第三十三回 宋公が子昭を納れ、楚人が盟主を脅かす(後編)

*今回は『東周列国志』第三十三回後編です。
 
楚成王は帰国してから令尹・子文に会盟の事を話しました。子文が言いました「宋君の狂は甚だしいものです。王はなぜ会盟の参加に同意したのですか?」
楚王が笑って言いました「寡人は中華の政の主になりたいと思って久しいが、今まで機会がなかった。今回、宋公が衣裳の会を提唱したから、寡人はそれを利用して諸侯を糾合するつもりだ。」
大夫・成得臣(子玉)が言いました「宋公の為人は名声を好むだけで実がなく、容易に信用して謀が少ないので、甲兵を隠して脅かせば虜にできるでしょう。」
楚王が言いました「寡人の意もまさにその通りだ。」
子文が問いました「会に参加することに同意しながら脅かしたら、人々は楚に信がないというでしょう。どうして諸侯を服すことができますか?」
得臣が言いました「宋は盟主になることを喜び、諸侯に対して驕慢な心を持っているはずです。諸侯はまだ宋の政に馴染んでいないので、宋に協力する者はいません。宋公を脅かして威を示し、捕えてから釈放すれば、徳を示すこともできます。宋の無能を恥じた諸侯は、楚に帰順しなければ他に帰順する国がなくなります。小信にこだわって大功を失うのは良策ではありません。」
子文が言いました「子玉の計は臣が及ぶところではありません。」
楚王は成得臣と鬥勃の二人を将とし、それぞれに勇士五百人を選ばせました。演習を繰り返して劫盟(劫は脅迫する、脅かす、奪うの意味)の計の準備をします。
 
 
一方、鹿上から帰った宋襄公は喜色を隠さず、公子・目夷に言いました「楚が諸侯を譲ることに同意した。」
目夷が諫めて言いました「楚は蛮夷なのでその心は測り知ることができません。主公がその口を得ても、その心は得ていません。恐らく偽りがあります。」
襄公が言いました「子魚は多心過ぎる。寡人は忠信によって人に接してきた。人が寡人を騙すと思うか?」
襄公は目夷の諫言を聞かず、諸侯を会盟に招く檄を飛ばしました。
 
襄公は先に人を派遣して盂地に壇場を築き、公館を増築しました。努めて華麗な建物にします。倉場には各国の軍馬の食糧にするため、大量な芻糧(糧草)を蓄えました。献享犒労の儀(慰労の宴)も盛大に行うために準備が進められます。
 
秋七月、宋襄公が車に乗って会に赴きました。
目夷が言いました「楚は強くて義がないので、兵車を向かわせてください。」
襄公が言いました「寡人が諸侯と『衣裳の会』を約束したのだ。もし兵車を用いたら、わしが約束したことを、わしが自分で破ることになる。それでは後日、諸侯に信を示せないではないか。」
目夷が言いました「主公は車に乗って信を全うしてください。臣が車百乗を三里の外に伏せて緩急(危急の事態)に備えます。」
襄公が言いました「子が兵車を用いるのと寡人が用いるのと何の違いがあるのだ。同意はできない。」
出発の時、襄公は目夷が兵を率いて後に従い信義を失うことを恐れたため、目夷にも同行を命じました。
目夷が言いました「臣も安心できないので、同行する必要があると思っていました。」
こうして君臣が会盟の場所に向かいます。
 
楚、陳、蔡、許、曹、鄭六国の主も期日通りに集まりました。しかし斉孝公は宋襄公に対して不満を持っており、魯僖公も楚と通じていなかったため、どちらも参加しませんでした。
襄公は候人を送って六国諸侯を迎えさせ、賓館を分けて休ませました。
候人が戻って報告しました「諸侯は皆、車に乗っています(兵車ではありません)。楚王は多数の侍従を従えていますが、やはり車に乗っています。」
襄公が言いました「楚がわしを騙すはずがないと信じていた。」
 
太史が吉日を卜い、襄公が各国に報せました。
会盟の数日前、壇上の執事(儀式を行う者)達の配置を決めました。
当日の早朝五鼓(五更。午前三時から五時)、壇の上下に庭燎(照明)が置かれ、白日のように照らされました。壇の傍には休憩する場所も設けてあります。
まず襄公が壇下に到着して諸侯を待ちました。陳穆公・穀、蔡荘公・甲午、鄭文公・捷、許僖公・業、曹共公・襄の五人が順に集まります。
久しく待って空が明るくなる頃、楚成王・熊惲がやっと現れました。
襄公が地主の礼に則って揖讓(主人と賓客の礼)を一通り行い、諸侯が左右に分かれて壇を登ります。
階段の右は賓(宋以外の諸侯)が登ります。諸侯は楚成王の前に行こうとせず、楚に首位を譲りました。成得臣と鬥勃の二将が成王に従って階段を上がります。他の諸侯も従行の臣を率いて後に続きました。
階段の左は主人である宋襄公と公子・目夷の二人が登りました。
 
階段を登る前は賓主(主人と客)という立場が論じられますが、盟壇に登って犠牲の前で歃血を行い、天に誓って載書に名を連ねる時は、盟主を定める必要があります。
宋襄公は楚王が口を開くのを持ちました。しかし襄公が目で合図を送っても、楚王は下を向くだけで何も言いません。
陳・蔡といった諸国も互いに顔を見合わすだけで、敢えて言葉を発しようとしません。
襄公は我慢できなくなり、意気揚々と進み出て言いました「今日の挙は、寡人が先伯主(先の覇者)・斉桓公の故業を修め、尊王安民、息兵罷戦(兵を休めて戦いを収めること)し、天下と共に太平の福を享受するために行った。諸国君の意見は如何だ?」
諸侯が何も言わない中、楚王が身を乗り出して言いました「貴君の言は素晴らしい。しかし盟主が誰なのかわからない。」
襄公が言いました「功があれば功に則り、功がなければ爵に則るものだ。今さら何を言うのだ。」
すると楚王が言いました「寡人の爵は王を名乗って久しい。宋は上公だが、王の前に列することはできない。寡人が先に立たせてもらおう。」
楚王が筆頭に立ちました。
目夷が襄公の袖を引いてここは我慢するように促しましたが、盟主になるつもりだった襄公は楚王の突然の豹変に激怒しました。顔色を変えて早口で楚王を譴責します「寡人は先代の福を得て上公の爵位を受け継ぎ、天子も賓客の礼で遇している。貴君は爵を称したが、それは僭号に過ぎない。假王(偽の王)が真公(本物の公)を圧すると言うのか!」
楚王が言いました「寡人が假王だというのなら、誰が汝に寡人を招かせたのだ?」
襄公が言いました「貴君がここに来たのは、鹿上であらかじめ相談した結果だ。寡人が約に背いたのではない。」
楚王に従っていた成得臣が大喝して言いました「今日の事は諸侯に聞くまでだ!楚のために来たのか!宋のために来たのか!」
陳と蔡は普段から楚を恐れていたため、声をそろえて言いました「我々は楚の命を奉じたので、参加しないわけにはいきませんでした。」
楚王が大笑いして言いました「宋君はまだ何か言うことがあるか?」
襄公は盟主になれないと悟りました。楚王に理を説きたくても楚王が理の長短を気にするはずもなく、逃げる方法を考えても甲冑も武器もないため、どうすることもできません。
すると成得臣と鬥勃が礼服を脱ぎました。中には重鎧を着ており、腰に小さい紅旗を挿しています。壇下に向かって旗を一振りすると、楚王に従っていた千人以上の衆が服を脱いで甲冑を見せました。手には暗器(武器)を持ち、蜂や蟻が群がるように壇上に向かって来ます。各国の諸侯は驚愕して魂が抜けたようになりました。
成得臣が宋襄公の両袖を強く握り、鬥勃と共に甲士達を指揮して壇上に並べられた玉帛器皿を奪いました。
執事(儀式を行う者)達は慌てて逃げ隠れします。
宋襄公が傍に従う公子・目夷に小さい声で言いました「子の言を聞かなかったことを後悔している。こうなってしまったからには、子は速やかに還って国を守れ。寡人のことを考える必要はない。」
目夷は襄公に従って留まっても無益だと判断し、混乱に乗じて逃げ帰りました。
 
宋襄公がどうやって危機から脱するか、続きは次回です。