戦国時代32 東周烈王(三) 魏の内争 前369年

今回で東周烈王の時代が終わります。
 
烈王七年
369年 壬子
 
[] 日食がありました。
 
[] 東周烈王が死に、弟の扁が立ちました。これを顕王といいます。
なぜ弟が即位したのかはわかりません。
 
[] 二年前に魏武侯が死んでから、魏では内乱が起きています(東周烈王五年・前371年参照)
この年、大夫・王錯が韓に出奔しました(後述)
魏の公孫頎が韓懿侯に「魏は乱れています。取ることができます」と進言しました。
韓は趙と共に魏を攻撃します。
 
資治通鑑』胡三省注はここで王氏と公孫氏について解説しています。
王氏の起源は一つではありません。太原、琅邪(瑯琊)出身の王氏は周霊王の太子・晋の子孫です。北海、陳留出身の王氏は斉王・田和の子孫です。東海の王氏は姫姓から生まれました。高平、京兆の王氏は魏の信陵君戦国四君子の一人)の子孫です。天水、東平、新蔡、新野、山陽、中山、章武、東莱、河東の王氏は殷の王子・比干の子孫です。春秋時代には既に王氏が存在しますが、その由来を明確にするのは困難です。
胡三省注によると、公孫は黄帝の氏でした。
 
史記・魏世家』は魏の出来事を詳しく書いています。
公孫頎は宋から趙に入り、趙から韓に入って韓懿侯にこう言いました「魏罃と公中緩が太子の位を争っているのは貴君も聞いているでしょう。今、魏罃は王錯を得ましたが、領有するのは国の半分に当たる上党のみです。この機に魏罃と王錯を除けば必ず魏を破ることができます。機会を逃してはなりません。」
喜んだ韓懿侯は趙成侯と共に兵を出して濁沢沢)で魏軍に大勝しました。
 
資治通鑑』は王錯が魏から韓に出奔した後、韓と趙が魏を攻めたとしていますが、王錯が出奔したのは二国の攻撃を受けてからではないかと思われます。『竹書紀年』(今本・古本)では戦いの後に王錯が出奔したとしています。但し、なぜ出奔したのかはわかりません。
 
『竹書紀年』(古本)にはこういう記述があります「武侯元年、公子緩を封ず(東周安王十六年・前386年参照)。趙侯種(成侯)と韓懿侯が魏を攻めて蔡を取る。魏恵王が趙を攻め、濁陽(『今本』では「蜀陽」)を囲む。七年、公子緩が邯鄲に入って難を成す。」
「武侯」は恐らく魏の「恵王(恵成王)」の誤りです。「公子緩」は『史記』の「公中緩」と同一人物で、「濁陽」は「濁沢」と同じ場所です。「七年」は恐らく「七月」が正しいはずです(『今本竹書紀年』は東周烈王元年に「魏の公子・緩が邯鄲に入って難を成す」と書いていますが、恐らく誤りです
『古本竹書紀年輯校訂補』にこの記述の解釈があります。
魏武侯が太子を決めずに死んでしまったため、魏罃と公子緩が国君の地位を巡って争いました。その結果、魏罃が王錯の支持を得て即位します。魏罃は恵王といいます(後に王を称しますが、この時はまだ魏侯です)
即位した恵王は公子緩に邑を封じました(「武侯元年、公子緩を封ず」です)。但し、その場所がどこかははっきりしません。
権力争いに敗れた公子緩は恵王の封邑に誠意がないと感じ、身の危険を心配しました。そこで公孫頎を派遣し、趙・韓と共に魏を攻めました。
魏恵王は反撃して濁陽で趙・韓連合軍と戦います。
七月、公子・緩が邯鄲(趙)に入って挙兵しました。
 
『竹書紀年』(今本・古本)にはこのような記述もあります「梁恵成王元年、趙成侯・偃と韓懿侯・若が魏の葵を攻めた。」
趙成侯の名は種ですが、ここでは「偃」と書かれています。別名なのか誤記なのか分かりません。「葵」は上述の「蔡」と同じ場所のようです。字が似ているため、「蔡」と「葵」が混乱しているようです。
 
資治通鑑』に戻ります。
韓懿侯は趙成侯と兵を合わせて魏を攻撃し、濁沢で戦って大勝しました。
連合軍は魏都を包囲します。
趙成侯が言いました「罃(魏恵王)を殺して公中緩を擁立し、その地を割いて(奪って)兵を退けば、我々二国の利になります。」
しかし韓懿侯は反対してこう言いました「それはいけません。魏君を殺すのは暴です。地を割いて退くのは貪です。魏を二分するべきです(罃と公中緩の二君に治めさせるべきです)。魏を二分すれば宋・衛にもかなわなくなるので、我々も魏を憂いる必要がなくなります。」
趙が同意しなかったため、懿侯は不快になり、夜のうちに兵を引き上げました。
それを知って趙成侯も撤兵します。
その後、罃は公中緩を殺して正式に即位しました。これを魏恵王といいます。
太史公(『史記』の作者・司馬遷がこう言いました「魏恵王が殺されることなく、国を二分されることもなかったのは、二国の謀が不和だったからだ。もしも片方がもう片方の謀に従っていたら、魏は分裂していた。だから『国君が死んだ時、もし跡継ぎがいなかったらその国は敗れる(君終,無適子,其国可破也)』といわれているのだ。」
 
史記・魏世家』によると、この戦いの後、魏が馬陵で韓を破り、懐で趙を破りました。
また、『古本竹書紀年』は「梁恵成王元年,鄴師が邯鄲師を平陽で敗った」と書いています。鄴師は魏軍です。邯鄲師は趙軍ですが、公子・緩を支持する勢力だったはずです。
 
史記・趙世家』によると、中山が長城を築きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、この年(『竹書紀年』では梁恵成王二年。梁は魏の意味)、斉の田寿が魏を攻めて観を包囲しました。観は斉に降りました。
一説では「魏」は「趙」の誤りともいいます(『古本竹書紀年輯校訂補』)
史記』『資治通鑑』は翌年に書いています(『資治通鑑』は「観」を「観津」としています)
 
『竹書紀年』(今本・古本)はこの後に「魏の大夫・王錯が韓に出奔した」と書いています(上述)
 
[] 『史記・秦本紀』によると、この年の冬、桃が花を咲かせました。
また、『六国年表』は民に大疫が流行ったと書いています。
 
 
 
次回から東周顕王の時代です。