
しかし楚成王は鄭が首止の盟に参加しなかったと知り、喜んで言いました「鄭を得ることができる!」
成王は使者を派遣し、申侯を通じて鄭との修好を求めます。
申侯はかつて楚に仕えていました。口才があり、貪欲でしたが媚びを売るのがうまかったため、楚文王に寵信されていました。
しかし文王は自分の死後、申侯が後人に許容されないことを心配し、死に際に白璧を渡して他国に出奔させました。
申侯は鄭に奔って櫟にいた厲公に仕えます。厲公も楚文王と同じように申侯を寵信しました。厲公が復国してから、申侯は大夫に任命されます。
申侯は楚の群臣と旧交があったため、今回、申侯を通して斉に背いて楚に従わせる工作を進めることにしました。
申侯が秘かに鄭伯に言いました「楚でなければ斉に敵対できません。王命があるのならなおさら聞くべきです。そうでなければ、斉と楚の二国が鄭を仇とし、鄭は存続が難しくなります。」
鄭文公は申侯の言に惑わされ、申侯を秘かに楚に派遣して関係を結びました。
 
周恵王二十六年、斉桓公が同盟した諸侯を率いて鄭を攻め、新密を包囲しました。
楚に滞在中の申侯が楚成王に言いました「鄭が貴国の宇下(屋根の下)に入ることを望んだのは、楚だけが斉に対抗できるからです。王が鄭を救わなかったら臣は復命できません。」
楚王は群臣と策を練りました。令尹・子文が進言しました「召陵の役で許穆公が軍中で死に、斉がこれを憐れみました。許は斉に仕えて最も勤勉なので、王が許に兵を加えたら、諸侯は必ず許を援けます。そうすれば鄭の包囲は自ずと解けます。」
納得した楚王は自ら兵を率いて許城を包囲しました。
諸侯は鄭の包囲を解いて許に向かいます。それを見届けて楚も兵を退きました。
 
申侯が鄭に帰りました。鄭を守った功があると信じて意気揚々としており、加封を期待しました。しかし鄭伯は虎牢の役で申侯に過分の賞を与えたと思っているため、爵賞を加えませんでした。申侯は怨みの言を口にします。
 
翌年春、斉桓公が再び鄭を討伐しました。陳の大夫・轅濤塗は楚を討伐して帰った時から申侯と対立しているため、書信を鄭の孔叔に送ってこう伝えました「以前、申侯は国を挙げて斉に媚び、虎牢の賞を独占しました。今また国を挙げて楚に媚び、子(あなた)の国君を徳義に背かせ、自ら干戈を招き、禍を民社(民と社稷に及ぼしました。申侯を殺せば斉兵は戦わずに退くでしょう。」
 
孔叔はこの書を鄭文公に献上しました。
ちょうど鄭伯も孔叔の言を聞かずに盟から逃げて二回も斉兵の討伐を受けることになったため、心中、後悔しており、申侯に責任があると考えていました。
そこで申侯を呼び出し、譴責して言いました「汝は楚だけが斉に対抗できると言ったが、今、斉兵は繰り返し攻めて来るのに、楚の援軍はどこにいるというのだ!」
申侯が弁解しようとしましたが、鄭伯は武士に命じて処刑させました。
申侯の首は函(箱)に入れられ、孔叔が斉軍に献上します。
孔叔が言いました「寡君は誤って申侯の言を聞いてしまったため、貴君との友好を全うできませんでした。今、謹んで誅を行い、下臣を幕下に派遣して謝罪させました。君侯の赦宥(赦し)を請います。」
斉侯はかねてから孔叔の賢才を知っていたため、鄭との講和を許可しました。
こうして寧母で諸侯と会すことになります。
しかし鄭文公は王命を心配したため公然と会に参加することができませんでした。そこで世子・華を代わりに出席させて命を聞かせました。
 
 
 
*『東周列国志』第二十四回その三に続きます。