戦国時代31 東周烈王(二) 韓哀侯殺害 前373~370年

今回は東周烈王三年から六年です。
 
烈王三年
373年 戊申
 
[] 『史記・趙世家』によると、夏六月に雪が降りました。
 
[] 燕が林狐(または「林営」)で斉軍を破りました。
魯も斉を攻めて陽関に入りました。
魏も斉を攻めて博陵(または「鱄陵」)に至りました。
 
[] 燕僖公(釐公)が在位三十年で死に、子の桓公が立ちました。
 
[] 宋休公が死にました。『史記・宋微子世家』によると在位年数は二十三年です。子の辟兵(または璧兵)が立ちました。
史記・宋微子世家』『資治通鑑』は辟兵の諡号を辟公としていますが、『資治通鑑』胡三省注は「辟という諡号は『諡法』に記載されていない」と解説しています。
史記』の注(索隱)は『竹書紀年(古本)』から「桓侯・璧兵」という記述を引用しています。恐らく、名が辟兵で諡号桓公が正しいと思われます。
但し『世本(秦嘉謨輯補本)』を見ても諡号は辟公となっています。
 
[] 衛慎公が死にました。『史記・衛康叔世家』によると在位年数は四十二年です。
子の声公・訓(または「馴」)が立ちました。
『世本(秦嘉謨輯補本)』では「声公・訓」ではなく、「聖公・馳」となっています。
 
 
 
翌年は東周烈王四年です。
 
烈王四年
372年 己酉
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が太戊午(または「太成午」)を相にしました。
 
[] 趙が衛を攻めて七十三の都鄙(卿大夫の采邑)を取りました。
これは『史記・趙世家』と『資治通鑑』の記述です。胡三省注は、狭小な衛に七十三もの都鄙があったというのは誤りではないか、と疑問を呈しています。
 
[] 魏が北藺で趙軍を破りました。
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、衛が斉を攻めて薛陵を取りました。
 
 
 
翌年は東周烈王五年です。
 
烈王五年
371年 庚戍
 
[] 魏が楚を攻めて魯陽を取りました。
 
[] 韓の厳遂(厳仲子)が哀侯を殺しました。哀侯の在位年数は六年です。韓の国人は哀侯の子・懿侯を立てました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記・韓世家』では「厳遂」を「韓厳」としており、『史記・六国年表』は「懿侯」を「荘侯」としています(『韓世家』では「懿侯」です)
懿侯の名は『史記』や『資治通鑑』にはありませんが、『竹書紀年』(古本)では「懿侯・若」「若山」としています(下述)
 
資治通鑑』はここで厳遂が送った刺客が韓廆と哀侯を殺したとしています。以下、『資治通鑑』からです。
哀侯は韓廆を相としましたが、厳遂も寵信していました。その結果、韓廆と厳遂が対立するようになります。
厳遂は人を使って朝廷で韓廆を刺殺させました。韓廆は逃走して哀侯に救いを求めます。哀侯が韓廆を抱きかかえて助けようとしましたが、刺客は韓廆と哀侯の二人を殺しました。
 
資治通鑑』の「韓廆」は『戦国策・韓策二』の「韓傀」、『史記・刺客列伝』の「韓相・俠累」と同一人物のはずです。厳遂が送った刺客・聶政が俠累を暗殺した事件は東周安王五年(前397年)に書きました。
俠累暗殺は『史記』の『韓世家』『六国年表』を見ると韓烈侯三年(東周安王五年・前397年)に書かれていますが、同じ『史記』でも『刺客列伝』は韓哀侯時代の事としており、『戦国策』も『刺客列伝』にならって哀侯時代としています。但し、『刺客列伝』で殺されるのは俠累だけですが、『戦国策』では韓傀(俠累)と一緒に哀侯も殺されています。
そのため、『資治通鑑』は烈侯時代に聶政が俠累を殺し、哀侯時代に厳遂の別の刺客が韓廆(韓傀。『資治通鑑』は俠累と韓廆を別の人物としています)と哀侯の二人を殺したと解釈しています。
 
以下三つの可能性が考えられます。
史記』の『韓世家』『六国年表』が韓烈侯三年(東周安王五年・前397年)としているのが誤りで、本年に聶政が俠累(韓廆。韓傀)と哀侯を殺害した。
『戦国策』が誤りで、韓傀(俠累)と哀侯が殺されたのは別の事件。韓烈侯三年に韓傀が殺され、本年に哀侯が殺された。韓傀を殺したのは聶政。哀侯を殺した人物は不明(『史記・韓世家』と『六国年表』の記述です)
資治通鑑』が正しく、俠累と韓廆(韓傀)は別人で、韓烈侯三年に俠累が殺され、本年に韓廆と哀侯が殺された。俠累を殺したのは聶政。韓廆と哀侯を殺した人物は不明。
どれが正しいかは判断できません。
 
『古本竹書紀年』は哀侯の死を東周烈王元年(前375年)に、『今本竹書紀年』は烈王二年に書いています。
以下、『竹書紀年』の記述です。
まずは『今本』です「晋桓公が韓哀侯に鄭邑を与えた(鄭邑は韓が滅ぼした故鄭国です)。韓山堅がその君・哀侯を殺した。」
『古本』です「晋桓公が韓哀侯に鄭邑を与えた。韓山堅がその君・哀侯を殺し、韓若山を立てた。」
「韓若山」は「懿侯」、「韓山堅」は「韓厳(厳遂)」にあたります。
但し、『史記』『資治通鑑』では東周安王二十六年(前376年)に晋が滅亡したとしており、晋最後の国君は靖公(または「静公」)で、晋桓公の名も見られません。
 
[] 魏武侯が在位十六年で死にました(これは『史記・魏世家』『資治通鑑』の記述です。『古本竹書紀年』では在位年数が二十六年になります)
史記・魏世家』は子の恵公・罃が即位したとしています。
しかし『資治通鑑』は「魏武侯が太子を立てていなかったため、武侯の子・罃と公中緩が争って国内が乱れた」とし、恵公の即位を二年後(東周烈王七年・前369年)に書いています。
 
[] 『史記・趙世家』によると、趙が高安(河東)で秦軍と戦って破りました。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年、燕簡公が在位四十五年で死んだとしています。
史記』『資治通鑑』では、本年は燕桓公二年にあたります。
 
 
 
翌年は東周烈王六年です。
 
烈王六年
370年 辛亥
 
[] 『史記・田敬仲完世家』によると、斉威王(後に王を称すため「威王」としていますが、この時はまだ斉侯です)は即位してから政治を行わず、卿大夫に政治を任せてきました。その結果、九年の間(本年は威王九年です)に諸侯が頻繁に斉を攻撃し、国を安定させることができませんでした。
 
威王が即墨大夫を招いて言いました「子(汝)が即墨を治めるようになってから、毀言(批難の声)を聞かない日はなかった。そこでわしは人を送って即墨を視察させた。その結果わかったのは、田野が開拓され、人民が自給自足し、官(政府)には事(事件)がなく、東方に安寧をもたらしているということだった。子がわしの左右の者に仕えようとせず、助けを求めなかったのが(誹謗中傷の)原因だ。」
威王は即墨大夫に万家を封じました。
威王が阿大夫を招いて言いました「子が阿を守ってから、誉言(称賛の声)を聞かない日はなかった。そこでわしは人を送って阿を視察させた。その結果わかったのは、田野は開拓されておらず、人民は貧餒(貧困のため飢えていること)しているということだった。以前、趙が鄄を攻めたが子は援けなかった。衛が薛陵を取った時も子は無視した。子が厚幣によってわしの左右の者に仕え、誉を求めたのが(称賛の)原因だ。」
即日、威王は阿大夫を煮殺しました。
斉の群臣は恐れて粉飾をしなくなりました。官員が職務を全うし、斉国が大いに治まります。斉は一大強国に成長しました。
史記・田敬仲完世家』は「斉威王の政治を聞いた諸侯は、斉に対して二十余年も兵を用いなかった」と書いていますが、誇張があります。
 
史記・滑稽列伝』にも斉威王に関する故事があります。
淳于髠という人物がいました。斉の贅婿(斉の女性に婿入りした男)です。身長は七尺を満たしませんでしたが、滑稽多弁(機知に富んで弁舌が得意なこと)だったため、度々諸侯を訪問しても辱めを受けることがありませんでした。
斉威王は隠語(謎かけ)が好きでした。また、日々長夜の飲を楽しみ、政治を顧みず、全て卿大夫に任せていました。その結果、百官が荒乱し、諸侯が頻繁に侵攻して国の危亡が旦暮(朝夕)に迫りました。しかし左右には威王を諫言する者がいません。
そこで淳于髠が威王に隠語を伝えました「国内に大鳥がおり、王の庭にとまっていますが、三年間、飛ぶことも鳴くこともありません(三年不蜚又不鳴)。この鳥はどのような鳥でしょう。」
威王が言いました「その鳥は、飛ばない時は飛ばないが、一度飛んだら天を衝くだろう。鳴かない時は鳴かないが、一度鳴いたら人を驚かせるだろう(不飛則已,一飛沖天。不鳴則已,一鳴驚人)。」
威王は全県の令・長(長官)七十二人を招き、一人を賞して一人を誅しました。
また、兵を興して出撃しました。
諸侯は斉の威勢に驚き、斉を侵して奪った地を全て返還しました。威王の声威は三十六年にわたって天下を震わせました。
 
かつて春秋五覇の一人・楚荘王にもこれとほとんど同じ故事がありました。
 
[] 斉威王が周王室に来朝しました。
当時、周王室が微弱になり、諸侯で朝見する者がいませんでした。天下の人々は唯一朝見した斉威王を賢徳の君主として称えました。
 
[] 趙が斉を攻めて鄄に至りました。
これは『資治通鑑』および『史記』の『趙世家』『六国年表』の記述です。
史記・田敬仲完世家』には趙が鄄を取ったとあります。
 
[] 魏が懐で趙軍を破りました。
 
[] 『史記・趙世家』に「趙が鄭を攻めて破り、その地を韓に与えたため、韓が長子(地名)を趙に譲った」とありますが、当時、鄭は既に滅んでいます。
 
[] 楚粛王が在位十一年でしにました。
子がいなかったため、弟の良夫が立ちました。これを宣王といいます。
 
[] 宋辟公桓公が在位三年で死に、子の剔成(『世本』では「剔成君」)が立ちました(東周顕王十五年・前354年に再述します)
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)はこの年に「韓共侯、趙成侯が晋桓公を屯留(地名)に遷した」と書いており、この後、晋に関する記述がなくなります。
但し、韓の国君は共侯ではなく、懿侯(または「荘侯」)のはずです(前年参照)
また、『史記』『資治通鑑』は東周安王二十六年(前376年)に「魏、韓、趙が共に晋靖公(静公)を廃して家人(庶人)とした」と書いています。晋桓公の名は見られず、晋に関する記述も安王二十六年で終わっています。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年(魏恵成王元年)、昼なのに夜のように暗くなった(昼晦)と書いています。
 
 
 
次回に続きます。