第二十四回 召陵で楚大夫を礼款し、葵邱で周天子を奉戴する(四)

*今回は『東周列国志』第二十四回その四です。
 
会盟が終わってから桓公が宰孔に言いました「寡人は三代に封禅の事があったと聞いている。その典(決まり。方法)とはどのようなものだったのか、聞き得ることができるか?」
宰孔が言いました「古は泰山を封じ、梁父を禅しました。泰山を封じるには、土で壇を築き、金泥玉簡(玉で作った簡に祭文を書き、泥状にした金箔等で封をした物)を用いて天を祭り、天に功を報告します。天は高くにあるので、土を高く盛ることで天の象徴として崇めます。梁父を禅するには、地を掃いて祭り、地が低い場所にあることを象徴します。蒲で車を作り、葅稭(草)で藉(敷き物。座布団)を作り、祭りが終わったら埋めることで地に報告します。三代は命(天命)を受けて興隆し、天地から祐(福)を与えられたので、これらの祭祀を盛大に行って美徳に報いました。」
桓公が宰孔と諸侯に言いました「夏都は安邑にあり、商都は毫にあり、周都は豊鎬にあった。泰山も梁父もそれらの都城から遠く離れていたのに封禅を行った。今、二山とも寡人の封内にある。寡人は天王の寵を求め、この曠典(偉大な式典)を行いたいと思うが、諸君の意見は如何だ?」
宰孔は桓公が自分の功績に自身を持ち、驕りの色も表していたため、敢えて反対せずに言いました「貴君が善しとすることに誰が反対するでしょうか。」
桓公が言いました「明日になったら改めて諸君と議論しよう。」
諸侯は解散しました。
 
宰孔が個人的に管仲を訪ねて言いました「封禅は諸侯が口にするべき事ではありません。仲父が発言して諫止することができませんか?」
管仲が言いました「我が君は勝ち気が強いので正面から正すのは困難です。しかし陰でなら説得できるはずです。夷吾が話をしてみましょう。」
夜、管仲桓公を訪ねて問いました「主公は封禅を欲しているようですが、本当ですか?」
桓公が言いました「なぜ信じないのだ?」
管仲が言いました「古の封禅は、無懐氏から周成王に至るまで七十二家が明らかになっていますが、皆、命(天命)を受けてから行いました。」
桓公が怒って言いました「寡人は南は楚を伐って召陵に至り、北は山戎を伐って令支と孤竹を破り、西は流沙を渡って太行に至った。諸侯で逆らう者はいない。寡人は兵車の会を三回、衣裳の会を六回行い、諸侯を九合して天下を一匡(一つに正すこと)した。三代が命を受けたとはいえ、この功績を越えることができるか?泰山を封じ、梁父を禅して子孫に示すことに何の問題があるのだ?」
管仲が言いました「古の命を受けた者はまず禎祥(吉祥)によって徴が示され、それから祭物を準備して封禅を行ったのです。その式典は極めて隆備(盛大で完備)なものでした。鄗上の嘉黍、北里の嘉禾を盛って祭祀に供える食事としました。江淮(長江と淮水)の間に生える三脊茅(茅草)は『霊茅』といって王者が命を受けた時に生える物ですが、それを集めて藉(蓆)としました。東海には比目魚が至り、西海には比翼鳥(鶼鶼。伝説の鳥)が至り、招かなくても十五種類の祥瑞の物が現れました。その様子を史冊に書き記して子孫の栄誉としたのです。しかし今は鳳凰麒麟も現れず、鴟鴞(凶鳥。ふくろう)がしばしば訪れています。嘉禾が生えることもなく、蓬蒿(雑草)が繁茂しています。このような状況で封禅を行っても恐らく列国の有識者に笑われるだけです。」
桓公は黙って納得し、翌日、封禅を口にすることはありませんでした。
 
帰国した桓公は自分の功績に並ぶ者はいないと考え、宮室を拡大してますます壮麗にしました。乗輿服御(車馬や衣服)の制度も王者に匹敵するようになります。やがて国人が桓公の僭越を議論するようになりました。
すると管仲も自分の府中に三層の台を築いて「三帰之台」と命名しました。民人(民衆)が帰心し、諸侯が帰心し、四夷が帰心したという意味です。また、塞門(屋敷の門)に木を植えて内外を遮断し、反坫(会盟を行う時に杯を置く台)を設けて列国の使臣を接待しました。
鮑叔牙が管仲に問いました「主公が奢侈になったらあなたも奢侈になり、主公が越権したらあなたも越権するようになった。これでいいのか?」
管仲が答えました「人主は勤労を惜しまず功業を成した。今は一日の快意を満足させることで楽しんでいるだけだ。もしも礼によって厳しく縛ったら、主公は苦しくなって怠けてしまうだろう。私がこうしているのは、我が君に対する誹謗を分散させるためだ。」
鮑叔牙は口頭では「わかった(唯唯)」と言いましたが、心中では納得できませんでした。
 
周太宰・孔が葵邱で別れを告げて帰ってから、道中で晋献公に会いました。宰孔が言いました「会は既に終わりました。」
献公は足踏みして悔しみ、こう言いました「敝邑は遥か遠いので、衣裳の盛(同盟を結ぶ盛大な会盟の様子)を看ることができませんでした。縁がないのでしょうか。」
すると宰孔はこう言いました「貴君が悔しむ必要はありません。今の斉侯は自分の功績を誇って驕慢になっています。月は満ちたら欠け、水は満ちたら溢れるものです。斉が欠けて溢れるのはもうすぐでしょう。会に参加できなかったことを問題とする必要はありません。」
献公は車を返して西に向かいました。しかし途中で病にかかり、晋国に着くと死んでしまいました。そこから晋が大乱に陥ります。
 
晋の乱とはどういう事件だったのか、続きは次回です。