第二十五回 智荀息が虢を滅ぼし、窮百里が相を拝す(三)

*今回は『東周列国志』第二十五回その三です。
 
献公は虞公を連れて帰国し、殺そうとしました。しかし荀息が言いました「かれは騃豎子(愚かな小人)なので何もできません。」
献公は寓公(他国に住む貴族・官員。亡命者)を遇する礼を用いることにし、別の璧と馬を贈って言いました「道を借りた恵(恩)を忘れることはない。」
舟之僑は晋に仕えて大夫になります。
舟之僑が百里奚の賢才を推薦したため、献公が百里奚を用いるために舟之僑を派遣しました。しかし百里奚はこう言いました「旧君の世が終わったら(虞公が死んだら)晋に仕えてもよい。」
舟之僑はあきらめて去ります。
百里奚が嘆息して言いました「君子は難に遭っても仇国には行かないものだ。仕官などなおさらできない。私が仕官するとしても、それは晋ではない。」
この言葉を聞いた舟之僑は自分が批難されていると思い、不快になりました。
 
 
この時、秦穆公・任好が即位して六年が経っていました。まだ中宮(夫人)がいないため、大夫の公子・縶を晋に送って求婚し、晋侯の長女・伯姫を求めました。
晋献公は太史・蘇に筮で占わせ、『雷沢帰妹』の卦の第六爻を得ます。その繇(占の辞)はこうです「士が羊を割いても血は出ない。女が筐(竹籠)を持っても貺(福。実り)はない。西鄰の責言を償うことはできない(士刲羊,亦無衁也。女承筐,亦無貺也。西鄰責言,不可償也)。」
太史・蘇がこの辞を検討しました。秦国は西に位置し、そこに責言(譴責の言)があるということは、和睦の兆ではありません。また、『帰妹』は婚姻を意味しますが、『雷沢帰妹』の第六爻は「震」が「離」に変わる「睽」という卦に当たり、「睽」も「離」も吉の卦ではないとされたため(易の詳細はよくわかりません)、太史・蘇は今回の婚姻が相応しくないと判断しました。
献公は太卜・郭偃にも亀で卜わせました。郭偃の兆は「上吉」と出ます。その詞はこうです「松と柏が隣になり、代々舅甥となって三回我が君を安定させる。利は婚姻にあり、敵対に利はない(松柏為鄰,世作舅甥,三定我君。利於婚媾,不利寇)。」
史蘇が筮詞(筮占の結果)を主張して婚姻に反対しましたが、献公はこう言いました「昔から『筮に従うより卜(亀卜)に従え』という。卜では既に吉と出た。なぜそれに逆らうのだ。それに、秦は帝命(天帝の命)を受けたという。この後、秦は大きくなるだろう。拒否はできない。」
こうして婚姻が決定されました。
 
公子・縶が秦に帰る途中、一人の男に遭いました。顔は血を吐いたように赤く(面如噀血)、鼻が高くて髭が縮れています(隆準虯鬚)。両手で二つの鋤を持って田を耕しており、鋤は数尺も土に入ります。公子・縶が鋤を確認するため、左右の者に持って来させようとしましたが、重くて誰も持ち挙げられません。公子・縶が姓名を聞くと、男が答えました「氏は公孫、名は枝、字は子桑。晋君の疏族(遠い親族)です。」
公子・縶が問いました「子(汝)の才があれば、隴畝(田野)に屈している必要はないのではないか?」
公孫枝が言いました「誰も推挙する者がいません。」
公子・縶が言いました「私に従って秦で周遊しようとは思わないか?」
公孫枝が言いました「『士は己を知る者のために死ぬ(士為知己者死)』といいます。連れて行っていただけるのなら、それは私の願いです。」
公子・縶は公孫枝を同じ車に乗せて秦に帰り、穆公に話しました。穆公は公孫枝を大夫に任命します。
 
晋が婚姻に同意したため、穆公は再び公子・縶を派遣して晋に幣礼を納めました。伯姫が迎え入れられます。
晋侯が媵(新婦に同行する従者)について群臣に意見を求めると、舟之僑が進言しました「百里奚は晋に仕えることを願わず、その心は予測ができません。遠くに行かせるべきです。」
こうして百里奚が媵に選ばれました。
 
 
百里奚は虞国の人で、字を井伯といいます。三十余歳の時に杜氏を娶って一子が産まれました。
百里奚は家が貧しく不遇だったため、出遊しようと思いました。しかし妻子に支えがないことを心配してなかなか離れられません。すると杜氏が言いました「『男子の志は四方にある(男子志在四方)』といいます。あなたは壮年なのに出仕を図らず、この狭い地で妻子を守ったまま坐して困窮するつもりですか?妾(私)なら自給できます。心配いりません。」
家には一羽の伏雌(雌鶏)しかいませんでしたが、杜氏はそれをさばいて餞別にします。薪がないため扊扅(門閂)を取って火を焚きました。黄齏(漬物の一種)を摺り、脱粟脱穀しただけの米)で飯を炊きました。
満腹になった百里奚は妻子と別れます。妻は子を抱いたまま袂を引き、泣いて言いました「富貴を得ても忘れないでください。」
こうして百里奚は遠出しました。
まず斉に行って襄公に仕えようとしましたが、推挙する人がいません。久しく時間が過ぎ、困窮して銍の地で食物を乞う生活をするようになります。この時、四十歳でした。
 
銍人の蹇叔という者が百里奚を見てただ者ではないと思い、「子(あなた)は乞人(乞食)ではないはずです」と言って姓名を問いました。その後、食事に誘って時事について語り合います。すると百里奚は水が流れるように応答し、しかも理路整然としていました。蹇叔が嘆息して言いました「子の才がありながらこれほど窮困しているとは、これも命(天命)というものだろうか。」
蹇叔は百里奚を家に留めて兄弟の契りを結びました。蹇叔が一歳年上だったため、百里奚が蹇叔を兄と呼ぶようになります。
蹇叔の家も貧しかったため、百里奚は村に行って牛を養い、饔飱(食事)の足しにしました。
 
その頃、ちょうど斉で公子・無知が襄公を殺して即位し、標札を立てて賢才を招きました。
百里奚が応じようとすると蹇叔が言いました「先君の子が外にいるのに無知は分をわきまえず位を奪った。成功するはずがない。」
百里奚はあきらめました。
後に周の王子・頽が牛を愛し、牛飼いに厚糈(糈は精米。ここでは厚い俸禄)を与えていると聞きました。百里奚は蹇叔に別れを告げて周に行こうとします。蹇叔が戒めて言いました「丈夫は軽率に自分の身を人に捧げてはならない。一度仕えてそれを棄てたら不忠になる。仕えてから患難を共にすることになったら不智だ。弟は慎重にするべきだ。家の事を処理してから私も周に行って弟と再会しよう。」
百里奚は周に入って王子・頽に謁見し、牛を飼う術を披露しました。喜んだ王子・頽は家臣にしようとします。暫くして蹇叔も銍から周に来ました。百里奚は蹇叔を連れて王子・頽に会います。
退出した蹇叔が百里奚に言いました「頽は志が大きいが才は疎い。しかも周りにいるのは讒諂(讒言と追従)の人ばかりだ。非望(反逆)を窺っているはずだが、必ず失敗する。去った方がいい。」
百里奚は妻子と別れて久しいため虞に帰ろうとしました。すると蹇叔が言いました「虞には宮之奇という賢臣がおり、私の故人(旧友)だ。別れて久しいから私も彼を訪問してみようと思う。弟が虞に帰るのなら私も同行しよう。」
こうして二人は虞国に行きました。
 
その頃、百里奚の妻・杜氏は貧困のため自給できず、別の場所に流浪して行方が分からなくなっていました。家に帰った百里奚は悲しみに沈みます。
蹇叔は宮之奇に会いに行き、百里奚の賢才を語りました。宮之奇は百里奚を虞公に推挙し、虞公は百里奚を中大夫に任命しました。
しかし蹇叔が言いました「私が見るに、虞君は小人なのに自分の能力を信じている。彼も有為(有能)の主ではない。」
百里奚が言いました「弟(私)は久しく貧困の日々を送っており、魚が陸地に上がっているようなものです。早く一勺の水を得て自分にかけたいと思っています。」
蹇叔が言いました「弟が貧困のために仕官するのなら、私がそれを止めることはできない。後日、私を訪ねる機会があったら、私は宋の鳴鹿村にいる。その地は幽雅なので卜居(住む場所を卜って選ぶこと。引越しすること)するつもりだ。」
こうして蹇叔は別れ、百里奚は虞公に仕えることになりました。
 
しかし虞公は国を失います。百里奚は虞公から去らず、こう言いました「私は既に不智となった。そのうえ不忠になるわけにはいかない。」
晋に入って媵として秦に送られることになると、百里奚は嘆いて「私は済世(世を救う)の才を抱いてきたが、明主にめぐり会うことができず、大志を展開することもできなかった。しかも老齢に臨んで人の媵になるとは僕妾と同じだ。これ以上の屈辱はない」と言い、秦に向かう途中で逃走しました。
宋に向かいましたが道が塞がっていたため楚に入ります。宛城に来た時、狩りに出ていた宛の野人(郊外の民)百里奚を奸細(間諜)だと思い、捕えて縛りました。
百里奚が言いました「私は虞人です。国が亡んだので難を避けてここまで来ました。」
野人が問いました「汝には何の才能があるか?」
百里奚が言いました「牛を飼うのが得意です。」
野人は縄を解いて百里奚に牛を飼わせました。すると牛は数日で肥え太ります。喜んだ野人は楚王に報告しました。
楚王は百里奚を召してこう問いました「牛を飼うには道があるか?」
百里奚が答えました「時に応じて食べさせ、力の浪費を惜しみ、心を牛と一つにします(時其食,恤其力,心与牛而為一)。」
楚王は「子(汝)の言は素晴らしい(善哉)。それは牛だけではなく馬にも通じるはずだ」と言って圉人(馬を飼育する官)に任命しました。南海で牧馬をすることになります。
 
 
 
*『東周列国志』第二十五回その四に続きます。