戦国時代41 東周顕王(九) 覇者・秦孝公 前348~342年

今回は東周顕王二十一年から二十七年です。
 
顕王二十一年
癸酉 前348
 
[] 秦の商鞅が賦税法を改めました。
周代は井田制が行われていました。「井田制」は農民に私田と公田を与え、公田で収穫したものを国に納めさせるという制度です。しかし商鞅が井田制を廃止したため公田も無くなりました。国の収入源も閉ざされます。
そこで商鞅は新たな税法を制定し、農民の実収穫に基づいて一定の税を納めるように規定しました。
春秋時代後期に魯を始めとする中原諸国が同じような税制を開始しています。但し商鞅の改革は単純な税制の変化だけでなく、県制によって土地を整理し、度量衡を統一して一定の基準を作り、農業を振興させるための様々な法制を設ける(雑居を禁止して土地を開拓させる等)という、全面的な富国強兵政策の一環でした。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙粛侯が陰晋で魏恵王に会いました。
 
[] 『史記韓世家』によると、韓昭侯が秦に行きました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏の殷臣と趙の公孫裒が燕を攻撃し、兵を還して夏屋を取り、曲逆に築城しました。
 
 
 
翌年は東周顕王二十二年です。
 
顕王二十二年
347年 甲戌
 
[] 趙の公子范が邯鄲を襲いましたが、敗れて死にました。
 
この事件は『史記趙世家』『六国年表』『資治通鑑』に書かれていますが、詳細はわかりません。東周顕王十九年(前350年)の後継者争いに関係があるのかもしれません。趙では内争が頻発しています。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、壬寅(恐らく「壬寅の日」という意味ですが、何月かはわかりません)、魏の孫何が楚を攻撃し、三戸郛に入りました。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、楚が徐州を討伐しました。
『古本竹書紀年』にも「越子無顓が死んで十年後に楚が徐州を攻めた」とあります。本年が越王無顓が死んで十年目になります。
 
 
 
翌年は東周顕王二十三年です。
 
顕王二十三年
346年 乙亥
 
[] 斉が大夫牟を殺しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記田敬仲完世家』は「大夫牟辛を殺した」としています。
また、『史記集解』は「大夫」を「一説では『夫人』」と解説しています。
史記索隠』は「牟辛は大夫の姓と字」という説の他に、「年表も『夫人』と書いている」と注釈していますが、中華書局の『史記六国年表』には「夫人」ではなく「大夫牟辛」と書かれています。
 
[] 魯康公が在位九年で死に、子の景公(または「匽」)が立ちました。
これは『資治通鑑』と『史記魯周公世家』の記述を元にしました。
『魯周公世家』の注(集解)は康公の在位を「丁卯から乙亥の年まで」としています。乙亥の年は本年(顕王二十三年346年)です。しかし『六国年表』は二年後の東周顕王二十五年(前344年)に死んだとしています。
 
[] 衛は公爵の国でしたが、弱体化のため侯爵に落とし、三晋に服属しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙粛侯が周天子を朝見しました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏の魏章が鄭軍と共に楚を攻撃し、上蔡を取りました。


[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏の孫何が●陽(●は「氵」に「隱」。恐らく楚地)を取りました。


[] 『竹書紀年』(今本)によると、秦孝公が逢沢で諸侯と会しました。

資治通鑑』は三年後の東周顕王二十六年(前343年)に「秦の公子少官が逢沢で諸侯と会した」と書いており、『史記秦本紀』『六国年表』はその翌年(顕王二十七年)の事としています。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、絳中の地が裂けて西方で汾水が途絶えました。
 
 
 
翌年は東周顕王二十四年です。
 
顕王二十四年
345年 丙子
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏が馬陵で韓を破りました。
 
 
 
翌年は東周顕王二十五年です。
 
顕王二十五年
344年 丁丑
 
[] 諸侯が京師(洛陽)で会しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記周本紀』には「秦が周で諸侯と会した」とあります。『秦本紀』には記述がありません。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が斉を攻めて高唐を占領しました。
 
[] 『史記田敬仲完世家』によると、斉の公孫閲(または「公孫閈」)が成侯鄒忌にこう言いました「誰かに十金を与えて市で卜をさせ、『私は田忌の部下だ。田忌は三戦三勝して威声を天下に轟かせている。大事を行いたいと思うが、吉と出るか不吉と出るかを占いたい』と公言さましょう。」
鄒忌は田忌を嫌っていたため、公孫閲の進言を理解してすぐに実行しました。
市で卜をした者が去ると、鄒忌はすぐに人を派遣し、彼のために卜を行った者を逮捕しました。どのような卜をしたかを威王の前で問い質します。
それを聞いた田忌は自分の徒(兵)を率いて斉都臨淄を攻撃し、成侯を求めました。しかし勝てずに出奔しました。
 
この故事は『戦国策斉策一』にもあります。『資治通鑑』は田忌の出奔を二年後の東周顕王二十七年(前342年)に書いています(再述します)
 
[] 『史記六国年表』に「丹封名会。丹,魏大臣」とあります。丹は魏の大臣の名のようですが、その前の「丹封名会」の意味が分かりません。
 
 
 
翌年は東周顕王二十六年です。
 
顕王二十六年
343年 戊寅
 
[] 『史記六国年表』にはこの年に「秦が武城を築城した。東方の牡丘から戻った(城武城。従東方牡丘来帰)」と書かれています。『秦本紀』等に記述がないので詳細はわかりません。
 
[] 東周顕王が秦に伯(覇者)の任務を授けました。
諸侯が秦を祝賀します。
秦孝公が公子少官に命じ、兵を率いて逢沢で諸侯と会させてから、周王に朝見させました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
『今本竹書紀年』は三年前(東周顕王二十三年・前346年)に逢沢の会を書いています。
史記秦本紀』と『六国年表』は周が秦を伯に任命した事を本年、諸侯の祝賀と公子少官による逢沢の会、および周王の朝見を翌年の事としています。
また、『田敬仲完世家』は「斉宣王元年(翌年)、秦が商鞅を用いて、周が秦孝公を伯に任命した」とありますが、恐らく斉威王三十六年(本年)の誤りです。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の公子刻が魏の首垣を攻めました。
 
[] 『史記』によると、この年、斉威王が在位三十六年で死に、子の宣王・辟彊が立ちました。
『田敬仲完世家』『魏世家』『燕世家』『六国年表』に記述があります。
但し、威王の在位年数は『資治通鑑』等と大きく異なります(年表参照)
 
[] 『史記魏世家』によると、この年、中山君が魏の相になりました。
中山は魏文侯の時代に滅ぼされました。文侯の弟が中山君に封じられてその地を治めます。今回、魏の相になったのは、その子孫と思われます。
『六国年表』はこれを翌年の事としています。
 
[] 『今本竹書紀年』によると、魏の穰が梁赫で鄭(韓)の孔夜と戦い、鄭軍が破れました。
『古本竹書紀年』では、「穰」は「穰疵」「穰」「穰苴」と書かれています(版本によって異なります)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏が斉の田肹(田盼。田肦)と馬陵で戦いました。
馬陵の戦いに関しては二年後に詳述します。
 
 
 
翌年は東周顕王二十七年です。
 
顕王二十七年
342年 己卯
 
[] 『史記秦本紀』『六国年表』はこの年に「諸侯が秦孝公を祝賀し、秦の公子少官が逢沢で諸侯と会して周王を朝見した」としています(前年参照)
 
[] 『史記六国年表』によると、この年、中山君が魏の相になりました(前年参照)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、この年の五月、斉の田肹(田盼。田肦)と宋人が魏の東鄙(東境)を攻めて平陽を包囲しました。
九月には秦の衛鞅が魏の西鄙を攻撃しました。
十月、邯鄲(趙)が魏の北鄙を攻撃しました。
魏王が秦の衛鞅を攻めましたが、魏軍が敗退しました。
 
上述の通り、『竹書紀年』は前年に馬陵の戦いを書いています。
東周顕王二十六年(前年)に馬陵で魏が斉に大敗したため、顕王二十七年(本年)、各国が魏の辺境を侵した、というのが『竹書紀年』の記述です。
史記』『資治通鑑』は馬陵の戦いの年を翌年(顕王二十八年)としており、その翌年(顕王二十九年)に秦趙が魏を攻撃しています。
『竹書紀年』は魏の史書なので、魏に関する内容の多くは恐らく『竹書紀年』の方が信憑性があります(但し大梁遷都の年は『竹書紀年』の誤りだと思われます。東周顕王四年365年参照)
 
 
 
次回に続きます。