第三十七回 介子推が綿上で焚死し、太叔帯が宮中に入る(二)

*今回は『東周列国志』第三十七回その二です。
 
晋文公が復国の論功行賞を行うために群臣を集めました。賞は三等に分けられます。亡命に従った者が首功、文公の帰国を助けた者が二等、文公を迎え入れて帰順した者が三等です。この三等の中でもそれぞれ功労の軽重によって賞が定められました。
第一等の亡命に従った者の中では趙衰と狐偃が最上とされ、狐毛、胥臣、魏犨、狐射姑、先軫、顛頡が続きます。
第二等の帰国を助けた者では欒枝と郤溱が最上とされ、士会、舟之僑、孫伯糾、祁満等が続きます。
第三等の文公を迎え入れて投降した者では郤歩揚と韓簡が最上とされ、梁繇靡、家僕徒、郤乞、先蔑、屠撃等が続きます。
采地がない者には地を与え、采地がある者には益封(加封)しました。
文公は白璧五双を狐偃に下賜し、「帰国前に璧を河黄河に投じた。これがあの時の報いだ」と言いました。
また、狐突の冤死を想って晋陽の馬鞍山に廟を建てました。後の人はこの山を狐突山とよぶようになります。
 
文公が詔令を国門(都の城門)に掛けました。そこにはこう書かれています「功労を立てたのに認められていない者は、自ら進言することを許す。」
小臣・壺叔が進言しました「臣は蒲城から主公に従い、四方を奔走して足踵も裂けるほどでした。留まれば寝食に侍り、出発する時には車馬を準備し、一刻も左右から離れたことがありません。主公は既に従亡を賞されましたが、賞が臣に及ばないのは臣が何か罪を犯したからでしょうか。」
文公が言いました「汝よ、ここに来なさい。寡人が説明しよう。仁義によってわしを導き、わしの肺俯(心の奥)を開いて通じさせた者に上賞を与えた。謀議によってわしを補佐し、わしに諸侯の辱めを受けさせなかった者に次賞を与えた。矢石や鋒鏑(矛や矢)に立ち向かい、身をもって寡人を守った者に三等の賞を与えた。上賞は徳を賞し、次賞は才を賞し、三賞は功を賞したのだ。奔走の労とは匹夫の力(功績)であり、これらの後に賞されるべきだ。三賞の後に汝にも賞が及ぶことになる。」
壺叔は恥じ入って心服し、退出しました。
 
文公は大量の金帛を使って全ての輿僕隸(地位が低い従者)を賞したため、皆、感謝して喜びました。
しかし魏犨と顛頡の二人は自分の才勇に自身があったのに、辞令(言葉)だけで文公に仕えてきた趙衰や狐偃といった文臣が自分より上の賞を得たため、心中不満になり、怨みを口にすることもありました。文公はそれを知りましたが、二人の功労に免じて何も言いませんでした。
 
亡命に従った者の中には介子推もいました。その狷介(清廉潔癖)は並ぶ者がいないほどです。
黄河を渡る時に狐偃が自分の功績を誇る発言をしました。介子推はそれを聞いてから狐偃を軽蔑するようになり、同列にいることを恥としています。そのため、文公が即位してから群臣と共に朝賀しましたが、その一回を最後に入朝することがなくなり、病と称して家に籠ってしまいました。甘んじて清貧を守り、自ら履物を織って生計を立て、老母を養っています。
晋侯が群臣を集めて論功行賞を行った時も介子推は現れませんでした。文公は介子推への行賞を忘れてしまいます。
介子推の鄰人・解張は介子推に賞が与えられなかったことに不満でした。ある日、国門の上に掛けられている詔令を見つけました。功を立てたのに認められていない者がいたら自ら名乗り出るように書かれています。そこで解張は介子推の家の門を叩き、詔令の内容を伝えました。ところが介子推は笑うだけで何も言いません。
厨にいた老母が話しを聞いて介子推に言いました「汝は十九年も労を尽くし、股を割いて国君を救ったこともあります。その労苦は小さくないのに、なぜ自ら名乗り出ないのですか。数鍾の粟米をいただいて朝夕の饔飱(食事)にすることができれば、履物を織って生活するよりもましではありませんか。」
介子推が言いました「献公には九人の子がいましたが、主公が最も賢才をもっていました。恵公と懐公は徳がなかったため、天がその助を奪い、国を主公に属させたのです。ところが諸臣は天意を知らず、功績を争っています。私はこれを恥とします。終生、履物を織って暮らすとしても、天の功を自分の力としたいとは思いません。」
老母が言いました「汝に禄を求めるつもりがないとしても、入朝して一見するべきです。そうすれば、汝が股を割いた労苦も忘れられることがないでしょう。」
介子推が言いました「孩児(私)は国君に対して求めるものがありません。一見して何になるのでしょう。」
老母が言いました「汝が廉士になれるのなら、私も廉士の母になれます。母子二人で深山に隠れましょう。市井の中で溷(汚れ)にまみれる必要はありません。」
介子推が喜んで言いました「孩児は以前から綿上(綿山の上)が好きでした。あそこは高山深谷の地です。今こそ綿上に行きましょう。」
介子推は母を背負って綿上に奔り、深谷の中に廬(草屋)を建てました。草を衣服とし、木の実を食べて生涯を送ります。
 
介子推の周りに住んでいた者達は介子推がどこに行ったか知りませんでしたが、解張だけは知っていました。文公の行賞に不満な解張は書を準備し、夜の間に朝門に掛けます。
翌朝、文公が設朝(朝廷の会を開くこと)すると、近臣が解張の書を持ってきました。そこには詩が書かれています「英才非凡な龍がいたが、悲しいことに居場所を失う。数匹の蛇が従い、天下を周流する。龍が飢えて食を乞い、一蛇が股を割く。龍は淵に帰り、壤土を安んじる。数匹の蛇は穴に入り、それぞれ寧宇(安定した居場所)を持つ。一蛇だけ穴がなく、中野で号泣する(有龍矯矯,悲失其所。数蛇従之,周流天下。龍飢乏食,一蛇割股。龍返於淵,安其壤土。数蛇入穴,皆有寧宇。一蛇無穴,号於中野)
読み終わった文公は驚いて言いました「これは介子推の怨詞だ!かつて寡人は衛を越えたところで食を乞い、子推が股を割いて進めた。今、寡人は功臣を大いに賞したが、子推一人を残してしまった。寡人の過ちは言い訳ができない。」
文公はすぐに人を送って介子推を招かせました。しかし介子推は既にいません。
文公は介子推の近所に住む者を捕まえて詰問し、介子推の居場所を報告した者には官を与えると約束しました。
解張が言いました「あの書は子推が書いたのではありません。小人が代わりに書いたのです。子推は賞を求めることを恥じて、母を背負って綿上の深谷に隠れました。小人は彼の功労が埋没することを恐れ、書を掲げて代わりに伝えたのです。」
文公が言いました「汝が書を掲げなかったら、寡人は子推の功を忘れるところだった。」
解張は下大夫に任命されました。
 
即日、文公は車に乗って綿山に向かいました。解張が先導します。
そこは高い峰が並び、草樹が茂り、川の水がゆっくりと絶えることなく流れ、時折、雲が通りすぎ、林鳥の群れが鳴くと山谷にこだまする、人の世界とは全く異なる場所でした。
文公一行がいくら探しても介子推の足取りを見つけることができません。
文公の近臣が数人の農夫を連れて来ました。文公が自ら問うと、農夫はこう言いました「数日前、ある者が一人の漢子(男)を見ました。彼は老嫗(老婆)を背負っており、この山の下で休んで水を老嫗に飲ませてから、また老嫗を背負って山を登って行きました。今はもうどこにいるのか分かりません。」
文公は山下で車を止めさせ、人を四方に送ってことごとく探させましたが、数日経っても進展がありません。
文公が怒って解張に言いました「子推はなぜこれほどまで寡人を怨んでいるのだ。子推はとても孝行だと聞いた。火を放って山林を焼けば、必ず母を背負って出て来るはずだ。」
魏犨が言いました「従亡(亡命)の日々においては皆に功労があります。子推だけではありません。今、子推は身を隠して主公に強要し、車駕を逗留させて無駄な時を費やさせています。火を避けて出て来たら、臣が辱めてやりましょう。」
魏犨は軍士を山の前後に送って周りに放火させました。火は烈しく風も強いため、瞬く間に数里が燃え尽くされ、三日経ってやっと火が消えます。しかし介子推は山から出ることなく、母と抱き合ったまま枯柳の下で死んでしまいました。軍士が死体を見つけて文公に報告します。
死体を見た文公は涙を流して綿山の下に埋葬するように命じ、祠を建てて祀りました。山の周りの田が祠田とされ、そこに住む農夫が毎年の祭祀を管理することになります。
文公が言いました「綿山を介山に改名し、寡人の過ちを後世に伝えよう。」
後に綿上に「介休」という県が立てられました。介子推が休息した地という意味です。
 
林を焼いたのは三月五日清明の頃でした。介子推を思慕する国人は、介子推が火で死んだため火を使うことが忍びず、一カ月間、冷食(火を使わない食事)をとることにしました。この習慣は後に三日間に短縮されます。今(明清時代)でも太原、上党、西河、雁門の各地域では、毎年冬至の百五日後になると乾糒(乾し飯)を用意し、冷水で食べるという風習が残されています。これを「禁火」または「禁煙」といいます。
また、清明節の一日前を寒食節(冷食の日)とし、各家の門に柳を挿して介子推の魂を招くようになりました。野祭(屋外の祭祀)を設けて紙銭を焼くこともありますが、これも介子推を祀るための行事です。
 
文公は群臣の賞を定めてから国政を修め、善才を抜擢して能力に応じて用い、刑罰を省いて税を軽くし、商業の交流を盛んにさせて他国の賓客を礼遇し、身寄りがない者を助けて貧困を救済しました。こうして晋国の政治が大いに正されるようになります。
周襄王は太宰の周公・孔と内使の叔興を晋に派遣して、文公に侯伯の命を下賜しました。文公は礼を加えて周の使者をもてなします。
帰国した叔興が襄王に報告しました「晋侯は必ず諸侯の伯(覇者)となります。善く遇すべきです。」
この後、襄王は斉を疎遠にして晋と親しむようになりました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十七回その三に続きます。