戦国時代34 東周顕王(二) 石門の戦い 前365~362年

今回は東周顕王四年から七年です。
 
顕王四年
365年 丙辰
 
[] 魏が宋を攻撃しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記魏世家』によると、魏は宋を攻めて儀台(または「義台」。恐らく地名)を取りました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が衛を攻めて甄を取りました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、この年(東周顕王四年)夏四月甲寅(初九日)、魏が邦(国)を大梁に遷しました。
『古本竹書紀年』にも「梁恵成王六年(東周顕王四年)四月甲寅、邦を大梁に遷す」「恵王(恵成王)六年、安邑から大梁に遷る」「梁恵王九年(東周顕王七年)四月甲寅、都を大梁に遷す」という記述があります。
 
しかし当時の魏はまだ国力が充実しているので、遷都の必要がありません。『史記魏世家』『資治通鑑』は魏の遷都を東周顕王二十九年(前340年)に書いており、『史記索隠』は『竹書紀年』を誤りとしています(再述します)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏恵王が国有の領地だった逢忌の藪(逢池。逢沢)を開放して民に与えました。
魏ではかつて李悝が「地力を尽くす教え(尽地力之教)」を提唱しました。今回の政策も民の生産を向上させる目的があったと思われます。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、於越(越)の寺区の弟思がその君莽安(無余之。『史記越王句践世家』では「王之侯」)を殺しました。無顓が即位しました。
寺区と弟の思がどういう人物かはわかりません。
『古本竹書紀年輯校訂補』は莾安殺害を二年後の事としています。

[] 『竹書紀年』(古本)によると、この年(斉桓公十一年)桓公が国君の母を殺しました。
史記・田敬仲完世家』では既に桓公の子威王の時代になっており、本文にはこのことが書かれていません。注釈(索隠)が『竹書紀年』からこの出来事を引用しています。
 
 
 
翌年は東周顕王五年です。
 
顕王五年
364年 丁巳
 
[] 秦献公が三晋(魏韓)を石門(堯門山)で破って六万人を斬首しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「三晋」ではなく、「晋」としています。
『六国年表』には「章蟜が晋と石門で戦った」とあり、『集解』は「章蟜」を「一説では『車騎』」と解説しています。
『魏世家』と『韓世家』には石門の戦いに関する記述がありません。
『趙世家』を見ると「秦が魏を攻め、趙が石阿で援けた」とあるので、秦に敗れたのは魏趙連合軍だったようです(『資治通鑑』は『秦本紀』と『六国年表』の「晋」を「三晋」と解釈したようですが、恐らくこの「晋」は「魏」を指します)
 
[] 周顕王が晋を破った秦献公を祝賀し、黼黻の服を下賜しました。
資治通鑑』胡三省注には「黼黻」に関して二つの説が書かれています。
一つめは、「黼」は斧の形をした刺繍で、「黻」は二つの「己」の字が背中合わせになっている模様の刺繍という説です。
二つめは、白と黒の模様が「黼」、黒と青の模様が「黻」という説です。
 
この出来事について、『史記周本紀』は、周顕王が秦献公を賀し、献公は伯(覇者)を称したとしています。
また、『史記楚世家』は当時の様子を「秦が再び強くなり始め、三晋もますます大きくなった。魏恵王と斉威王が最も強盛だった」と書いています。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、郢で碧の雨が降りました。郢は楚の都、碧は緑の宝石です。
 
また「大地が突然十丈余も長くなり、一尺半も高くなった(地忽長十丈有余,高尺半)」という記述もあります。恐らくこれは魏の出来事です。
 
[] 『古本竹書紀年』に「(魏恵王)七年、公子緩が邯鄲に入って難を成す」と書かれていますが、恐らく「七年」は「七月」の誤りです。この出来事は東周烈王七年(前369年)に書きました。
 
 
 
翌年は東周顕王六年です。
 
顕王六年
363年 戊午
 
[] 『史記趙世家』には秦が魏の少梁を攻め、趙が魏を援けたとあります。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏軍が邯鄲(趙)を攻めて列人と肥を取りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、斉で黍の雨が降りました。
 
 
 
東周顕王七年です。
 
顕王七年
362年 己未
 
[] 魏が韓と趙を澮(澮水一帯)で破りました。
これは『資治通鑑』の記述です。
 
史記趙世家』は本年に「魏が澮で趙を破って皮牢を取った」としていますが、『六国年表』は本年に「魏が澮で韓と趙を破る」、翌年に「魏が趙の皮牢を取る」と書いています。
また、『魏世家』を見ると本年に「魏が澮で韓を破った(趙には触れていません)」、翌年に「趙を攻めて皮牢を取った」とあります。
『韓世家』には「魏が韓を澮で破った」と書かれているだけで、趙に触れていません。
澮の戦いで魏は韓趙連合軍と戦いましたが、主力は韓軍だったのかもしれません。連合軍を破った魏は勝ちに乗じて翌年に趙の皮牢を取ったと考えられます。
 
尚、『資治通鑑』胡三省注は、澮水の傍に皮牢城があると解説しています。但し、『資治通鑑』には魏が皮牢を取ったことが書かれていません。
 
[] 秦と魏が少梁で戦いました。魏軍が大敗して公孫痤が捕虜になりました。
これも『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』もほぼ同じ内容です。
『趙世家』には「秦献公が庶長(国は人名)に魏の少梁を討伐させ、魏の太子と(公孫)痤を捕えた」とあり、『六国年表』は「秦が魏と少梁で戦い、魏の太子を捕らえた」としています。
『魏世家』には「魏が少梁で秦と戦い、魏将公孫痤が捕らえられ、龐が占領された」とあります。
 
[] 衛声公が在位十一年で死に、子の成侯速が立ちました。
成侯の名を『資治通鑑』は「速」としていますが、『史記衛康叔世家』では「遬」、『世本』では「不逝」としています。但し『衛康叔世家』の注釈(索隠)は衛穆公の名が「遬」だったので、成侯の名も「遬」というのは誤りと注釈しています。
 
なお『衛康叔世家』には「成侯十一年に公孫鞅商鞅が秦に入る」とありますが、「十一年」は「元年」の誤りで、翌年(衛成侯元年)の出来事です。
 
[] 燕桓公が在位十一年で死に、子の文公が立ちました。
 
[] 秦献公が在位二十三年で死に、子の渠梁が立ちました。これを孝公といいます。
孝公はこの時二十一歳です。
史記秦本紀』は献公の在位年数を二十四年としていますが、恐らく誤りです。『史記六国年表』『資治通鑑』ともに二十三年になっています。
 
史記燕召公世家』には「この後、秦がますます強くなる」と書かれています。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙成侯と韓昭侯が上党で会しました。
 
[] 『史記六国年表』によると、この年、韓で三カ月にわたって大雨が降りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏が邯鄲(趙)に楡次と陽邑を与えました。
 
『古本竹書紀年』には「晋(魏)が泫氏を取る」という記述もあります。魏は趙に楡次と陽邑を与える代わりに、泫氏を得たようです(東周顕王十七年・前352年にも触れます)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏恵王が鄭(韓)釐侯(僖侯。昭侯。昭釐侯)と巫沙で会しました。
 
 
 
次回に続きます。