第二十五回 智荀息が虢を滅ぼし、窮百里が相を拝す(四)
*今回は『東周列国志』第二十五回その四です。
秦穆公は晋の媵の中に百里奚の名を見つけましたが、本人がいないため不思議に思いました。
すると公子・縶が言いました「かつて虞国の臣だった者です。逃走しました。」
公孫枝が答えました「賢人です。虞公を諫めても無駄だと知って諫めなかったのは智です。虞公に従って晋に行きながら義によって晋に仕えなかったのは忠です。しかも彼には経世の才があります。しかし時に恵まれませんでした。」
穆公が言いました「寡人が百里奚を得ることはできるか?」
公孫枝が言いました「奚の妻子は楚にいると聞きました。彼も楚に向かったはずです。人を楚に送って訪ねてみたら如何でしょうか。」
こうして使者が楚に派遣されました。
暫くして、使者が帰って報告しました「奚は海浜におり、楚君のために牧馬しています。」
穆公が言いました「重幣を贈って求めれば楚は同意するだろうか?」
公孫枝が言いました「百里奚は来ないでしょう。」
穆公がその理由を問うと、公孫枝が言いました「楚が百里奚を牧馬にしているのは、その賢を知らないからです。主公が重幣で求めたら、奚の賢を教えることになります。楚が奚の賢を知ったら必ず自分で用いるでしょう。我が国に送るはずがありません。媵から逃げた罪を口実に安く買い取るべきです。これは管夷吾が魯から逃れたのと同じです。」
穆公は「わかった(善)」と言うと、使者に羖羊(黒羊)の皮五枚を持たせて楚に派遣しました。
楚王は秦との関係を悪化させることを恐れ、東海の人に百里奚を捕えさせました。
百里奚が秦に送られる時、東海の人々は百里奚が殺されると思い、泣いて別れを惜しみました。しかし百里奚は笑ってこう言いました「秦君には伯王(覇王)の志があるという。一人の媵ごときのために慌てるはずがない。私を楚から求めたのは私を用いるためだろう。富貴を得るために行くのだ。なぜ泣く必要があるのか。」
百里奚は囚車に乗って去りました。
穆公が歳を聞くと、百里奚は「まだ七十歳です」と答えました。
穆公が嘆息して「惜しいことに老齢すぎる」と言いました。
すると百里奚はこう言いました「飛鳥を追わせ、猛獣と戦わせるのだとしたら、臣は既に年老いています。しかし座って国事を練るのなら、臣はまだ若すぎます。昔、呂尚(太公望)は八十歳の時に渭浜で釣りをし、文王の車に乗って帰りました。その後、尚父と呼ばれて周鼎(周の天下)を定めたのです。今日、臣は主公に出会うことができましたが、呂尚より十年も早いではありませんか。」
穆公は壮言を気に入り、姿勢を正して問いました「敝邑(秦国)は戎狄と隣接しており、中国の会盟にも参加していない。叟(老齢の男。ここでは「汝」)には寡人に教えることがあるか。敝邑が諸侯に遅れをとらなくてすむのなら幸いなことだ。」
百里奚が言いました「臣が亡国の虜であり、衰残の年(衰老の年。老年)であるにも関わらず、主公は虚心になって質問されました。臣が愚才を尽くさないわけにはいきません。雍岐の地は文武(西周文王・武王)が興隆した地であり、山は犬牙のように険しく、原は長蛇のように延びています。周がこれを守ることができず秦に譲ったのは、天が秦を開こうとしているからです。しかも、戎狄に隣接しているので兵が強く、会盟に参加していないので力も蓄えられています。西戎の間には数十の国があり、その地を兼併すれば農耕に足り、その民を使えば戦ができます。これらによって中国(中原)諸侯は主公と争えなくなります。主公は徳によって撫し、力によって征し、西陲(西部)を全て領有してから山川の険を確保して中国に臨むべきです。中国に隙ができた時に進めば、恩威は主公の掌中に握られ、伯業(覇業)を完成できます。」
二人は三日に渡って語り合いました。全て穆公を満足させる内容です。
百里奚は牛口の下で穆公に抜擢されたという言い伝えもあります。
しかし百里奚は上卿の位を辞退して代わりの者を推挙しました。
百里奚が推挙したのは誰か、続きは次回です