第三十三回 宋公が子昭を納れ、楚人が盟主を脅かす(中編)

*今回は『東周列国志』第三十三回中編です。
 
宋襄公は斉兵を破って世子・昭を国君に即位させてから、またとない奇功を立てたと信じ、斉桓公の代わりに諸侯に号令して盟主になりたいと思うようになりました。しかし大国が従わないことを恐れ、まず滕、曹、邾、の小国を集めて曹国の南で会盟することにしました。
ところが曹と邾の二君が来てから、滕子・嬰斉が遅れて到着しました。宋襄公は嬰斉を盟に参加させず、一室に拘留します。
君も宋の威を恐れて会に訪れましたが、期日から二日遅れました。
宋襄公が群臣に問いました「寡人が盟好を提唱したばかりなのに、小国のが怠慢で二日も遅れて来た。厳しく懲らしめなければ威を立てることができない!」
大夫の公子・蕩が言いました「かつて斉桓公は南征北討しましたが、東夷の衆だけは服していません。主公が中国(中原)に威を欲すのなら、先に東夷を服すべきです。そして、東夷を服すためには、子を使うべきです。」
襄公が問いました「どのように使うのだ?」
公子・蕩が言いました「睢水の辺に風雨をもたらす神がいるので、東夷は皆、社を建てており、四時(四季)の祭祀を欠かしたことがありません。主公が子を犧牲に使って睢神を祭れば、神が福を降すだけでなく、それを聞いた東夷が皆、主公には諸侯を殺す力もあると知り、恐れ敬って服従するはずです。その後、東夷の力を借りて諸侯を征伐すれば、伯業(覇業)を成すことができます。」
上卿である公子・目夷が諫めて言いました「いけません(不可,不可)。古では、小事において大牲を用いませんでした。命を重視するからです。相手が人ならなおさらです。祭祀とは人のために福を祈るものです。人を殺して人の福を祈っても、神は受け入れません(不饗)。そもそも、国には常祀(通常の祭祀)があり、宗伯が掌っています。睢水の河神は妖鬼に過ぎません。夷が祀るものを主公が祀っても、主公が夷に勝ることにはならないので、誰も主公に服しません。斉桓公は盟主になった四十年の間に、亡んだ国を存続させ、途絶えた祭祀を継承させたので、時間をかけて天下に徳を施すことができました。今、主公は一度の会盟だけで諸侯を殺戮し、しかも妖神に媚びようとしています。諸侯は恐れて我々に叛すことがあっても、服すことはないでしょう。」
公子・蕩が言いました「子魚の言は誤りです。主公が図る伯(覇業)は斉と異なります。斉桓公は国を制して二十余年も経ってから盟主になりました。主公はそれだけの時間を待てますか?緩においては徳を用い、急においては威を用いるものです。遅速の秩序を考えなければなりません。夷と同じことをしなければ夷は我々を疑います。諸侯を畏れさせなければ諸侯は我々を軽視します。内で軽視されて外に疑われたら、どうして伯を成すことができますか?昔、武王は紂の頭を斬り、太白旗に掲げて天下を得ました。これは諸侯(武王)が天子(紂)に対して行ったことです。小国の君に対して何を遠慮する必要があるのですか。主公は子を使うべきです。」
襄公はすぐにでも諸侯を得て覇者になりたいと思っていたため、目夷の諫言を聞かず、邾文公に命じて子を殺させました。子は煮られて睢水の神の祭りに使われます。
その後、襄公は人を送って東夷の君長を睢水の祭祀に招きましたが、東夷は元々宋公の政治に馴染んでいないため、誰も参加しませんでした。
子が殺されたと聞いた滕子・嬰斉は驚いて人を送り、重賂を使って釈放を求めました。襄公は嬰斉を釈放しました。
 
曹の大夫・僖負羈が曹共公・襄に言いました「宋は躁(性急)かつ虐(暴虐)なので必ず失敗します。帰るべきです。」
曹共公は宋襄公に別れを告げて去り、地主の礼(他国の主に対してその土地の主が用いる礼。会盟の地は曹国です)を用いませんでした。
宋襄公が怒って使者を送り、曹共公を譴責してこう伝えました「古では、国君が相見した時、脯(乾肉)・資(乾飯)・餼牢(殺した家畜)を準備して賓主(賓客と主人)の友好を修めたものだ。寡君が貴君の境上に逗留したのは一日のことではない。しかし三軍の衆はまだ主人の所属を知らない(財物によって慰労されていないから、この地の主人がどこにいるかわからない)。貴君はよく考えるべきだ。」
僖負羈が応えました「授館致餼(賓館を設けて食糧を提供すること)は朝聘(朝見・聘問)の常礼です。今回、貴君が公事(朝聘ではありません)によって南鄙(曹国の南境)に至ったので、寡人は命に従うために急いで駆けつけましたが、他に考えが及ぶ余裕はありませんでした(宋公を労う財物は準備していません)。貴君が主人の礼について譴責するのなら、寡君は強く慙愧します。ただ貴君の許しを請うだけです。」
曹共公は財物を贈らず帰ります。
襄公は激怒して曹を攻撃する命令を発しました。
公子・目夷が諫めて言いました「かつて斉桓公が会盟した場所は列国にありますが、多くを贈って少なく受け取り、施しの内容を責めず、会盟に参加しない者を誅すこともなく、人の能力に対して寛大で、人の情に対して慈しみを持ちました。曹が礼に欠けたところで主公に何の損があるのですか。兵を用いる必要はありません。」
しかし襄公は諫言を聞かず、公子・蕩に兵車三百乗を率いて曹城を包囲させました。
僖負羈は防備を整え、公子・蕩と三カ月にわたって対峙します。
 
この頃、鄭文公が楚に入朝し、その後、魯、斉、陳、蔡四国の君と連絡をとって斉国境で楚成王と盟を結ぶ約束をしました。
宋襄公はそれを聞いて驚愕します。斉・魯のどちらかが覇者を称したら、宋には対抗する力がありません。また、公子・蕩が曹攻撃に失敗したら、鋭気を挫かれて諸侯の笑い者になってしまいます。襄公は公子・蕩に帰国を命じました。
曹共公も宋軍の再出兵を恐れたため、人を送って宋に謝罪します。こうして宋と曹は以前のように和睦しました。
 
 
宋襄公は一心に伯(覇業)を求めていましたが、小国は宋に服さず、大国は遠くの楚と盟を結びました。襄公は心中で憤激し、公子・蕩と相談します。
公子・蕩が言いました「今の大国は斉と楚しかありません。しかし斉は伯主(覇者)の後代ですが、紛争が収まったばかりで国勢が張りません。楚は王号を僭称してにわかに中国(中原)と通じたため、諸侯に恐れられています。主公は辞を低くして厚幣を贈り、楚に対して諸侯を譲るように伝えるべきです。楚は必ずこれに同意します。楚の力を借りて諸侯を集めてから、諸侯の力を借りて楚を圧するのが、一時権宜臨機応変に対応すること)の計です。」
公子・目夷が反対して言いました「楚が諸侯を擁しているのに、なぜ我々に譲るのですか?我々が楚に諸侯を求めたら、楚が我々の下になるのですか?争端(争いの原因)はここから開かれるでしょう。」
襄公は目夷の意見を気にせず、公子・蕩に命じて厚賂を楚に贈らせました。
楚成王は公子・蕩を接見し、翌年春に鹿上の地で会見することに同意します。
公子・蕩が帰って襄公に報告すると、襄公はこう言いました「鹿上は斉の地だ。斉侯に伝えなければならない。」
襄公は再び公子・蕩を派遣して斉を聘問させてから、楚王と会見の約束をした事を伝えます。斉孝公も会見に同意しました。宋襄公十一年、周襄王十二年の出来事です。
 
翌年春正月、宋襄公が先に鹿上に至りました。盟壇を築いて斉・楚の国君を待ちます。
二月初旬、斉孝公が到着しました。襄公は孝公を即位させた功を自負しているため、徳色(恩恵を与えた時の表情)を表します。孝公も宋の徳に感謝しているため地主の礼を尽くしました。
二十余日後、楚成王がやっと到着しました。
宋・斉の二君が楚王に会い、爵位によって序列が決められます。楚は王号を名乗っていますが、実際は子爵なので、宋公が首、斉侯が次、楚子が最後になりました。これは宋襄公によって決められた序列です。
会盟の日、三君が共に鹿上の壇に登りました。襄公は当然のように盟主として先に牛耳を執り、謙遜する様子がありません。楚成王は心中不快でしたが、仕方なく歃血の儀式を行います。
襄公が拱手して言いました「茲父(宋襄公)は先代の後を継いで王家の賓客(宋は商王の子孫の国で、周王室は賓客とみなしていました)となり、徳薄力微でありながら、盟会の政を修復しようと欲しています。しかし人心が従わないことを恐れるので、二君の余威を借りて、秋八月に諸侯を敝邑の盂地に集めたいと思います。貴君が茲父を棄てないようなら、諸侯を率いて会盟に恩恵をもたらしてください。寡人は代々兄弟の好を厚くすることを願います。殷の先王以下、皆が貴君の賜(恩恵)に感謝します。寡人一人に対する恩恵ではありません。」
斉孝公が拱手して楚成王に回答を譲りました。成王も拱手して孝公に譲ります。二君は暫く譲り合いを続けました。
襄公が言いました「二君が寡人を棄てないようなら、共に署名を願います。」
襄公は会に招待する牘(木札)を取り出しましたが、斉侯には渡さず、先に楚成王に署名を求めました。孝公は心中不満をもちます。
楚成王が内容を見ると、牘には諸侯を集めて会盟を開くことが書かれていました。斉桓公の衣裳の会を真似して、兵車を従えないと定められています。牘の最後には既に宋公の署名がありました。
楚成王が秘かに笑って襄公に言いました「諸侯は貴君が自分で招くことができます。なぜ寡人が必要なのですか?」
襄公が言いました「鄭は久しく貴君の宇下(軒下。支配下におり、陳と蔡は最近、斉で盟を受けました。貴君の霊(福)を請わなければ、恐らく異同(反対意見)が生まれます。寡人には上国(貴国)の助けが必要です。」
楚成王が言いました「それならば斉君が署名するべきです。寡人は後でかまいません。」
斉孝公が言いました「寡人は宋の宇下に居るようなものです。得るのが困難なのは上国(貴国)の威令だけです。」
楚王は笑って署名し、筆を孝公に渡しました。
しかし孝公はこう言いました「楚があれば斉は必要ありません。寡人は流離万死の余なので、幸いにも社稷を失うことなく、末歃(会盟の序列の最後)に従うことができるだけで光栄です。寡人まで尊重されてこの簡牘を汚す必要はありません。」
孝公の心中では、宋襄公が先に楚王に署名を求めたため、襄公が楚を重視して斉を軽視していると知り、不快になっていました。頑なに署名を拒否したのはそのためです。しかし宋襄公は斉に恩があると自負しているため、孝公が本心から辞退したと信じて牘をしまいました。
三君は鹿上に数日滞在してから丁重に別れを告げて帰国しました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十三回後編に続きます。